第54話 目的と覚悟

「いとかしこき氷の王たるザンビエン、諸々のまがごとあらむをばはらいたまい清めたまえと申す事を聞こし召せとかしこみかしこみ申す」


 目の前には白く長いヒゲの、太った犬のような印象の老人がいる。


「いまのは難しそうに聞こえるが、昔から伝わる定型の挨拶だ。意味など考えずに丸暗記すれば良い」


「何故、俺はこんなところに居るんだ、サイー」


 しんしんと雪の降る荒野。いつか見たような気もするし、まだ見ぬ場所のようにも思える。右手を失ったランシャは立ち尽くし、困惑していた。魔獣奉賛士サイーは小さく苦笑する。


「何故を問うても詮無い事よ。おまえは炎竜皇ジクスに打ちのめされ、意識を失い、再び我が前に現れたのだ。日に何度も忙しい」


 そう言われれば、そんな気がする。ランシャの心に薄ら焦りが浮かんだ。


「なら、戻らないと」


「いま戻って何になる。何もできはせん。おまえは敗れた。もう一度立ち向かっても無意味に敗れ去るだろう。まずは落ち着け」


 サイーはコホン、と息を整えた。


「これはすでにおまえの中に遺産としてある物だが、思い出すまで待っていては、すべてが終わってしまうでな。急いで頭に叩き込むのだ。良いか、ザンビエンは気難しい精霊で、手順にこだわりが強く、怖気おぞけを嫌う。だがそれは、キチンと手順を踏み、相手を恐れなければ、無視はされぬという事でもある。ザンビエンに近付こうとして殺された者は多いが、どちらかが、もしくは両方が欠けていたのだろう」


 これは魔獣奉賛士としての心得の話か。だが、どうしていまこれを話す必要があるのだろう。そんな場合ではない気がする。ではどんな場合だ。わからない。ランシャの頭は混乱していた。


「手順と言っても難しい物ではない。定型の呪文も用いられるが、儀礼的なものに過ぎん。そもそもザンビエンを操る呪文など存在しない。それは人間の力の及ぶところではないからだ。すなわち、ザンビエンを動かすためには儀式や典礼以上の何かが必要とされる。それが何か、わかるかな」


 ランシャは力なく首を振った。サイーは、それで良いという風にうなずく。


「目的と覚悟だ。自分が何を目的としてザンビエンの力を欲し、それにどれほどの覚悟を持っているか、この二つが明確であれば、ザンビエンは話を聞いてくれよう。そしてこの二つが強ければ、力を貸してくれるやも知れない。付け加えるなら、その事を誰に学んだかをあらかじめ明らかにしておけば、話も早い」


「ザンビエンの力を借りろ、という事なのか」


「おまえは魔剣レキンシェルを使っていた。ならばザンビエンとて知らぬ相手ではない。手順を踏み、相手を恐れず、確固たる目的と覚悟を示せば、力を授けてくれるだろう」


 サイーの言葉には自信と信頼が浮かぶ。ランシャならできると考えているのだ。だが当の本人は、それを素直に受け取れない。


「俺にできるのだろうか」


「やらねばリーリア姫が無意味に死ぬ。炎竜皇ジクスは異界の竜神より流れ込む無限の力を湧き出させる、言わば動く火山のようなもの。人の力で御せる相手ではない。他に選ぶべき道は残されておらんのだよ」


 サイーの言葉に、ランシャは顔を上げた。




 空を埋める黒雲の上に立ち上がる竜巻が、ジクスを飲み込まんと迫る。だが逆にジクスの右手に飲み込まれてしまう。回転する水の円盤が切り刻もうと襲いかかっても、無数の鋭い水の槍が貫こうと飛来しても、すべては右手の闇の中に吸い込まれた。鉄壁の防御。


「無駄だよ」


 ジクスは微笑むものの、その顔にはどこか余裕がない。一方、灰の白さに包まれたリーリアは、飲み込まれても飲み込まれても、次々に攻撃を繰り出した。この世界のあらゆる怒りと憎悪をぶつけるかのように。ランシャの体を抱きしめながら。


