第53話 天地無双

 それはまぎれもない死。心臓は止まり、呼吸も止まり、瞳孔は開き、体温は失われる。ランシャの肉体から生命活動の火が消えた。錯覚ではない。四賢者の目には明らかだった。


「どういう事だ」


 妖人公ゼタの顔には疑念が満ちている。


「死んでいるのは間違いないようですが」


 黒山羊公カーナも警戒を解かない。


「あまりにも、都合が良すぎる」


 感情のこもらぬ毒蛇公スラの言葉を遮るように、巨大な三つ頭の魔獅子が吼える。


「叩き潰せばわかる事!」


 鋭い爪の伸びた前脚を振り上げた、そのとき。


「くはっ」


 苦しげに息を吐き出したのは、水色に輝くリーリア姫。直後、ランシャの体は飛び起きると、左右の手のひらを四賢者に向けた。そして手を、握りしめる。


 どすん、と音がした。魔獅子が落ちるように膝をついたのだ。舞い上がる埃の向こうでは、ゼタが胸を押さえて妖刀土蜘蛛を杖とし、スラが長い体を苦悶にうねらせて、カーナは失神している様子。


「お……のれ」


 魔獅子は震えながら三つの顔を上げる。すると握りしめたランシャの手が僅かに開いた。手の中で抗う力が生じているかのように。


「小僧……貴様……毒を使ったか」


 苦しげに唸る魔獅子の口からは泡が吹いている。そう、ランシャは毒の魔法を使ったのだ。


 魔族の体には人間同様水分が満ちている。水の大精霊ラミロア・ベルチアの力なら、その水を毒に変え、四賢者を毒死させるなど簡単な事。だがそれはできなかった。強い魔力で守られた四賢者を毒の魔法で殺すには、相応に魔力を消費するからだ。ラミロア・ベルチアの力は桁外れに強大すぎ、ある程度を越えればコントロールを失う。少なくともリーヌラの街を全滅させる程度の被害は出よう。


 かつて世界を滅亡の淵まで追い詰めたのが、この毒の魔法である。迂闊には使えない。しかし、ごく小さな力なら、たとえば魔力に守られていない人間一人を殺すくらいならできなくもない。


 だから、ランシャはさっき死んだのだ。すべてのガードを外してラミロア・ベルチアの毒の魔法をくらい、それを見た。その晶玉の眼で。そして蘇生魔法で蘇り、いま四賢者に向かって毒の魔法を使っている。力を制御する術は、ランシャの中にあるサイーの遺産頼りだが、とりあえずラミロア・ベルチアよりは上手く扱っているようだ。


「ヒヤヒヤしたぞ」


 ランシャの腰に手を置いて、水色のリーリアがつぶやく。


「蘇生魔法は神の奇跡に似て非なるものだ。絶対ではないし失敗する事もある」


「それでも、やるだけの価値はあった」


 ランシャの手がまた少し開く。ラミロア・ベルチアは感心したかのように言った。


「まだ抗うのか。さすが噂に高い四賢者という事かな」


 三面の魔獅子は震えながら立ち上がろうとしている。妖刀を杖とするゼタも苦痛に顔を歪ませながら、まだ倒れていない。けれど。


「もう少し力を借りるぞ」


 ランシャは静かに声をかける。ラミロア・ベルチアは背後でうなずいた。


「力を暴走させないのであれば、いくらでも使え」


「加減は難しいが、何とかする」


 突き出した両手が再び握りしめられる。ランシャが奥歯を噛みしめると同時に、魔獅子もゼタも、揃って口から大量のどす黒い液体を吐き出した。もはや苦痛に悲鳴も上げられない。ゼタの膝が落ち、魔獅子の六つの目からは光が消えた。終わった。そうランシャが確信したとき。


