第36話 氷結の海

 奉賛隊の総数は三十人を割り込むまでに減っていたが、それでもミアノステスの領主は五十人が泊まれる宿を用意した。貧しいこの都市では豪勢な歓待はできない。それも本来奉賛隊の移動ルート上にはないはずの街である。訪問を嫌がらずに受け入れてくれただけでもありがたいというのに。


「この末生うらな瓢箪びょうたんみたいなのが、魔道博士ライ・ミンさ。私の知る限り魔道士としては天下随一だよ」


 宿の一室でバーミュラがそう言い、ライ・ミンはからからと笑った。


「相変わらず姉御殿は口が酷うござるな」


「見た目は若いが、中身は爺さんだ。騙されないこったね」


「そう言えば姉御殿は若返りの術を使わぬのでござるな。使った方がいろいろ楽でござろうに」


「私ゃおまえさんとは違ってね、そんなとこに魔力を使う余裕なんざないんだよ」


「またまたご謙遜を」


 隊長たちは呆気に取られて、なかなか会話に入って行けない。しかし水色に輝くリーリアが、空気を読まずに口を挟んだ。


「この者に魔獣奉賛士を務めさせるという事か」


「それは無理でござる」


 ライ・ミンは笑顔で否定する。


「無理もへったくれもないんだよ。おまえさんしか居ないんだ」


 バーミュラの言葉に、ライ・ミンは首を振る。


「拙者はここの生活が気に入ってござってな」


「ここの生活もザンビエン次第なのは理解できるだろ」


「姉御殿がいらっしゃるではござらんか」


「私にゃサイーほどの知識がない。おまえさんほどの魔力もない。この仕事には中途半端なんだよ」


「相変わらず自己評価の低い事でござるな。しかし、いまひとつ解せぬところ。サイーの兄者殿が後先を考えずに命を捨てるような真似はしないと思うのでござるが」


 首をかしげるライ・ミン。バーミュラはいまいましげにため息をつくと、こう言った。


「保険はかけてたさ。遺産を残してたんだよ。だがその跡継ぎが消えちまった。もうどうしようもない」


 部屋に重くのしかかるような空気。バーミュラが、リーリアが、隊長たちが目を伏せる。すると、ライ・ミンがこんな事を言い出した。


「ふむ、それではその跡継ぎ殿の居場所を占ってみるでござる」


 バーミュラはあんぐりと口を開けた。アゴが外れるのではないかと思われるほどに。


「魔道士が占いだって? 正気かい」


「正気も正気。拙者、最近は占術に傾倒しておりましてな、ちょっとやってみるでござるよ」


 そう言うと皆を立たせ、テーブルや椅子を部屋の隅に片付け始めた。そして敷かれた絨毯を巻き取ると、砂岩の床が露わになる。次いでライ・ミンは、服の懐から小瓶を取り出した。


「取りいだしましたるこれは聖なる油にござる」


 小瓶の蓋を開け、中の液体を少量床に注ぐ。バーミュラの顔が曇った。


「こんな占い見た事がないんだが、大丈夫なんだろうね」


「まあ黙って仕上げをごろうじろでござるよ。さてさて、魔獣奉賛士サイーの遺産を受け継ぎし者、ただいまどこにおりまするやら、炎をもって知らしめたまえ」


 指をパチンと鳴らすと、床に落ちた油が一気に、部屋一面に燃えさかった。だが、熱くない。不思議な炎はやがて形をなす。誰もが見慣れたそれはガステリア大陸の形。その外側、南西のラダラ海に炎の柱が立っている。


「ほうほう、海の只中におるようにござるな」


 ライ・ミンの言葉にバーミュラが食いつく。


「生きてるのかい!」


「おそらく、いまのところは。さて、どうされるでござる」


「いや、どうされるって言ってもね」


 バーミュラが戸惑うのも無理はない。ミアノステスからラダラ海までは遠い。ちょっと迎えに行ってくるという距離ではないのだ。もちろん普通に考えればの話だが。バーミュラはライ・ミンを見つめた。


