第38話 抗え!
帝国アルハグラとの国境近くにある、神教国ダナラム南限の村、ジヌー。そこにはいまアルハグラの侵攻を防ぐため、皇国ジクリフェルより鬼の群れが遣わされていた。言葉の綾ではない。赤や青や黒や緑色、一本角や二本角の大小様々な鬼たちが、南側より攻め入って来る帝国兵を待ち構えているのだ。
村人の大半はすでに村を出て避難していた。戦争に巻き込まれる事を恐れてというのは建前、実際は鬼に食われる恐怖が故の脱出である。無論、鬼たちには村人を食わないよう命令が下されてはいたが、鬼の側にその命令を守るつもりがあったかどうかは不明だ。
ただ一つ確実なのは、アルハグラの兵を食ってはいけないという命令は出ていない事。だから腹を空かせた鬼たちは、ヨダレをダラダラと牛のように垂らしながら、攻撃を今か今かと待っていた。
その只中に突如どこからともなく姿を現わした、
「
「たぶん来る来る襲い来る」
「これが邪魔者、三番目の」
「きっと最後の時間稼ぎ」
指揮を執る者もなく、我先に襲いかかる鬼の集団。だが自らの同類が五匹、瞬時に肉片となったのを見て、立ち止まらないほど愚かではなかった。中央に立つ人間、青い聖剣リンドヘルドを手にした漠水帝ゲンゼルから距離を取る大小の鬼たち。しかし。
「判断が遅い」
そう言うゲンゼルの手が僅かに動くと、さらに三匹の鬼が肉片となった。鬼の肉体は石より硬い。それがまるで泥のように
「なまじ人に似た姿をしているから期待してしまう。これも余の甘さか」
と、そのとき。離れた場所に居た黒い肌をした大柄な鬼が、右手を挙げた。途端、その黒鬼を中心として、鬼たちは左右に広がり、ゲンゼルの正面から側面までを囲い込んだ。王は口元で小さく笑う。
「
黒鬼が挙げた手を振り下ろすと、陣の両端の鬼から、雪崩を打つようにゲンゼルへと飛びかかった。聖剣リンドヘルドの青い刃が四つに分かれ、左右の鬼を迎え撃つ。けれど最初の鬼が切り刻まれた瞬間、中央付近に居た鬼が飛び出した。時間差をつけた三方向からの波状攻撃。
これに対しリンドヘルドは刃をさらに分割し、合計八つの断片となって三方向の鬼たちを切り刻んだ。ただし駆け回るのは七つだけ。残る一つは目にも留まらぬ速度で天空高く飛び上がったかと思うと、指揮を執る黒鬼に真上から襲いかかり、頭頂から真っ二つに切断した。黒鬼の肉体は左右に倒れ……ると見せかけて、次の瞬間には元通りになる。
ゲンゼルの足下をウロチョロする、道化のソトンが楽しげに言う。
「おやおや、アレは鬼ではないね」
もう一人の道化、アトンが続ける。
「あらあら、アレは黒山羊公かな」
すると黒鬼の腹の真ん中から突然、黒い二本角の山羊の顔が突き出した。
「ほっほっほ、ワタクシ如きをご存じとは恐悦至極、痛み入ります」
山羊は微笑み、道化も笑う。
「黒山羊公は、腹の底まで真っ黒け」
「愚かな愚かな謀略のカーナ」
それを聞いて、皇国ジクリフェルの四賢者が一人である黒山羊公カーナは、感心したようにうなずいた。
「ほうほうなるほど。口の減らぬ魔族とは、かように腹立たしいものなのですな。これは自省いたしませんと」
「自省反省、山羊のクソ」
「畑の肥やしの価値もない」
道化が踊ったその直後、再び天から青い光が。リンドヘルドの断片が、カーナの首を斬り落とす。が、黒山羊の首は地には落ちずに元通り。
「ほっほっほ、価値のないのはこの攻撃ですな。使いこなせぬ聖剣でワタクシを斬り殺そうなどと」
切り刻まれる鬼たちの咆吼と絶叫。吹き上がる血にまみれたアルハグラの帝王は、静かに一歩踏み出した。
「一度で斬れぬ相手なら、十度斬る」
積み上がる肉片は、しかし王の歩みの邪魔はしない。
「十度斬って死なぬ相手なら、百度斬る」
鬼たちはゲンゼルに触れる事すらできず、無残に、そして無意味に死に続けた。