 水色のリーリアが、ランシャに触れていた手を放した。そして勢い良くその手を天に突き上げる。一瞬の間を置いて、遠くから轟く大きな音。それは地面を震わせるほどの。


「迷ったんだよ」


 玉座の間に聞こえる子供の声。


「君の相手だけをしていられるほど、ボクはヒマじゃないからね」


「陛……下」


 ゼタが顔を上げた。口から目から耳から黒い毒液を流しながら、そこには信頼の微笑みが浮かぶ。


「申し訳……ござい……ま」


 倒れ込んだまま魔獅子が身を震わせる。彼らとランシャの間に立つ炎竜皇ジクスは、小さくため息をつきながらこう言った。


「仕方ないよ。この前殺せなかったボクにも責任はあるし、こんな短期間にここまで厄介な相手になるとは、誰も思わなかったんだから」


 相変わらず小さな子供の体にブカブカの鎧。三本角のその表情には少し疲れが見える。


「だけどもう、これ以上はゴメンだ。全部終わらせるよ」


 対峙するランシャは両手を下ろしている。四賢者に毒の魔法を使いながら戦える相手ではないからだ。背後からラミロア・ベルチアもささやく。


「あやつの中には水がない。毒の魔法は使えんぞ」


 するとランシャは左手を後ろに伸ばしてリーリアの手を握り、振り返った。すなわちジクスに背を向けたのだ。その勢いのまま右手を大きく振ると、そこに居た第一王子ラハムの姿が消えた。そしてランシャはリーリアを連れて上に飛ぶ。王宮の屋根の向こう、空の向こう側へ。




 一瞬で雲の上に出たランシャは、さらに上を目指す。高い山に登れば空気が薄くなり、火は燃えにくくなる。炎竜皇の魔力は炎の力。ならば上空に行けば行くほど、多少はこちらが有利になるかも知れない。そして何より上空は冷える。氷の精霊魔法が強く働く可能性もある。


 ジクスがリーヌラを滅ぼしてしまうのではないかとも思ったが、これは賭けだ。相手は勝負を決めたがっている。ならば追ってくる方に賭けるしかない。


「逃げても意味などないよ」


 賭けに勝った。振り返ったランシャとリーリアの目に、すぐ隣を同じスピードで上昇するジクスの姿が映る。その右手が左手の手袋をもぎ取ると、吹き上がる巨大な炎が手の形になった。ランシャは止まり、ジクスも止まる。上空の強い風を受けてもジクスの炎の手はほとんど揺るがない。


「ここで戦えば、多少は有利だと思ったのかい」


 ジクスは慌てるでもなく、かといって余裕を見せつけるでもなく、静かに微笑んでいる。


「君は利口だね。勇気も決断力もある。本当に殺すのがもったいないや」


 ランシャは応えない。応えられない。ほんの少しの隙を見せれば瞬殺される相手だからだ。


 どうする。どう戦う。地上で戦うよりは多少マシかも知れないが、僅かな有利さを当てにすれば負ける。確実に勝てる手がない以上、絶対に負けない手を選ぶべきか。いや、後手に回れば勝ち目はない。先手を取られれば間違いなく追い詰められる。ランシャの頭脳は最高速で働いた。それを見抜いているのか、ジクスはうなずく。


「もったいないけど、ボクにも余裕がないんだ。すぐに終わらせるね」


 相手の姿勢が前傾した刹那、ランシャはジクスに向けて突進した。リーリアの手を握りしめたまま。結局選んだのは、先手必勝である。ジクスの左手は強大な魔力の塊だが、他の部分からは力を感じない。もしかしたら、そう見せかけているだけかも知れない。しかし躊躇ためらいの中に勝機はないのだ。速度で圧倒できれば、完全に懐に入る事ができれば、勝利につながる何かが生まれる可能性はある。


 ジクスの反応は遅くはなかった。即座に炎の左手がランシャを叩き落とす軌道に入る。それを邪魔するように発生する厚い氷の壁。無論、そんな物は一瞬で突破されるだろう。だがその一瞬が、ほんの一瞬の時間が生死を分ける。


 ランシャの右手にした氷の大剣の切っ先がジクスの胸に届いたとき、まだ氷の壁は薄らと残っていた。剣は胸の真ん中を貫く。何の手応えも返さずに。


 僅かに遅れて炎の左手が胸の前を通過したとき、ランシャはすでに離れた後。攻撃は成功したが失敗した。敵に傷を負わせる事を目的とするなら、それは果たされた。けれど、それに何の意味もない事を思い知らされたのだ。