「おまえさんが行ってくれるってのかい」


「ふむ、それをご所望でござらば……」


 ライ・ミンが微笑んだとき、不意に炎の柱が揺らめいた。他の部分には変化がないのに、柱だけが振り回されるように動くと、かき消えてしまった。


「おい、いまのは何だ、どういう事だ」


 隊長が思わずライ・ミンに詰め寄る。しかしバーミュラが一喝。


「黙りな!」


 そしてライ・ミンを見つめた。


「何かが起こった。そうだね」


「ふむ、かなりとんでもない事が起こっているようでござる」


 うなずいたライ・ミンが顔を上げ、バーミュラが振り返る。リーリアの姿が消えていた。




 海が凍る。波が凍る。そして船が凍り付く。海賊船イオースボックと客の商船団は氷の中に閉ざされてしまった。しかし空は快晴、熱い太陽がジリジリと肌を焼くというのに、氷は拡大して行く。


「あらあら、これは困りましたね」


 氷が甲板まで覆い始めている中で、イオースボックの船長ビメーリアは、呑気に酒を飲んでいた。しかし船員たちはパニックになっている。


「せ、船長! どうしやしょう!」


「落ち着きなさい。どうしようもありませんから」


「いや、しかし」


 これには青い服の老人、ジーロックも苦言を呈する。


「お嬢様」


「船長とお呼びなさい」


「では船長、これは早急な対応が求められているのではないかと」


「意見具申は具体的に」


「せめて氷を砕くくらいなさっては」


「砕けませんよ。だってこれは呪いの氷なのですから」


 ジーロックの視線が鋭く光る。


「……呪いの氷ですと」


「だから言ったでしょう。相手が顔を出すまでは、どうしようもないんですよ」


 そこに聞こえてきたのは、海の底から響く声。


――渡せ


「ほうら来た」


 ビメーリアは微笑んだ。


――海で拾った人間を渡せ


 それが聞こえたのだろう、船室から飛び出して来た影が一つ。ビメーリアは声を上げて笑う。


「まあまあ、自分からのこのこ出て来るなんて頭の悪い」


「何で俺を呼ばなかった」


 責める口調のランシャに対し、ビメーリアは平然と答えた。


「船酔いでフラフラの人を呼んだところで、役に立つとは思えませんもの」


 これにはランシャも言葉がない。悔しげに歯がみするしかなかった。


――おまえか


 海からの声が大きくなった。小刻みに揺れる船、そして氷の砕ける音。


――おまえを殺せば、炎竜皇に貸しができる


「そんなセコい事のために、この大騒ぎですか。哀しくなりません?」


 ビメーリアが鼻先で笑うと同時に、氷の海を突き破り、巨大な何かが飛び出して来た。宙に浮く白い光が八つ。それらが八つの大きな女の顔となり、その顔の後ろには黒くて長い、ヌメヌメとうねるヘビの首が連なる。


