第37話 責任

 渦の流れと水圧が、ランシャを叩き責め立てる。水面は遠くなり、光は薄れて行く。


(レク、動けるか)


 そう念じるランシャの耳元に、レクの声が聞こえた。


「無茶……言うなよ」


(なら叫べ。動けないなら叫び続けろ。俺がそこへ行ってやる)


「へっ……格好良いじゃねえか」


 とは言うものの、いまランシャはゾーブラシムの体にしがみつくので精一杯。どうやってレキンシェルの元まで行こうというのか。


 ランシャは目を見開いた。眼の奥にあるもう一つの眼を。千里眼がゾーブラシムの内側を見通し、囚われているレキンシェルを見つけた。すると、ランシャの手の先が溶けるように染み込むように、ゾーブラシムの中に入って行く。だが肘の辺りまで入ったところで突然その手が弾き出された。頭の上、大渦の向こうから声が響く。


――甘いわ、そんな手が通じるものか




 上空高くより急降下するゾーブラシムの八つの顔。だが、その隣をさらに高速で、何の足場もないように見える空中を駆け下りる青い影。ジーロックは八つの顔より下に回り込むと、うち一つの側面を蹴り上げた。残り七つが白い光を放ったものの、素早く空間を蹴り、右に左に移動してかわす。


――おのれおのれおのれ、邪魔だ、どけ!


 大空に響き渡る怪竜の声。


「海賊に手を出したのはおまえだ。その報いを受けてもらわねばな」


 ジーロックはまた一つ顔を蹴り上げた。




 海賊船イオースボックの舳先から、船長ビメーリアが海を見つめる。砕けた氷を飲み込んで、巨大な渦が唸りを上げていた。


「船は乗るもの、喧嘩は買うもの」


 右手に持った小さな手斧を左から右に振ると、空間に横一文字、白い軌跡が漂う。煙か、いや、霧だ。


「私の力はただ一つ、唯一無二の『絶無の霧』」


 手斧を今度は縦に振る。白い縦の線が重なり、十文字の霧が浮かび上がった。その中心を、ビメーリアは手斧で打った。


「行きなさい!」


 十文字の霧が飛ぶ。斜め下に、氷が、水面が、渦が、パックリと十文字に割れた。抵抗は受けない。水は十文字に触れる前に逃げるように避ける、裂ける。そのまま稲妻の速度で海中深くへと進み、やがて怪竜ゾーブラシムに衝突した。ランシャの居る場所のすぐ隣に。




 ゾーブラシムの体は水のように簡単には行かない。だがそれは十文字の霧も同じ事。怪竜の黒い胴体が十文字にえぐり取られた。上空から聞こえる異様な叫び声。傷は浅い。だが体表という結界で守られた内側にランシャが手を突っ込むには、十分な深さと言えた。


 ランシャの腕は肩まで傷口の中に入り込み、レキンシェルに向かって伸びる。


(レク、来い!)




――さぁせぇるぅかぁあっ!


 上からは牙を剥いた八つの頭が落下してくる。しかし。ゾーブラシムの八つの顔は突然白い霧に覆われた。何だ、この霧は。そう叫んだ自分の声が聞こえない。右も左も、上も下も、自分がどの方向に進んでいるのかわからない。自分の首の付け根に向かって落下しているという確信すら持てなかった。


 けれど、それは数秒の事。ゾーブラシムは目を閉じ息を止め、縮む己の首にのみ全神経を集中させる。しばらくすると風の音が聞こえ、上下の感覚が復活した。霧を抜けたのだ。渦潮の化身は目を見開いた。


――さあ小僧、いまこそ


 そう叫んだゾーブラシムの胴体の内側から、白い光が噴出した。




 ランシャの手は、魔剣に届いていた。レキンシェルの感覚がランシャに伝わり、ランシャの力がレキンシェルに流れ込む。ゾーブラシムの巨大な黒い胴体からは無数の氷の棘が突き出し、怪竜の絶叫が響いた。


――馬鹿な、ザンビエンの力はすべて我が物になったはず


「おまえは力の使い方を知らない」


 ゾーブラシムの周囲の海水が硬く凍り付き、そして水面まで届いていた渦は凍ると同時に砕け散る。海の中に穴が開いた。


 ランシャは海魔の血にまみれた腕を高くかざす。その手に握られた魔剣レキンシェルが白い刃を伸ばし、輝いている。それを目指し、落ちてくる八つの顔。


――人間めがぁあああっ!


