第55話 万物流転
雲の上、何もない世界を高速で駆け抜ける白いリーリア。彗星のように長い尾を引き、音よりも速く移動する。両腕にランシャの体を抱いたまま。だが、逃げ切れない。目の前に現れるのは巨大な燃える左手と、暗黒の深淵を右手に携えた三本角の子供。その都度リーリアは角度を変えて飛び去ろうとするのだが、そのたびにジクスは前に回り込む。
「追いかけっこも、もう終わりだよ」
「おや、随分と苦しそうだ」
白いリーリアはニッと歯を剥き出す。確かにジクスの顔にはもう余裕がない。
「なるほど。炎竜皇の力は巨大過ぎて、使いっぱなしにはできないのだね」
「黙れ」
「いままで何度か戦って、淡泊なヤツだとは思っていたが、そういう事か。時間制限があるのかい」
「おまえはすぐ死ぬんだ、関係ない」
「そう上手く行くかねえ」
「行くさ!」
ジクスの左手が宙を駆ける。広げられた燃える手は巨大な火の鳥となり、それ自身が意志を持つかのようにリーリアに襲いかかった。その翼の一撃をかろうじてかわしたものの、急降下したリーリアの目の前には、すでに回り込んだジクスが暗黒の右手をかざして待ち構えている。
「これで終わりだ!」
「
吼えるリーリアの周囲に無数の、幾万幾億の水の槍が現出し、空間を埋め尽くしたかと思うと、全方向からジクスに対する包囲攻撃を敢行した。だがそのすべてが右手に飲み込まれて行く。次の瞬間。
「勝ったな」
それはジクスの声ではない。リーリアの声でもない。遠い地の底から響くが如きその声は、リーリアに抱かれたランシャの口から発せられていた。いや、それはもはやランシャではなかった。いつの間にか全身を氷で覆われた、人間大の氷の四足獣。記憶の中の存在よりもはるかに小さい。だがその姿は、紛うことなき魔獣ザンビエン。
驚いたリーリアは、思わず抱いていた両手を放す。途端、放たれた矢の如くザンビエンは天を駆けた。ジクスに向かって。凍った左腕を振りかざし、頭を狙う。しかしジクスは的確にその攻撃を右手で受けた。ザンビエンの左腕が、肩まで暗闇に飲み込まれる。
「貴様には才覚がない」
ザンビエンは耳まで裂けた氷の口をニイッと歪ませた。
「無双の力は持ち腐れだ」
ジクスは驚愕の面持ちで至近距離のザンビエンを見つめた。その顔は蒼白で、体は震えているように見える。
「……何をした」
「貴様の右手の深淵は、異界につながっているのだろう」
あらゆる物を飲み込むジクスの暗黒の右手から、白い冷気がにじみ出す。
「つまりこれまで飲み込まれた水は、すべて異界に届いているはず。その水を、凍らせた」
「呪いの氷、だと」
「無論それだけでは面白くない。故に異界の水をすべて凍らせる事にした」
「な、馬鹿な!」
「異界の水がすべて呪いの氷と化したとき、貴様に力を与える天竜地竜はどうなるのだろうな」
「やめろ!」
ザンビエンの頭上から、巨大な火の鳥が落下してくる。空は赤く染められ、灼熱に包まれた。けれどザンビエンは微動だにしない。ジクスは右手からザンビエンを引き抜こうと慌てて後退したが、何かが引っかかって抜けなかった。
「逃げたいか、ジクリジクフェル」
ザンビエンの両目が、暗く輝く。
「逃がれたくば、すべての封を解け。そして自らを失うがいい」
「くっそぉっ!」
ジクスは戻って来た燃える左手をザンビエンに押しつけながら、両脚で氷の魔獣を何度も蹴った。高熱の蒸気が吹き荒れたものの、相手は離れない。
「もはやすべては無駄。さあ、諦めて封を解け。か弱き竜族よ!」
それを聞いて、ジクスの目が輝いた。頭の三本角の真ん中に亀裂が入る。そのとき。
赤い空を切り裂いて、風が吹いた。銀色の風が。
ザンビエンが思わず