 黒雲の上に突き出す何本もの水の触手がムチのようにしなり、小さな水の刃が大量に嵐となって吹き荒れる。かつて世界の水を統べた大精霊ラミロア・ベルチアの力に、限りがあるとは思えなかった。


 それでもジクスは太陽の如く揺るがない。


「ボクには勝てないんだ」


 リーリアの攻撃をことごとく右手の中に飲み込みながら、ジクスは炎の左手を振るった。どんな水も一瞬で蒸発させる灼熱を相手に叩き付ける。白いリーリアはそれをかわして距離を取ろうとするが、ジクスはその動きを読んで先々に回り込んだ。雲の上の空、何もさえぎる物が存在しない場所で、リーリアは徐々に追い詰められて行く。




 砂漠の帝国アルハグラの北に位置する山岳国家、神教国ダナラム。その険しい山道を埋め尽くすように内側へ、内側へと歩みを進めるアルハグラの兵団。途中にある村や町を攻め落とし、兵を徴発して膨張し続ける彼らが目指すのは、ダナラムの首都グアラグアラである。


 巨大な山の神のむくろが横たわる山頂から下界を行進する兵たちを眺めて、灰色の衣に身を包んだ魔道士ダリアム・ゴーントレーは小さくため息をついた。


「不服そうだな」


 その声に振り返れば、山の神の死体を尻の下に敷き、腰を下ろすいわおのような男。地面に突き立てた青い聖剣リンドヘルドを杖のようにして、体を休めている。不遜な態度ではあるが、彼に不遜などという言葉を使う者こそ不遜であろう。アルハグラの帝王ゲンゼルは、さして興味もなさそうにダリアムを横目で見つめていた。


 ダリアムはうやうやしく頭を下げると氷のような目で見つめ返す。


「何故フーブ神殿にまで一気に攻め込まないのです」


いくさには二つある」


 魔道士の問いに帝王は応えた。


「一つは武将の戦。これは単純で明解、相手の将の首を落とせば済む話だ。だがもう一つ、国の戦はいささか面倒となる。これは下手な絵のようなもの、余白を放置しては成り立たぬ。すべてを塗り潰さねばならない。たとえ三老師を討ち、風の巫女を討ち、フーブを倒したとしても、それだけでは話にならん」


「国境からグアラグアラに至る地域を、すべて軍事的に制圧する必要があると」


 ゲンゼルは静かにうなずいた。


「ダナラムの聖滅団は隣接する各国で暗躍し、暗殺を行った。それで反抗の意思を奪われた国も確かにある。だがダナラムの版図は広がらなかった。三老師などは広げるつもりがなかったと言うのだろうが、そうではない。広げたくともできなかったのだ」


