第39話 炎の包囲陣

 朝日が昇る。氷の山脈から顔を出した太陽の輝きは、やがてミアノステスを照らし、チノールやシルマス、キリリア、そしてリーヌラと次々に照らした後、砂漠を越えてラダラ海に達する。ガステリア大陸を海岸線に沿って南西に回り込んだ海賊船イオースボックを先頭とする船団にも、きらめく陽光は届いた。


「やっぱり行くのですか」


 いささか呆れたようなビメーリアの声に、甲板に出て来たリーリアはうなずく。その右手はランシャとつながれている。


「まだ答は出ていません。でも、出るまで待ってもいられませんから」


「この船はもうすぐラムズテイルの港に入ります。それまで待ってみませんか」


 しかしリーリアは首を振る。


「そのお気持ちだけで十分です。ご恩は忘れません」


「そういう律儀すぎるところが自分の首を絞めるのですよ」


 その言葉にリーリアは微笑んだ。


「昨夜から叱られてばかりですね」


「ホントですよ。まったく柄にもない」


 ビメーリアはため息をつくと、ランシャに目を向けた。


「居場所がなくなったら、いつでもここに戻って来なさい」


「ああ、考えておく」


 ランシャも笑みを浮かべて、不意に何かを思いだした。


「あ、そうだ。最後に一つ聞きたい」


 ビメーリアが首をかしげた。


「何です?」


「ラミロア・ベルチアを知っているか」


 その問いに、ビメーリアが微笑み口を開こうとしたとき。


「それはボクも知りたい」


 突然聞こえた子供の声に、皆は周囲を見回した。船員の一人が舳先を指さす。


「船長、あれ!」


 イオースボックの舳先に取り付けられた二本角のワシの像。その左側の角の上に、ブカブカの甲冑を着た三本角の子供が立っていた。


「全員離れろ!」


 ジーロックの鋭い声に船員たちは慌てて走る。ランシャはリーリアを背後に回して相手に正対し、その隣にビメーリアが出た。


「こんなむさ苦しい海賊船に何の御用ですか。お招きはしていないはずですが」


「変だと思ってたんだ」


 炎竜皇ジクスは、ピョンと甲板に飛び降りた。


「水の大精霊の気配が二つある。大きな気配と小さな気配。ううん、小さな気配とすごく小さな気配かな」


 そしてビメーリアを指さす。


「小さな気配」


 次にリーリアを指さす。


「すごく小さな気配」


 ジクスの顔には無邪気な笑みが。ただし眼の奥が笑っていない。その眼がリーリアを見つめる。


「ここに来なきゃ、ボクに気付かれる事もなかったのに。生きてたんだね、ラミロア・ベルチア」


 するとリーリアの体が水色に輝き出す。


「誰だ、こやつは」


 声のトーンが一段下がった。ランシャの左手が、リーリアの右手をギュッと握る。


「皇国ジクリフェルの炎竜皇ジクスだ」


「それは知っている」


 ランシャの眉が寄り、ビメーリアが振り返る。水色のリーリアは、ジクスをにらみつけていた。


「竜族のジクリジクフェル。外見は幼くなったが面影はある。だが『こやつ』は知らぬ。この巨大な力、中にいる貴様は何者だ」


 ジクスは少しうつむき、ズレる兜を手で抑えた。


「……半分当たり。半分ハズレ」


「何だと」


 前に出ようとするリーリアをランシャの右腕が遮る。その手に握られたレキンシェルの白い刃が音もなく伸びた。


「ビメーリア、悪い。いまのうちに謝っておく」


「謝って済む話ではないですよ。ま、こっちも信用商売ですから、喧嘩を売られて逃げる訳にも行かないのですけど」


 ジクスはゆっくりと近付いて来る。


「ジクリフェルもいま大変なんだ。四賢者がボロボロだから。だけど」


 左手で右手の手袋をつかむと、ねじり取った。その途端、右手首から炎が吹き出し、巨大な手の形となる。


「いまさらザンビエンと仲良くもできないしね」


 高熱に甲板は煙を上げて炭化する。帆は炎に包まれる。けれど、水色のリーリアが左手で空を指さすと、海の水が龍の首の如く巻き上がり、帆の炎を消し甲板を冷やした。もうもうと上がる水蒸気。ゆらめく陽炎の向こうで、ジクスの目が赤く光る。


 その赤い光を、白い闇が閉ざした。ジクスの周囲を包む真っ白で濃密な霧。音も聞こえず風も感じず、前後も左右も、上下もわからなくなる。


 ビメーリアはランシャに叫んだ。


「いまのうちに行きなさい!」


 ランシャは迷わずうなずき、躊躇ちゅうちょせず飛んだ。水色に輝くリーリアの手を取って空高く舞い上がる。だが次の瞬間、霧の中から轟音を上げて炎の柱が立ち上がった。その勢いで海賊船イオースボックは舳先を海面にまで押し下げられ、逆立ち状態になった後、船底をさらし転覆した。


 さすがのランシャも、これには助けに行くかどうか逡巡したが、無理な事はすぐにわかった。目の前に炎の手を振りかざしたジクスが浮かんでいたからだ。


「他人の心配をしてる場合じゃないよ」


「その通りだ」


 水色のリーリアはそう言うと、ランシャの背後から腰に両手を回した。そして背中に額を押しつける。


「おまえに少し力を貸そう」


 直後、ランシャとリーリアは急上昇した。ジクスが一瞬呆気に取られるほどのスピードで。


 二人はあっという間に雲の上に出ると、そのままの勢いで太陽に向かって飛んだ。だが背後に巨大な炎の手が迫る。


「これでも振り切れぬというのか」


 呆れたようなリーリアの声。ランシャは左手を、己が腰に回った細腕に重ねた。そしてリーリアの左手にはめられた青い指輪に触れる。


「もう少し力を借りるぞ」


 そのまま右腕の魔剣を振ると、白い刃の上に水色の光が重なった。ランシャとリーリアは急速反転する。瞬き一つの時間ですら長大に感じるほどの短い刹那。氷と水、そして炎がすれ違い、炎が裂けた。手応えあり。いける。このまま一気に攻め立てて首を落とせば。