「俺も知らないが、サイーは知っていた」


 少年の腕は素早く振られ、白い刃が宙を縦横無尽に駆ける。黒い八本の首は無数の肉片となった。そして驚愕の表情を浮かべた八つの顔は八方向に落下し、海に沈んで小さな八つの渦を生んだ。


「見事だな」


 海に開いた穴の縁に立っているジーロック。


「だがゾーブラシムを倒した事により、この海域での力関係は変わってくる。その責任は取ってもらうぞ」


「……まだだ」


「何?」


 ランシャは不意に顔を上げた。


「船が危ない」



 怪竜ゾーブラシムの八つの頭のうち一つが、イオースボックの付近に落ちて小さな渦を巻く。徐々に引き寄せられる船の上で、船長ビメーリアが指示を飛ばした。


面舵おもかじ! 帆を張れ!」


 操舵手が右に舵を取る。帆がいっぱいに張られ、風をはらむ。海賊船イオースボックは渦の縁をかすめて走った。だが船体が渦を背後にしたとき、渦の中心から線が、墨で描かれたかのように真っ黒で細い線が飛び出したかと思うと、イオースボックに向かって稲妻の速度で伸びる。その先に居るのは、甲板上のビメーリア。


 硬質な金属音。ビメーリア本人が気付くより先にランシャが間に飛び込み、レキンシェルの刃の側面で線の先端を受け止めた。ように見えた。


 けれど黒い線は止まらない。八方向に放射状に広がるとレキンシェルを包み、そのままランシャの手に触れた。指先から何かが侵入する感触。それは一瞬で腕を走り、肩を抜け、首を通ると脳に達した。頭の中が暗闇に包まれる。


「ランシャ!」


 ビメーリアの声が聞こえた。しかし返事はできない。


――我は死ぬ


 ランシャの頭の中に声が響く。


――だが、ただでは死なぬ。最後に貴様の心を、意志を、思いを、記憶を、すべてを道連れにしてやろう


 抵抗を試みたが、どうすればいいのかわからない。この魔法への対処方法はサイーの記憶にもなかった。耳が遠くなり、視界が暗くなる。体から力が抜けて行く。このまま終わるのか、ランシャが諦めかけたとき。何かが触れた。くちびるに。




 ビメーリアと、駆けつけたジーロック、そして船員たちは見た。突如天空から差した強い水色の光が辺りを照らすと、それは少女の姿になってランシャを抱きしめた。唇を重ねながら。


 その瞬間、黒い線はかき消された。この世の物とも思えない絶叫を響かせて。




 ランシャの視界に光が戻る。強い水色の輝き。眼前に見えるのは、目を閉じたリーリアの顔。さっきまで闇に閉ざされていた頭の中が真っ白になった。何が起きているのかわからない。ただ唇の暖かさに震える。


 リーリアが静かに目を開け、唇を離した。


「いまのは私の意志ではありません」


 そう言って再び、一瞬唇を重ねると、真っ赤な顔をランシャの胸に埋めた。


「いまのは私の意志です」


 こんなとき、どうすればいいのだろう。ランシャは少し考えたが、すぐに考えるのをやめた。サイーの記憶を探る必要もない。抱きしめればいいのだ、たぶん。


「あーらら」


 後ろから呆れたような女の声が聞こえる。


「私がもらおうと思ってたのに」


 ため息をつくビメーリアの隣でジーロックが言う。


「ならば、奪いますか」


「そうですね、奪うのは海賊の性分ですから。とは言うものの」


 ビメーリアは見上げた。他に見上げている者は居ない。ならばビメーリアにしか見えていないのだろう。上空に浮かぶ、ヒラヒラとした着物を着た、水色で半透明な姿の美しい女。


「ご先祖様に恥をかかせては、バチが当たるかも知れませんね」


 不意にランシャが振り返った。


「俺はまだ責任を取らなければいけないだろうか」


 その真面目な顔にジーロックは苦笑する。


「いいや、もう十分に受け取った。どう思われます、船長」


「どっちかと言えば、別の意味で責任を取らなきゃいけないんじゃないですか」


 ビメーリアも笑って応えた。




 神槍グアラ・キアスの放つ銀色の光が暗闇を照らす。どこだ、ここは。何もない。誰も居ない。音も聞こえず風も吹かない。風音は思う。自分は確かゲンゼルを討ったはず。なのに敵の死体はなく、すぐ後ろに居たはずの風切の姿もない。そもそも日は沈んでいなかった。どうしてこんなに真っ暗なのか。


