第56話 燐火
暗闇にほのかな水色の光が浮かぶ。周囲を丸く照らしながら、闇を下りて行く。他に光はなく、音もない。ただしんしんと雪が降り続いている。見上げても星はなく、下りても下りても地面にたどり着かない。ひたすらに暗い世界が延々と続く。水色の光は下りるのをやめた。けれど闇には何の変化もない。ここには何もないのだ。この世界に満ちていた物たちは、すべて失われた。もはや取り返しはつかない。水色の光は、ふっと消え去った。
水色に輝くリーリアは目を開けた。そしてつぶやく。
「何もなかった」
「何てこったい」
魔道士バーミュラは、これは参ったという風に、ため息をつきながらワシワシと頭を掻く。ミアノステスの宿屋の一室。戻って来たランシャとリーリア姫に皆が安堵したのもつかの間、ランシャの意識は失われたまま戻らなかった。そこでラミロア・ベルチアが頭の内に潜ってみたのだが。
「つまりどういう事だ」
顔の十字傷を歪めて隊長がたずねる。
「ランシャはもう起きないって事か」
「いいや、いずれ目覚めはするだろう。ただし、目覚めたランシャはもう我々が知るランシャではなくなっているかも知れない」
水色のリーリアがそう答えた。
「やはり記憶が失われているでござるか」
問うライ・ミンに、ラミロア・ベルチアはうなずく。
「完全に無に帰した訳ではないが、何かを期待するのは無理だろう」
その同じ口がこう続けた。
「私のせいです」
リーリアの体から、水色の輝きが消えていた。
「私が希望など持ったから」
「そういう言い方はおやめ。責任を感じるのは勝手だけどね、何でも『自分が自分が』は鼻につくよ」
叱るバーミュラに目を向けず、リーリアは横たわるランシャを見ていた。ランシャだけを見つめていた。沈黙がその場を包み込む。
そこに声を上げたのは、ナーラム。細いアゴに触れながら周囲を見回した。
「ランシャの事も心配だけどよ、そもそもこれからどうするんだ、俺たち。やっぱり氷の山脈に向かうのか」
小太りのキナンジが言う。
「他にできる事、なくね?」
しかしルルが反論した。
「いや、それならもうお姫さんが直接氷の山脈に飛べば終わる話だろ。アタシらは必要ない」
「理屈はそうだが、それでも俺らは最後まで仕事をやり遂げにゃならん。じゃなきゃ金にならんしな」
そう口にした隊長に対し、部屋の中でも魔弓キュロプスを抱えたウィラットがつぶやく。
「実際のところどうなのです。いまでもリーリア姫を生け贄に供する事ができますか」
隊長は小さく笑って見せた。
「正直、情は移ってるさ。だから卑怯なようだが、俺らはザンビエンのところまで行かない。氷の山脈の麓でお別れだ。そもそも、最初からそういう契約だからな」
「つまり、氷の山脈の麓までたどり着けば、その先リーリア姫が何をどうしようが意に介さないと」
「ま、そういうこった。少なくとも俺らの責任ではなくなる。麓には小さな村があってな、村長の家に顔を出してリーヌラまで早馬を走らせてもらえば、仕事は全部終りだ」
すると部屋の隅に居たタルアン王子が声を上げた。
「ならばこういうのはどうだ。いますぐその村にまで奉賛隊を全員飛ばして、そこで解散するのだ。後の事はそのときに考えるとして」
「考えたって同じさね」
懸命に笑顔を作るタルアンに、バーミュラが鼻を鳴らす。
「ザンビエンが逃がすつもりはないって言ってるんだ、この世界におまえさんたちが逃げる場所はもうないんだよ」
「しかし、しかしだな」
「しかしもカカシもない。もし一つだけ方法があるとするなら、そりゃザンビエンと戦って勝つしかないだろ。そんな事のできるヤツがこの世に居るとは思えないけどね」
再び重い沈黙。そこに聞こえる小さなつぶやき声。