「それが千度であろうと万度であろうと変わらぬ。ただ勝てば良いのだ。そして貴様は余には勝てぬ。敗北のみが許されていると知れ」
ゲンゼルの言葉が終わると、また上空からリンドヘルドの断片が落ちてくる。カーナは思わず後退して避けた。けれど青い光は地面に反射するかのように跳ね上がり、下から上にカーナの首を切断する。その首は当然のように元通りつながるが、黒山羊公の顔からは余裕の笑みが消えていた。
これは想像以上に厄介だ、とカーナは思った。スラやフンムの真似事でお茶を濁せるかと考えていたのだが、どうやらそれは難しいらしい。とは言え、こちらは自分の本分ではない。アルハグラの首都リーヌラはすでに手中にある。そちらの作戦は成功しているのだ。ここで功を焦る必要はあるまい。
今回
カーナの口が開き、人の耳には聞こえない声が響く。するとリンドヘルドの前にただただ斬られるまま斬り倒されていた鬼たちは、ようやく足を止めて後退を始めた。
「逃げる逃げるよ鬼は外」
「黒山羊さんたら読めずに負けた」
道化たちの楽しげな声に、黒山羊公は捨て台詞を吐くしかない。
「今度会ったときには、あなたたちから始末しましょうか」
「また会えるといいね」
「今度があるといいね」
嘲る道化の言葉を最後まで聞く事なく、カーナと生き残った鬼たちは、ゲンゼル王の前から姿を消した。
神教国ダナラムの首都グアラグアラ。フーブ神殿の奥では『遠目』のツアト師がため息をついている。
「魔族どもは退散しおった」
フンと鼻を鳴らすのは、『早耳』のコレフ師。
「あっけなかったのう」
「まあ最初から信用のおける相手ではなかったが」
「とは言え、丸一日の時間は確保できたのだ。伏兵の配置も進んでおる。一応は借りだ」
それに無言でうなずいた『大口』のハリド師が、後ろを振り返る。そこに立つのは長い銀色の神の少女。ツアト師が少女にたずねた。
「巫女よ、次の手はどう打たれる」
フーブ神に仕える風の巫女は、静かにこう告げた。
「風切と風音をここに呼び戻します」
「ほう、それから」
「それだけです」
巫女は微笑んだ。
「ゲンゼルの敗北はすでに決定しているのですから」
夜の海。
「ザンビエンの生け贄?」
船長室でビメーリアが目を丸くする。揺れるランプの明かりは柔らかい。テーブルの反対側に座るランシャとリーリアは一瞬目を合わせ、ともにうなずいた。ビメーリアは「ふうん」と、いささか呆れたように声を漏らした。
「あなたたち、そんな理不尽を受け入れているのですか」
「受け入れたくはないです、本当は」
リーリアは悲しげに笑った。
「でも私が生け贄にならなければ、多くの民が困難に直面します」
「そりゃそうでしょうね」
ビメーリアの口調は、馬鹿にしているかのようにも聞こえた。若き海賊船の船長は笑顔で話し始める。
「この世界でリアとかロアとかいう単語は、古い言葉で水を意味します。ご存じですよね。私の名前ビメーリアとは、ビメイの水という意味です。ではあなたの名前リーリアは? それはリーヌラの水という意味でしょう。より正確に言うのなら、リーンの母泉の水なのではありませんか」
そして一息つくと、テーブルに置かれたジョッキを手にした。
「つまりお姫様は生まれたときから、最初に名付けられた瞬間から、リーンの母泉に何かあったら生け贄にされる事が決まっていた子供なのでしょうね。それは運命、宿命と言えます。確かに、これは受け入れるしかないようです」
そう言うとジョッキに口をつける。リーリアは笑みを浮かべながら目を伏せた。
「ええ、だと思います」
「じゃ、ランシャは
リーリアはビックリして顔を上げる。
「えっ」
ランシャも急に自分の名前が出て来たせいで唖然としていた。しかしビメーリアは平然と、さも当たり前であるかのようにこう言う。