「つまり、あなた様はいま版図を広げる戦をなさっておられるとおっしゃる」


「それのみが目的ではなくとも、それもまた目的だ。王としてなさねばならん」


 ダリアムは困ったような顔で空を見上げた。


「戦とはもう少し簡単なものだと思っておりました」


「余とて、そうであって欲しいと思うがな」


 そう言いながらゲンゼルは視線を動かした。その先の空間に、不意に現れる二つの小柄な影。


「戻って来ました、やっとの事で」


「魔族使いの、お荒い事で」


 二人の道化は歌って踊る。


「この先しばらく見回ってきたが」


「道中の半分くらい見てきたが」


「伏兵、伏兵、また伏兵」


「魔族の兵は見当たらず」


 ゲンゼルはわかっていたかのように、うなずきもせずこうたずねた。


「それで、その伏兵は潰したのだろうな」


 すると道化は、さらに大袈裟に踊って見せる。


「さあさあ、そこで群がる敵を、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ」


「したかったけど、あちこち多すぎて無理」


 ゲンゼルはゆっくりと立ち上がった。


「頼りにならぬヤツらだ」


 そして青い空を見上げて、こう声を上げた。


「見ているのであろう、遠目! 聞いているのであろう、早耳! 余はこれより貴様らの伏兵をしらみ潰しに叩く。そこで指をくわえて眺めているが良い!」


 そして一気に上空に舞い上がる。二人の道化が後に続き、少し間を置いてダリアムが続いた。




「おのれゲンゼルめ、好き放題やりおって」


 ダナラムの三老師が一人、『早耳』のコレフ師が悔しげに地団駄を踏んだ。それを『遠目』のツアト師がなだめる。


「しかし炎の如く一気に攻め込んでくるやと思うておったが、意外と堅実じゃったの」


「敵を褒めとる場合か。それより、ジクスはどうなっておるのだ」


「変わらぬよ。まだリーヌラの上でラミロア・ベルチアと戦っておる」


 ツアト師は、二つ名の通り遠い眼でどこかを見つめてそう言う。コレフ師は一つため息をついた。


「よもやラミロア・ベルチアが出て来るなどとは、さすがに思わなんだが」


「さすがにな。じゃが、時代が変わろうとしておるのだ、何があっても不思議はないのやも知れぬ」


 そのツアト師の言葉を打ち消すように、若い女の声がした。


「不思議などありません」


 無言で座る『大口』のハリド師が後ろを振り返ると、長い銀色の髪の少女が立つ。


「フーブの奇跡の前には、あらゆる不思議は崩れ去ります。世界は正しい秩序を得るでしょう」


 風の巫女は小さく微笑んだ。




「魔獣奉賛士サイーの弟子、ランシャ。御前にまかり通る」


 冷厳な静謐せいひつに反応はない。ランシャは暗闇で一際声を上げた。


「いとかしこき氷の王たるザンビエン、諸々の禍事あらむをば祓いたまい清めたまえと」


――やかましい


 闇の中から遠い声がする。遠い、だが圧倒的に巨大な気配。


――あの生意気な奉賛士の弟子というから誰かと思えば、貴様か、小僧。何用だ


「ザンビエン、頼みがある」


――聞けぬな


 迷惑げなその声に、ランシャは一瞬躊躇した。


――我はいま、手一杯だ。他を当たれ


「生け贄が奪われてもか」


 闇の奥から見つめる視線が、わずかに揺らいだ。


「いま炎竜皇ジクスがリーリア姫の命を奪おうとしている。それはおまえにとって不利益ではないのか」


――ほう……我を恐れぬ意気や良し


「ならば」


――それで。貴様はそのリーリアを我に与える用意があるのか


 これにはさすがのランシャも言葉が詰まる。嘘の通じる相手なら、言葉を並べる事もできよう。だがザンビエンには通じない。試さなくても明らかだった。この短い沈黙ですべてを見透かされたはずだ。


――精霊の園を覚えているな。あのとき、我は貴様に力を貸した。その分を返してもらわねばならん


「それは」


――ゲンゼルの娘とは盟約がある。貴様の言葉如きでは動かせぬ盟約だ。もし貴様が命を投げ出すと言ったところで、それは借りを返しただけだ。盟約は変わらぬ


「だが」


――仮にリーリアの命がジクスによって奪われたとしても、それはそれだ。いずれ機会を見て我がジクスを討てば良いだけの話。貴様には関係ない


「待ってくれ、ザンビエン」


――去るがいい。貴様の言葉は我には通じぬ


 闇の奥、巨大な気配が消えて行く。このまま何もできないまま終わるのか。いや。


「おまえが本当に必要とする物を、俺が持っていてもか!」


 その叫びに、闇の向こうで気配の変化が止まった。


――我が本当に必要とする物だと


 ランシャはうなずいた。


「ああ、そうだ」


――虚言屁理屈の類いが通じぬ事は理解しておろう


「わかっている」


 ザンビエンの気配が急速に膨らんで行く。


――ならば申してみよ。我が必要とする物とは何だ


「それは」

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