「……できる者が一人居ると言えば居るでござるが」
部屋中の視線がライ・ミンに集まる。だがバーミュラは面白くもなさそうにため息をついた。
「そいつは誰だい。まさかギーア=タムールとか言うんじゃなかろうね」
「ギーア=タムールと言おうとしたのでござるが」
「アホか。話も通じない化け物に、期待なんぞできる訳があるかい。だいたい相手は封印されてるんだよ、どうやってそれを解くんだ」
「問題はそこでござるよ。何か知恵がないものでござろうか」
ライ・ミンの口元には笑みが浮かんでいるが、冗談で言っているようには見えなかった。そしてそれを理解しているからだろう、バーミュラは一層不機嫌になる。
「魔道博士に出せない知恵が、他から出るなんて思うもんじゃないよ。それにね、ギーア=タムールの封印が解かれたりしたら、また大戦争がおっ始まるのは確定だ。それじゃ何にもならないだろう」
「果たしてそうでござろうか」
ライ・ミンは横たわるランシャと、その隣に座り続けるリーリアに目をやった。
「世界のすべての人々が真に平和を望むなら、この世は平和になるのでござろう。しかしそれは不可能でござるよ。人はみな自分の幸せを第一に望むものでござる。それは独善なのではなく、自然なのではござらんか。一人の人間にそれ以上を考えよと押しつける事こそ、傲慢なように思えるのでござるが」
「そりゃ立派なお考えだ。おまえさん魔道士やめて坊主にでもなっちゃどうだい」
バーミュラは、そっぽを向いてしまった。ライ・ミンは苦笑する。他の皆はまたどうしたものかと困り顔を見せる。
人間たちがそうこう頭をひねっているとき、世界はすでに別の方向へと転がり始めていたのだが。
青い大空を流れる銀色の河は、神教国ダナラムの首都、グアラグアラに伸びる。その中心地であるフーブ神殿では、いままさに時代のうねりが起きようとしていた。天井から降る銀色の光の中、横たわるのは小さな影。ブカブカの鎧を身にまとう、三本角で右腕のない子供。その目が、ゆっくりと開いた。
「……ここは」
「お目覚めですかな、炎竜皇」
光が作る輪の外側に、三つの影が立っている。それを力ない目で見回して、ジクスは一度目を閉じた。
「そうか、フーブ神殿か」
「いかにも」
光の外で『早耳』のコレフ師がうなずいた。
「我らがフーブ神の取り計らいにより、あなたを客人としてお迎え致しました」
「思い出したよ、フーブがボクを助けてくれたんだ……どういうつもりかは知らないけど」
ジクスの目が開き、天井を見つめた。『遠目』のツアト師が言う。
「あのままなら、あなたはザンビエンに殺されておりました。我らが神は、それを黙って見てはいられなかったのでありましょう」
「それはおかしいよ。フーブにはもうそんな感情は残っていないはずだから」
微笑むジクスの言葉を、コレフ師が聞きとがめる。
「それはあまりなお言葉。自らの救い主を愚弄なさるのか」
「年上にはそれなりの敬意を払うものだよ、子供たち」
そうつぶやくと、ジクスは静かに身を起こした。そして失われた右腕を見つめる。
「ランシャの右腕を奪って、自分の右腕を失ったのか。なんてマヌケだ」
小さくため息をつくと、再び天井を見上げた。
「助けてくれた事は感謝する。でもそろそろ理由か目的を教えてくれないか」
「ではお話し致しましょう」
光の輪の外側に、四つ目の影が現れた。女の声。長く輝く銀髪を揺らして。
「間もなく時が満ちます」
「時が満ちる? 何の時かな」
「ご存じないのは無理もありません。それはこの世界でフーブだけが数え刻んだ時。けれどガステリア大陸の四聖魔すべてにかかわる重大な時。時が満ちる前にあなたを失う訳には行かなかったのです」