 ランシャの手を水色のリーリアが握り返す。


「アレは空っぽだぞ」


 大精霊ラミロア・ベルチアの声が緊張している。そう、炎竜皇ジクスの胸の内側には何もない。空っぽだ。空洞なのかどうかは判断できないが、少なくとも心臓などは存在していないだろう。ならば、どこを、何を攻撃すれば勝てるというのか。首を撥ねるか、頭を割るか。


「勝てないよ」


 焦るランシャの心の内を読んだかのように、ジクスは言った。


「すぐに理解させてあげる」


 炎の左手が振られると、巨大な火球が発生した。ついさっきフンムの見せた物よりも大きい。唸りを上げて飛来するそれをランシャは弾き返そうとし、即座に思い直してかわした。弾き返せばこちらの位置は動かない。格好の標的になるだけだ。だが、かわす方向は無数にある。予測などできまいと踏んだのだ。


 しかし結論から言えば、その判断は甘かった。火球の軌道を避け切ったとき、ランシャの体はジクスの間合いの内側に。炎の左手はすでに振り下ろされている。思わず手を挙げて防ごうとしたものの、右手の先に込めた冷気が高熱の火炎に圧倒され、大気の爆発的な膨張を呼んだ。


 熱風を叩き付けられ吹き飛んだランシャは、意識を失って墜落して行く。それを抱き止めたのは水色のリーリア。


「おい、ランシャ! しっかりせんか!」


 だがランシャの右半身は酷い火傷を負い、右腕の肘から先は黒い消し炭が僅かに残っているだけで、ほぼ完全に失われていた。リーリアの体が水色に強く輝く。治癒魔法によってランシャの火傷は一瞬で治り、アザが残るのみとなったが、燃やし尽くされた右腕は戻らない。リーリアの腕がランシャを抱きしめた。


「終わりだよ」


 いつの間にか接近していたジクスが、燃え上がる左手を振り下ろす。一瞬の猶予も一分の隙も見せずに。けれど、その手が切り裂かれる。思わず手を引いたジクスの見た物は、平らな水。薄く広がった、高速で回転する水の円盤。


「待て、やめろリーリア」


 ラミロア・ベルチアの声が動揺している。しかしその同じ口が、別の言葉を吐き出した。


「やめない。やめるものか」


 そのとき、世界に轟く無音の衝撃。強大な力の解放。リーリアの体から、水色の輝きが消えて行く。白く、白く、ただ純潔を思わせる儚げな雪の白さではなく、それは死の色、灰の色。命の燃え尽きた白に全身を染め抜いたリーリアが、回転する水の円盤を三つ、四つと繰り出した。


「よくも……よくも、よくもよくもよくも!」


 意識のないランシャの体を抱きしめたまま、憎しみの燃える黒い目でリーリアは吼えた。水の円盤たちは稲妻の速度で宙を走り、ジクスに斬りかかる。炎竜皇は炎の温度を上げ、その左手はオレンジ色に、そして黄色へと変色するが、その高熱でも透明な回る水を消し飛ばす事ができず、幾度となく切り裂かれた。


 無論炎の手は炎であるから、切られたところで痛みもなければ血も出ない。だがこの水の円盤も、ただの水ではないようだ。切られると力を奪われる。あまり攻撃を受けるのは得策とは言えない。しかも、足の下が騒がしい。


 さっきまで白い雲が浮かんでいたはずの下方では、いつの間にか黒雲がひしめき、渦を巻いていた。これも水の大精霊の力か。かつて世界を統べていたその力が、いま制御を失い暴走しかけているのかも知れない。もしそうなら、かなりマズい事である。出し惜しみをしている場合ではなかろう。ジクスは右手の手袋の先を口に咥えた。


 黒雲の渦からジクスに向かって稲妻が発せられる。下から上に走る、言わば昇雷が襲いかかったとき、空間が歪んだ。


 ぐにゃり、と曲がった稲妻は、ジクスの右手に吸い込まれて行く。回転する水の円盤も、その右手に飲み込まれてしまった。それは黒い、いや暗い、手の形をした夜の闇より深い深淵。これにはさしもの白いリーリアも息を呑んだ。


 ジクスは燃える左手を突き出す。


「地竜ガニアの灼熱と」


 暗黒の右手も突き出す。


「天竜ファニアの虚無を持つ」


 そして静かに、託宣を下すかのようにこう断じた。


「故に天地に並ぶ者なし」

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