 そんな思考を嘲笑うかのように、目の前にジクスが立っていた。


 ランシャは空中で急ブレーキをかけ、思わず振り返る。そこにも、もう一人ジクスが居た。右手の炎を切り裂かれて。だがその炎が大きく揺らめいたかと思うと、ジクスの全身を飲み込み消え去った。


 正面のジクスに向き直るランシャ。


「こっちが本体か」


「さあ、どうだろう」


 目の前で、ジクスは二人に分かれた。


「炎は分ければ無限に増える」


 さらに、四人に、八人に、十六人に増えて行く。


「どれかを倒せば全部消えるなんて、考えない方がいいよ」


 おそらくは六十四人に分かれたジクスが、ランシャとリーリアの周囲をグルリと取り囲んだ。炎竜皇の右手の炎が燃え上がる。六十四本の火柱となって。


「これはさすがにまいったな」


 背中から聞こえるリーリアの声。その左手は、ランシャの左手と重なる。


「時間を稼ぐ。姫様だけでも連れて逃げてくれ」


 ランシャのつぶやきに、リーリアはフンと鼻を鳴らした。


「おまえはこの娘がここまで来た理由を理解していないのか」


 左手がギュッと握られた。


「リーリアを助けたくば、自分が助かる方法を見つけ出せ」


「そんな方法はないよ」


 六十四人のジクスは燃える右手を高く掲げた。


「君たち二人には、ここで消えてもらうから」


 そのとき、天から声がした。


「言霊よ、開け」


 遠雷の如きその声は、この世界に命じた。


「水の槍、一万本」


 ジクスは思わず振り仰ぐ。上空に黒雲のような何かが浮かんでいる。赤く燃える目はそれを理解した。細い棒状にまとまった水が、無数に集合しているのだ。本当に一万本あるのではあるまいか。


「雨のように貫け」


 一万本の水の槍が、六十四人のジクスに、すなわち一人当たり百五十本以上の密度で襲いかかった。これがただの水なら無視しても良い。だがもしこのすべてに魔法がかかっているとするなら、その威力は岩をも穿つやも知れない。


「くっ!」


 ジクスたちは燃える右手を天に向けた。その判断は的確と言えたろう。水の槍の大半は右手の放つ高熱に蒸発したが、何本かは貫通したからだ。もし、水ごときと高をくくっていたら、おそらく壊滅していたはず。


 しかしこの数秒の隙は、ランシャたちには大きな数秒。レキンシェルの白い刃がきらめくと、ジクスを三体斬り倒し、包囲陣から脱出した。


 と、そこに上から接近する人影。ランシャがあっと思う間もなく、三人は姿を消した。


「逃げられると思っているの」


 六十一人のジクスは一瞬で重なり、一人へと集合すると、彼もまた姿を消す。




 ジクスが現れたのはガステリア大陸の内陸部、その上空高く。真下を見下ろせば三人の姿が見える。こちらに気付いた。


「でも遅いよ!」


 燃え上がる巨大な炎の右手は、さらに巨大な炎の球体を生み出す。これを叩きつければ全員灰となって消えるのだ。けれど、その火球は放たれなかった。


「ここは……!」


 できる訳がない。この場所で火球など放てるものか。何故なら。


 ミシリ。嫌な音がした。


 ジクスの胸から生える白い刃。驚愕を顔に浮かべた炎竜皇の目に映るランシャの晶玉しょうぎょくまなこ。氷と炎がせめぎ合い、傷口から水蒸気が噴き出す。ランシャはもう一段レキンシェルを押し込んだ。その刃をジクスの左手がつかみ、そして握り砕く。


 ランシャは下方向に距離を取った。その向こう側に白い世界が見える。大半を雲が隠す、雪と氷で覆われた狭い地面。それは広大な平野部に下から突き出した、巨大なとげの頂上。青璧の巨人が眠る聖地タムールであった。


 ここで下手に攻撃をして、もし巨人の封印が解けでもしたら。ザンビエンを倒した後でならまだしも、いまの段階でそんな事になれば。


 ランシャがレキンシェルを振ると、再び白い刃が伸びた。ジクスの胸に食い込んだ呪いの氷は、いまだ溶けずに水蒸気を噴き出し続けている。潮時か。今回は撤退するしかあるまい。炎竜皇は何も言わずに姿を消した。




「消えた……逃げた、のか」


 ランシャのつぶやきに、男の声が応えた。


「逃げたのでござろうな。いやはや、噂には聞いてござったが、とんでもない化け物でござる」


 しかし、そのとんでもない化け物を退しりぞけたのは、紛れもなくこの男の戦術である。何故こんな結果になったのか、どうしてあのときジクスが攻撃を躊躇ためらったのか、まだランシャは理解していない。


「ここに来るのは初めてでござるか」


 ランシャがうなずくと、謎の男は高度を下げて行った。


「では、降りてみるでござるよ」


 一瞬戸惑ったランシャだったが、水色のリーリアの、すなわちラミロア・ベルチアの言葉に従った。


「ライ・ミンは敵ではない。ついて行け」

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