「だって、お姫様はここまで飛んできたんでしょ。なら氷の山脈まで飛べますよね。それで話は終わりでは? ランシャがあなたについて行く理由はもうないはずです。大丈夫、ランシャは私の夫となって、この船で活躍しますから。もちろん私は一人の女として、全身全霊で彼を愛し続けます。それで何の問題もないでしょう。これから死にに行くあなたに殿方は不要です。ランシャを私にくださいな」
リーリアの顔に血が上り、見開かれた目に涙が浮かぶ。膝に置かれた手は服をギュッと握りしめる。ランシャはそれを見て動揺した。
「お、おいビメーリア! いい加減な事を言うな!」
「あら、何かおかしな事を言いましたっけ。あなたがお姫様について行く必要がないのは事実でしょう。それとも自分の意志でついて行きたいのですか。それは何故。お金のため? 名誉のため? もしかして同情か哀れみでしょうか」
「そんなんじゃない!」
「では何でしょう」
「何って……それは」
ランシャは言い淀む。だがそれは嘘だからではない。本当だから言えないのだ。その気持ちが本当で、けれどリーリアの決意も立場も理解しているからこそ言えない。しかし。
「……ダメです」
振り絞るような小さな声。リーリアは顔を伏せて首を振った。
「それはダメです」
ビメーリアの口元がイタズラっぽく歪む。
「何がダメなんです?」
するとリーリアは、決然と上気した顔を上げた。
「ランシャは、あなたにはあげません」
「それは何故」
「私のランシャだからです!」
言い切った。そしてまくし立てる。大粒の涙をこぼしながら。
「ランシャは、私のランシャです。私だけのランシャなんです。誰にもあげません。誰にも渡しません。誰にも渡したくありません!」
ビメーリアは鼻先で笑う。
「すぐに死ぬくせに」
「それでも、それでも嫌です! 絶対に嫌!」
「わかっていますか、それは強欲というものですよ」
「強欲でもいい、何て言われてもいい、私は、私は」
「わからない人ですねえ」
ほとほと呆れた顔でビメーリアは苦笑した。
「そこまで強欲になれるなら、何でもっとワガママにならないんですか」
「……え」
戸惑うリーリアに、ジョッキの酒を一口飲んでビメーリアは言う。
「そんなにランシャの事が大好きなら、死ななきゃいいでしょう。一緒に生きればいいでしょう。生け贄になんて、ならなければいいでしょうが」
しばし愕然としていたリーリアだったが、やがてまた目を伏せた。
「でも、それは」
「下を向くな!」
突然の大声に、リーリアは思わず顔を上げる。ビメーリアはジョッキをテーブルに叩き付けるように置いた。
「好きな男が隣に居るのに、下を向いてどうする! 前を見ろ! 未来を見ろ! おまえが死ななきゃ生きる事もできない連中のために命をかけるな! おまえのために命をかける男から目をそらすな! 運命に逆らえ! 宿命に抗え! 自分の命が誰のためにあるのか考えろ!」
あまりの剣幕に、リーリアもランシャも声が出せない。しかし言うだけ言って気が済んだのか、ビメーリアはまた元通りの笑顔に戻っていた。
「ま、それでも死にたいって言うのなら、無理矢理にでもランシャはもらいますけどね」
そのとき、船長室のドアがノックされた。
「はーい、どうぞ」
ビメーリアが答えるとドアが開く。その向こうにはジーロックが。
「お嬢様」
「船長とお呼びなさい」
「では船長、夜中は静かにしていただきたい」
「了解しましたー」
再びドアが閉まると、ビメーリアは肩をすくめて小さく舌を出す。
「二人とも、どうせ奉賛隊に戻るのは朝なのでしょう。今夜はもう寝なさい」
そう言って立ち上がり、ランプを手にした。
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