「それで。その時が満ちると何が起こるの」
ジクスの顔は興味なしと告げている。しかし続く風の巫女の言葉に、その表情は変わらざるを得なかった。
「天使が降臨します」
「イヤよイヤイヤ、やな感じ」
「何だかとっても、やな感じ」
二人の道化が空を見上げる。さっきまで横たわっていた銀色の河は、薄まり見えなくなりつつあった。ゲンゼル王もつられて見上げる。
「フーブが何か企んでいるとでも言うのか」
しかし道化は揃って首を振った。
「企んでるのはフーブじゃないよ」
「もっと怖いヤツらの企み」
ゲンゼルがジロリとにらむ。
「何か隠しているのではあるまいな」
二人の道化はクルクル回りながらケラケラ笑う。
「隠すだなんてとんでもないね」
「隠せるのなら隠してるよね」
「話したボクらに感謝しないと」
「イヤでも感謝することになるけど」
ギン! 硬い物同士が激しく打ち合う音。銀色の神槍と氷の魔剣がぶつかる。
「陛下、ご決断を!」
魔剣レキンシェルを振るいながら叫ぶのは、魔道士ダリアム・ゴーントレー。神槍と神盾を相手に大立ち回りを演じている。しかしゲンゼルの返事はそっけない。
「何を決断せよと申すか」
「ふざけている場合ではございません! ただちにグアラグアラへの進撃を!」
そこに稲妻の如く空を裂き、ゲンゼルに向けて駆け上がる神槍グアラ・キアス。風音が叫ぶ。
「そんな事はさせない!」
「遅い!」
一瞬で前に回り込んだダリアムが大上段から斬り下ろしたものの、割り込んだ神盾グアラ・ザンが受け止めた。放射状に氷の帯が広がり、砕けて落ちる。ダリアムも、風切と風音の二人も、距離を置いて体勢を立て直した。
「見事な戦いぶりよな。魔道士にしておくのは惜しいほどだ」
感情のこもらぬゲンゼルの感想に、ダリアムは振り返りもせず文句を垂れる。
「何故動かぬのです。この二人の足が止まったいまこそ好機でございましょうに」
「そなたには見えておらぬのか」
「……は?」
ダリアムは一瞬ゲンゼルを振り返った。その顔に困惑を浮かべて。王は空を見つめたままでつぶやく。
「これから起こる事が見えているのではないのか、と申しておるのだ。その晶玉の眼にな」
ダリアムはゲンゼル王に背を向け、風切と風音の二人と対峙している。
「おっしゃる意味がわかりかねます」
「このまま余がグアラグアラに攻め込めば、何が起こる。それを知っていて余に近付いたのであろう。王たるもの、利用されてやるのはやぶさかではないが、タダとは行かぬな」
想定外の展開に、風切と風音は身構えたままで動かない。道化の二人も耳をそばだてている。
「何も」
ダリアムは言った。
「陛下がグアラグアラに向かう事により起こるのは、ただの争いでございます。取り立てて申し上げる事は何もございません。ただ」
その口が、小さく歪んだ。
「間もなく時が満ちます」
「ほう、何の時が満ちるというのか」
ゲンゼルの視線がダリアムに向かう。魔道士は魔剣を下ろし、一つため息をついた。
「それはおそらく、この世界でフーブだけが数え、刻み続けた時。それが満ちる瞬間、フーブをグアラグアラに足止めしておくのが我が目的。より正しくは、フーブと炎竜皇ジクスをこの地に釘付けにするために、陛下にご協力頂きたく願う所存」
「その時が満ちれば、何がどうなる」
ゲンゼルの問いに、ダリアムは素直に答える。
「天使が降臨いたします」
「天使だと」
「いかにも。霊峰タムールの頂に、天界より天使が降臨するのです。青璧の巨人を解放するために」
振り返ったダリアム・ゴーントレーの目は輝いていた。青白く、燐火の如く。
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