「フーブか」
いまだ深淵につながるジクスの右腕をつかむと、ザンビエンは己の左腕を一気に引き抜いた。無理矢理な強引さに深淵の穴は砕かれ、中から見渡す限りの大空を埋め尽くす、大量の氷の断片が現れる。だがそれらは一瞬の後に溶け、大雨となって地上に降り注いだ。
ザンビエンは後ろを振り返る。青い空の中、灰の白に身を染めたリーリアが浮かんでいた。
「人の憎悪に感化されたか。相変わらず甘い事よな、ラミロア・ベルチア」
するとリーリアの足の先から灰の白さは薄まり、水色の輝きが現れて来る。それが頭頂まで達したとき、水色のリーリアは微笑んだ。
「そういうおまえも人に動かされたのではないのか、ザンビエン」
「我は己の生け贄を確保しに来たに過ぎぬ」
魔獣は面白くもなさそうに視線を外した。その背にラミロア・ベルチアは言う。
「その事だが」
「聞けぬな」
ザンビエンは言葉を遮った。
「魔族は人の影に暮らすもの。精霊は森の陰に暮らすもの。我らは人と距離を置かねばならぬ」
「ならば生け贄など」
「なればこその生け贄だ。精霊の力は容易には触れ得ぬと、末代まで知らしめるためにはな」
「その巨大な力を、生け贄によってさらに大きくするのか。何のために」
「まだ決着がついていない」
「決着?」
「フーブが動いた。ならば、次に動くのは誰だ」
しばしの間を置いて、ラミロア・ベルチアはその名を口にした。
「……ギーア=タムールが動くというのか」
「もし青璧の巨人が動くのなら、そのときには天界が動く。ヤツの封印が解かれたなら、我の封印も解かれる。それに備えねばならん」
「また世界を巻き込んで戦うつもりなのか」
するとザンビエンは少し意外そうな顔をして、水色のリーリアを横目で見つめた。
「あのとき貴様がこの世界を滅ぼしておけば、起きなかったはずの争いだ。その口で誰を責める」
滅ぼしておけば良かった、滅ぼすべきだったとザンビエンは言いたい訳ではない。逆だ。自らが統べていた世界を無責任にも放り出し、あまつさえ滅亡の淵にまで追い込んだラミロア・ベルチアを遠回しに非難しているのだ。すべての厄災は貴様から始まっているのだ、と。
視線を落とす水の大精霊に向かって、氷の精霊王は告げた。
「生け贄はここで喰ろうてやっても良いが、この小僧との約束もある。時間をやろう」
「待て」
水色のリーリアは顔を上げた。
「どんな約束をしたのだ」
「すべて」
ザンビエンは言う。
「魔獣奉賛士サイーの遺産、魔道士としての記憶、そして我に関する知識のすべて、すなわち人間がこのザンビエンに干渉し得るためのあらゆる情報を我に差し出す、そういう約束だ」
「だが、それではあまりに」
「命ごと差し出せという事もできたが、我はそうしなかった。感謝をされても文句を言われる筋合いなどない」
断固たる言葉に、ラミロア・ベルチアは何も言い返せなかった。しばしの沈黙を、硬く小さな音が破る。
ピシリ。
ザンビエンの顔にヒビが入った。次いで腕にも、脚にも、体にも無数のヒビが入って行く。
「小僧は返す。生け贄はすぐに届けよ。逃げられるなどと思わぬ事だ」
ザンビエンの体は砕けると、すべては水滴となり地面に向かった。中から出て来たランシャの体をリーリアの腕が捕まえ、抱き寄せる。二人の姿は水滴の後を追うように少し降下すると、不意に消え去った。
土煙を巻き上げる竜巻が、岩陰や茂みに隠れる伏兵を、次々に空へと飛ばす。それを天に浮遊しながら見下ろすゲンゼル。その少し下で魔道士ダリアム・ゴーントレーが竜巻を操り、さらに下を二人の道化がフワフワ漂う。
「四箇所目、あそれ四箇所目」
「あとは十箇所、あと
「まだ倍以上残して、あと僅かはおかしいだろう」
