第60話 ギーア=タムール
隊長は力任せに押し込む。腕力だけなら負けないが、残念な事に腕力だけで勝てる相手ではない。レキンシェルに触れた大剣は、たちまち氷に覆われる。ザンビエンの呪いの氷に。隊長は大剣を放り出して逃げなくてはならなかった。
「良い判断だ」
ダリアムは微笑んで隊長を一瞥すると、バーミュラたちには一転、厳しい顔を向けた。
「彼らもろとも吾を消し去るつもりなら、勝機もあったものを」
「うっさいね、そういう寝言は勝ってから言いな!」
負け惜しみに聞こえるのを承知でバーミュラは吼えた。ライ・ミンが一歩前に出る。隊長は短剣を抜き、キナンジとナーラムとルルが身構えた。そこに。
「待ってください」
周囲を取り囲む人垣の向こうから声が。人と人の間を縫うようにして出て来たのは、リーリア。そしてタルアン。
「ザンビエンの生け贄は、ここにいます」
リーリアの声に、ダリアム・ゴーントレーは顔を向ける。それを隙と見て取ったバーミュラが呪文の詠唱に入ろうとしたが、その足下を稲妻が焼く。
「はい、ちょっと待った」
「どういうつもりだい、ジャイブル。何で邪魔をする」
怒るバーミュラに、雷の精霊はタルアンの頭の上で胸を張った。
「こなたの雇い主が、この魔道士に話があるのだ。そなたらはしばらく黙っておれ」
「話だぁ? ふざけるんじゃないよ、誰のためにこんな事になってると思ってるんだい」
「だからこそ、だ」
タルアンは言い切った。
「もう限界だよ。これ以上、奉賛隊に被害は出せない」
そして隊長に向き直る。
「父上には僕から一筆書く。報奨金は受け取れるようにするから心配しないで」
「いや、しかし王子」
「それくらいの時間はもらえるよね」
タルアンはダリアム・ゴーントレーにたずね、魔人はこう返答した。
「よろしいでしょう。しかし、そう長くは待てませんぞ」
するとタルアンはゆっくりとダリアムに近付いた。
「では形式的な事を済ませておこう」
「形式的?」
眉を寄せるダリアムに向かって、立ち止まったタルアンは告げる。
「グレンジア王家第十位継承者タルアンとして命じる。ダリアム・ゴーントレー、魔獣奉賛士を拝命せよ」
「なっ」
バーミュラが目を剥いた。ライ・ミンがつぶやく。
「そう来たでござるか」
隊長たちが愕然と目をみはる中、ダリアムは満足そうに微笑みを浮かべると、静かに片膝をつき、頭を下げた。
「謹んで仰せつかる」
タルアンは周囲を見回した。
「これでもう、戦う理由はないよね」
反論はない。タルアンは妹を振り返った。リーリアは静かにうなずく。この瞬間、奉賛隊の旅は終了した。
霊峰タムールの頂で、月光の将ルーナは見上げた。雲が裂かれ、風の止んだ空を。月を覆い隠すように下りてくる、巨大な白い天使。その鋭い三角錐の先端が、青璧の巨人の頭部に接近した。
大地が震える。いや、違う。巨人が振動しているのだ。氷の封印に動けぬ巨体が、歓喜の声なき声を上げているのだ。目覚める。間もなくギーア=タムールの封印が解かれる。
天使の六枚の翼が羽ばたいた。辺りに振り撒かれる光の粒子。月光を思わせるおぼろな輝きが周囲を包むと、不快な擦過音が響き、巨人の全身十箇所を氷壁に縫い付けていた、十本の長い長い氷の杭が引き抜かれて行く。やがて杭の先端が姿を現わしたとき。
突然、氷の杭が宙を走る。十本の光の矢のように。それらは驚愕するルーナの眼前で、天使の体を貫いた。しかし天使に動揺はない。まるで運命を受け入れるが如く両腕を開き、そして、歌う。世にも美しく、世にも恐ろしい声で。
まるで熱風にさらされた雪片のように、氷の杭は溶けて消え去った。天使の体には傷一つない。さらに歌う。ルーナの周囲の氷雪が消え去り、岩盤が顔を出した。まだ歌う。巨人の背後の氷壁も消え去ったが、ルーナは耐えきれずに耳を抑えた。それでも歌うと、岩盤に無数の亀裂が走り、とうとう山頂が崩壊した。ルーナはそこに巻き込まれる、かに思えた。
砕けた岩塊が雨のように
土砂の崩落が完全に止まるのを待って、青い巨人は片膝をつき、ルーナを地面に下ろした。その手にピシリ、と亀裂が入る。地面に突いた膝にも亀裂が。亀裂は瞬く間に全身に広がり、青い巨人の表面が白く濁って行く。そして、崩れた。
砕けた巨人の体の中から、現れる青年。青い鎧、逆巻き荒ぶる青い髪。その青い目が見開かれたとき、巨人の肉体は無数の輝く粒子となって飛び散った。ルーナは背後を振り返る。いつの間にかそこに居並ぶのは、月光のようにおぼろに輝く鎧を身に着けた、百万の聖騎士軍団。
ルーナは再び青年に向き直り、片膝をついて頭を下げた。
「軍団長ギーア=タムール、ご帰還……」
言葉に詰まる。ルーナの頬を涙が流れた。その頭に、大きな手が置かれる。
「泣くな、妹よ」
振り仰ぐルーナの目に、太陽の如き笑顔が映った。
「おまえが泣いては、せっかくの月が曇る」
一歩、二歩、青い髪の青年ギーア=タムールは聖騎士たちに近付いた。
「ギーア聖軍団、目は覚めたか!」
百万の聖騎士が、一斉に声を上げる。
「体はなまっていないか!」
百万の鬨の声が大気を震わす。
「臆病風に吹かれてはいないか!」
鎧を叩き、足を踏みならす百万の音。
「良かろう、ならばただちに戦場に戻る!」