「何をしているの?」


 闇より突然聞こえたそれが言葉だと理解するより先に、風音はグアラ・キアスの先端を向ける。輝く槍先がそちらを照らす。そこに居たのは子供くらいの大きさの、いや、実際に子供なのだろう、子猫のような顔をした獣魔であった。獣魔は神槍に怯える様子もなく、けれど近づく事もない。


「おいらを殺しに来たの?」


 言葉の物騒さ加減とは裏腹に、それは無邪気な問いかけだった。他に気配は感じない。風音は槍の先端を少し下げた。


「君は一人なの」


 風音の問いに、幼い獣魔は応えた。


「おいらは一人だよ。おばさんも一人だよね」


 おばさんという言葉に軽く胸がざわついたが、いまはそんな場合ではない。


「お父さんやお母さんは」


「居ないよ。みんな死んじゃったから」


「みんな? 大人は誰も居ないの?」


「居ないよ。みんな殺されちゃったから」


「……それは、いったい誰に」


 風音は努めて冷静にたずねた。獣魔の子供は言う。


「聖騎士が来て、みんなを殺したよ」


「聖騎士が?」


 風音の声が少し大きくなった。いまこの世界に聖騎士など居るはずがない。居るとしたらただ一人、月光の将だけだ。しかしそんな困惑など気にもしないで、獣魔はこう言った。


「おばさんも聖騎士なんでしょ」


 風音は一瞬戸惑う。これはどちらが正しいのか。そうだと答えて相手の出方を見るか、それとも正直に違うと言うべきか。迷った末に、どっちつかずの言葉を選んだ。


「どうして私が聖騎士だと思ったの」


「だって聖騎士はみんな光ってたから」


 伝説によれば、青璧の巨人ギーア=タムールに率いられた百万の聖騎士は、みな青く輝く武具を身に着けていたという。この獣魔はそれを見たというのだろうか。


「私は聖騎士ではありません。本物の神の使いです」


 すると獣魔は不思議そうに首をかしげた。


「聖騎士も神の使いって言ってたよ。だから魔族を殺すって」


 風音は強く首を振った。


「本物の神は、慈愛に満ちた存在です。魔族と言えど無闇に殺したりはしません」


「それじゃ」


 獣魔の子供の顔が、ぱあっと明るくなった。


「おいら、生きていてもいいの?」


 その言葉は、風音の胸に刺さった。聖騎士によってすべてを奪われ、生きる事を否定された魔族の子供の言葉が。風音はグアラ・キアスの先端を地面に向けて微笑んだ。


「ええ、生きていてもいいんです。本物の神はそれを否定したりしません」


 それを聞くと、子供は弾けたように飛び跳ねて喜ぶ。


「ねえねえ、それじゃ、それじゃ」


 そして満面の笑顔でこうたずねた。


「おばさんを食べていい?」


「……えっ」


 絶句した風音に、獣魔の子供はキョトンとした顔を向ける。


「だって、何か食べなきゃおいら死んじゃうもの」


 風音は思い出した。かつてある国の聖人が、飢えた母子の虎に自らの身を投げて食べさせたという伝説があるのを。しかし。風音は神槍の先を再び獣魔に向けた。獣魔の子供の顔に悲しみが浮かぶ。


「やっぱり、おばさんもおいらを殺しに来たんだね」


「違う、だけど、人間は食べてはいけないの」


「どうして」


 どうして魔族が人間を食べてはいけないのか。その問いに対する解答を風音は持ち合わせていない。


「ここにおいらの食べられる物は、おばさんしかないよ。どうして食べちゃいけないの。生きていてもいいって言ったじゃないか」


「だけど、だけど、私が死んだら、君は悲しくないの」


「おいらが死んだら、おばさんは悲しいの?」


 風音にはもう語るべき言葉がない。震える手でグアラ・キアスを振りかざした。獣魔の子供は寂しそうに笑う。


「おばさんの神様は、そういう神様なんだね」


 悲鳴の如き絶叫と共に、神槍は振り下ろされる。その瞬間、背後から光の束が闇を切り裂いた。


「風音! 無事か!」


 聞こえたのは風切の声。いつの間にか周囲には光が満ち、振り下ろした槍の先は砂に埋まっている。風音は振り返らず、風切にたずねた。


「私はどれくらいここに立っていた」


「ほんの一瞬、瞬き一つの間だ」


「そう……」


 つぶやくと、風音は砂に膝をついた。ゲンゼル王はもちろん、二人の道化の姿もそこにはない。ただ風の吹く音が聞こえた。

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