ダリアムが苦々しげにつぶやく。道化たちはおかしそうに笑い声を上げた。
「細かい細かい。人間は細かいな」
「悪いぞ悪いぞ、胃に悪いぞ」
この二人の相手をしている方が体に悪そうだ、ダリアムがそんな事を思ったとき。道化の笑い声が止まった。
「来るよ来る来る、お邪魔虫」
「来たよ来た来た、懲りもせず」
中天に銀色の光が奔ると、斜めに断たれた竜巻は、勢いを失ってほどけるように消え去った。その向こう側には、神槍グアラ・キアスを構える風音と、神盾グアラ・ザンを掲げる風切。
「ダリアム・ゴーントレー」
ゲンゼルが口を開いた。
「そなたに任せる」
チラリとゲンゼルを見上げたダリアムは、小さなため息をついた。
「……御意にございます」
「ゲンゼル、覚悟!」
稲妻の速度で飛び出す風音に、白い冷気の帯が迫る。かろうじて前に出たグアラ・ザンに阻まれたものの、周囲にはあらゆる物が氷結する硬い音が響いた。ダリアムをにらみつけた風切は、その右手にある白い刃を見て驚いた。
「レキンシェルだと」
「いかにも、これは魔剣レキンシェル」
返すダリアムに、重ねる風切。
「何故それがここにある」
「万物は流転する。それだけの話だ」
問答無用か、と風切と風音が構えたその遙か上空を、ごうごうと音を立てて何かが横切って行く。その場の一同は思わず見上げた。青空を背に横たわっていたのは、銀色の河。その先端はダナラムの首都グアラグアラに向かっているように見える。
魔道士ダリアムはゲンゼルに告げる。
「フーブでございますな」
「邪神めが、我らには気付かぬと見える」
ゲンゼルの顔に浮かんだのは、苦笑のようにも見えた。風音が再び神槍を構え直す。
「我らが神は、おまえ如き小さき相手には目などくれない」
「無駄に太りすぎた邪神には、己の足下が見えぬのだろう。こちらとしては助かる話だ」
「冒涜は許さない!」
神槍グアラ・キアスの力を借りて、風音はゲンゼルへと矢のように飛ぶ。だがその前に立ちはだかるのは、ダリアム・ゴーントレーとレキンシェル。振り下ろされた魔剣とそれを受ける神槍。白い火花が飛んだ。
「場を読めぬ小娘だ」
「邪魔だ、どけ!」
「どかせてみれば良かろう」
「押し通る!」
神槍の先端から放たれる銀色の光は、空を裂き大地を焼く。もし槍が上を向いていればと思わせるだけの破壊力はあった。しかしいまそれは下を向いている。魔道士ダリアムが右手一本で振るう魔剣レキンシェルに抑えられて。
「大きな力を与えられて、自らが強くなったと思ったか」
「何だと」
風音は燃えるような視線でダリアムを射貫く。だが相手は凍り付くような目でそれを見つめ返した。
「使いこなせぬ力など、ないに等しい」
「知った風な事を!」
風音は渾身の力を込めて敵の刃をはね除けようとした。だが白い氷の魔剣は山塊のように重く動かない。このままでは不利だ。風音はやむを得ず槍を引いた。だが、やはり動かない。上下左右、どこにも動かせなかった。ここに至り、自分が蜘蛛の巣にかかった蝶の如く、敵に捕らえられたのだとようやく理解した。ダリアムの口が開いて行く。その奥に、白い炎が見えた。
次の瞬間、風音の周囲を包む閃光。僅かに遅れて響く轟音。ダメージを受け、全身から煙を上げながら跳ね飛ばされたのは、ダリアム・ゴーントレーだった。風音の顔の前に浮かぶ銀色の盾。それが瞬時に風切の手元に戻る。
ダリアムの灰色のローブは地面に墜落するかと思われたが、途中で止まった。
「やれ面倒な」
自嘲するかの如き薄ら笑いを口元に浮かべ、魔人は再び舞い上がった。
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