ギーア=タムールは妹を振り返った。
「月光の将ルーナ、軍団の指揮を執れ」
その瞬間、立ち上がったルーナの体はおぼろな輝きに包まれ、それは鎧となった。
「はっ。では軍団長、ご命令を」
「知れた事、我らがまず討つべき敵は」
ギーア=タムールは北の空を指さした。
「
これにはルーナの目が丸くなる。
「ザンビエンではなく、でありますか」
するとギーア=タムールは、イタズラっぽい笑みを口元に浮かべた。
「楽しみは最後に取っておくものだからな」
そう言うと、青い瞳は空を見上げる。月の隣に巨大な天使が浮かんでいた。
「もう一仕事してもらうぞ」
「天使が降臨した。青璧の巨人の封印は解かれただろう」
屋根が吹き飛んだフーブ神殿の中からでも、夜空に天使が見える。おそらくは世界中の空に、その姿は見えているのではないか。アルハグラの帝王ゲンゼルは聖剣リンドヘルドを構え直した。
一方空に飛ぶ炎竜皇ジクスは、燃える炎の左手に赤と黒の渦巻く球体を持ちながら、静かに天使を見上げている。
「どうした。続きはなしか」
ゲンゼルの言葉に返事はない。だがジクスの代わりに空が応えた。天使の周囲に光が丸く陣を描き、内側に正三角形が描き加えられると同時に空間がねじれる。ねじれの中央では天使の輝きと月光が混ざり、その光が空から地上へ、フーブ神殿へと直線を描いた。
滝のように流れ落ちる光の帯の中から、現れ出でたる影が一つ。ジクスの左手は有無を言わさず、それへ向かって球体を投げつけた。しかし青い影は軽々と片手で弾き飛ばす。聴力を奪い去るほどの爆音。閃光と爆風。青い影の向かって右側には壁もなく街もなく、ただ深くえぐり取られた岩盤が闇に向かって広がっていた。
「なるほど。見た目は変わったが、ジクリジクフェルのようだ」
平然とした口調でギーア=タムールは三歩前に出る。
「無双の力を持ちながら、戦い方を知らん」
その背後に光の帯が落ちたかと思うと、数十人の聖騎士が現れた。いや、グアラグアラの街中各所に、百万の聖騎士が降り立っている。上空からルーナの指示が飛ぶ。
「各部隊、防御陣形を取れ! 軍勢を街に入れるな!」
ジクスは呆れたようにこう言った。
「軍団長が露払い。君も相変わらずだね」
「それが戦というものだ。戦力は有効に使ってこそ価値がある。温存したくば机上の演習だけをやっていれば良い」
そう言うと、ギーア=タムールはゲンゼルに視線を移した。
「人の世の王か。リンドヘルドが世話になったな」
するとゲンゼルは剣を下ろし、その切っ先を床に突き立てた。ジクスは驚き、ギーア=タムールが小さく眉を寄せる。
「ほう。抵抗はしないのか」
「リンドヘルドでおまえが斬れるとは思っていない。余はこれまでだ」
それは確かにその通り。聖剣リンドヘルドではギーア=タムールを斬る事はできない。もし切っ先をギーア=タムールに向ければその瞬間、リンドヘルドはゲンゼルの体を斬り刻んでいただろう。帝王ゲンゼルは無意味な死を避け、価値ある敗北を選んだのだ。
果たして、そうだろうか?
リンドヘルドに背を向けて去ろうとするゲンゼルを、ジクスは疑惑の眼差しで見つめていた。この男が戦いもせずに諦めるというのか。いつの間にそれほど物わかりが良くなった。いいや、そんなはずはない。何かを企んでいるのではないか。だが、何をだ。その視界の中で、ゲンゼルはジクスを見上げた。何かを伝えるかのように。
ギーア=タムールは床に突き立ったリンドヘルドの柄を、無造作に握る。刹那、床から飛び出した無数の黒い糸のような物がギーア=タムールの右腕に絡みついた。ゲンゼル王が叫ぶ。
「討て、ジクス!」
反射的に体が動き、ジクスの燃える左手が身動きの取れないギーア=タムールに迫った。しかし身動きなど取る必要はない。聖剣リンドヘルドの青い刃は二つに分かれて宙を飛び、一つが黒い糸を、もう一つがジクスの左手首を斬り払った。炎竜皇は慌てて距離を置いたが、左手の炎は消え去り、戻って来ない。
ギーア=タムールの口元が僅かに緩む。
「まさか、いまのが必殺の策ではないだろうな」
「そんな策など、最初からない」
ゲンゼルは、さも当然と言わんばかりに応えた。その足下に、小さな二つの影が現れる。
「これは参った、参ったね」
「力も技巧も、何とも凄い」
二人の道化は楽しそうに踊った。
「王様よりも、ずっと強いや」
「王様なんかじゃ、勝てない勝てない」
苦笑とも見える笑みを浮かべるゲンゼル王。
「だがジクスの力を削ぐ事ができた。無意味ではなかったろう」
「おまえ!」
ようやくゲンゼルの意図を理解したジクスであったが、時すでに遅し。無傷のギーア=タムールを前にして、できる事は残っていなかった。
「悪知恵の働くのはわかった。それで、何が望みだ」
ギーア=タムールの目に警戒の色が浮かぶ。いまは炎竜皇よりも、この人間の王の方が危険であると認識しているのだ。しかしゲンゼルは言う。
「言ったはずだ。余はこれまでだと。余のなすべき事は、もはやない」
そして一度目を閉じると、こう続けた。
「ソトン、アトン。契約だ、すべてをくれてやろう」
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