「なるほど、これが渦潮の化身、怪竜ゾーブラシムですか」


 ビメーリアはジョッキをジーロックに渡すと、椅子から立ち上がる。


――人間ども、恐れよ、称えよ


 船員たちは逃げ惑うことも忘れ、恐怖に立ち尽くしていた。その合間を縫って舳先に向かうビメーリア。ジーロックが背後に寄り添い、その後ろにランシャが続いた。


「ねえねえ、聞いていいですか」


 氷に覆われた甲板の先端で白い息を吐きながら、ビメーリアはゾーブラシムを見上げた。


「何で海魔の大立者おおだてものが氷の精霊魔法を使うのか、良かったら教えてくれません?」


 巨大な十六の眼が見下ろす。


――人間は知らずとも良い。我はいまザンビエンの力を取り込み、四聖魔に並ぶ存在となった


「レキンシェルだ」


 振り仰ぐランシャがつぶやく。


「あいつは魔剣レキンシェルの力を取り込んでいる。体内にあるのか」


――もはや真実を知る事あたわず。いまここで死ね


 ゾーブラシムの八つの口が開き、白い光がランシャに向けて放たれた。だがそれは空中で四散する。手のひらを空に向けて立つランシャ。ビメーリアが目を丸くした。


「あら、そんな事ができるんですか」


「俺にできている訳じゃない。体を貸しているだけだ」


 そう言うと、ランシャは空へ飛んだ。こんな巨大な化け物を相手に、船の上を戦場にする訳には行かない。ゾーブラシムの八つの頭はその後を追い、天空に向かって伸びて行く。


「お礼も言わずに出て行くとは、大したタマだこと」


 面白そうに空を見上げるビメーリアに、ジーロックが言う。


「我々を巻き込まぬようにという気遣いかと」


 するとビメーリアは、大袈裟に驚いたような顔をした。


「それはまた随分とナメられたものですね」


「いかがいたしますか、船長」


 ジーロックの言葉に、ビメーリアは口元をニッと歪ませた。


「海賊の底力、見せてあげましょうか」



 上空高く舞い上がるランシャを追うゾーブラシム。八つの口から放たれる白い光をランシャは軽々とかわし、光線が走った場所からは雪が湧く。降り続く雪の中を上昇し続ける八つ首の怪竜。だがその首の付け根はまだ海の中だ。せめて付け根が海面に出て来るまでは上昇しなくてはならない。レキンシェルがいまどこにあるのかを確認するためにも。


――ええい、面倒な


 ゾーブラシムの上昇速度が上がった。一気にランシャとの距離を詰めたかと思うと、その美しい顔の口が耳まで裂け、上下四本の長い牙が姿を見せた。一口に食いちぎらんとする顔、相変わらず白い光を吐く顔、首を振り回しランシャを叩き落とそうとする顔、八つの顔がそれぞれの意図を持って動き、しかし見事に連携が取れている。このすべてをかわし続けるのは、さすがに困難と思われた。


――おのれ死ね、いま死ね、ここで死ね


 八本の首は大きく広がり、八方向からランシャに一斉攻撃を加えた。だがその一角が崩れ、ランシャはそこから脱出する。一つのアゴが真下から蹴り上げられたのだ。怪竜は上昇を止め、邪魔をした青い影に振り返る。


 何もない空中に当たり前のように立っているのはジーロック。ランシャのように浮いているのではない。明らかに何かの上に体重を乗せていた。けれどその何かが見えない。


――何のつもりだ


「海賊には海賊の流儀がある」


 そう答えるジーロックを、ゾーブラシムの八つの顔は馬鹿にしたように見つめた。


――もはや四聖魔に等しき我に、海賊如きが立ちはだかると言うのか


 しかしジーロックは鼻先で笑った。


「思い違いも甚だしい」


――何


「四聖魔はおまえのように脆弱ではない」


――おのれ、人間!


 ゾーブラシムの八つの意識が完全にジーロックに向いた瞬間、ランシャは急降下した。怪竜の長い長い首に沿って真下に飛ぶ。


(レク、どこだ!)


 そう心の中で叫びながら、一気に海面近くにまで降りた。白く凍った海面から、黒い体が隆起している。ゾーブラシムの胴体だ。その上に稲妻のように落下すると、手を付いて再び心の中で叫ぶ。


(レク、聞こえるか!)


 一瞬の静寂。そして耳元に小さな声が。


「聞……こえる……ぜ」


 けれどその途端、ゾーブラシムの体は水に潜った。一気に、急速に、巨大な渦を巻きながら。逃げる余裕はなかった。強烈な渦の力に引き剥がされないよう、ランシャはしがみつく事しかできない。


 ゾーブラシムは笑った。ジーロックを嘲笑った。


――愚かよな。あの小僧のための陽動であったのだろうが、当人は自分からこちらの手の内に飛び込んできおったわ。貴様のなした事はすべて無駄よ、無意味よ


 ジーロックはしばし空から海面を見下ろすと、ゾーブラシムの八つの顔に向き直り、小さくニヤリと口を歪めた。


「果たしてそうかな」

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