第31話 波頭を歩く者

 霧が晴れて行く。海賊船イオースボックとその護衛する船団の周囲からも、肌にべたつきを感じるほどの濃い霧が、だんだんと消えて行った。船員が甲板から海をしばらく見つめると、不意に振り返り大声を上げる。


「来やした! 船長、帰って来やしたぜ!」


 歩いていた。それは海原の只中、大きく波打つ海面の上を、さして急ぐ様子も見せずに歩いていた。細身の全身に貼り付くような、飾り気の一つもない真っ青な服装。なでつけた白髪に白い口ひげ。老齢ではあるのだろうが、弱々しさとは無縁の様子。右肩に何かを担いでイオースボックに向かって来る。そして大きくうねる波の先端から、甲板へと飛び移った。


 青い服装の男はそのままの歩調で、椅子に座る女の前に進み出る。


「お嬢様」


 女は不満げな顔で口を尖らせた。


「船長とおっしゃい、ジーロック」


 するとジーロックと呼ばれた男は、無表情に担いでいた物を甲板に放り投げる。それは意識を失った黒髪の少年。


「では船長、これ以上無茶な事はおやめください」


「あら、そんなに無茶をしましたか」


「炎竜皇に関わる時点で無茶苦茶と言えるかと」


「でも何もせずに帰っていただけました」


「それは炎竜皇の賢明さ故」


「では今度会ったらお礼を申し上げましょう」


「お嬢様」


「船長とおっしゃい」


 女は一度ジーロックをにらむと、身を乗り出して少年の顔をのぞき込んだ。


「まだ子供ではないですか。あらあら可哀想に」


 そう言うと、興味を失ったようにまた椅子に座り直した。ジーロックが無表情にたずねる。


「助けないのですか」


「すでにあなたが助けたでしょう、危険を冒してまで」


 女は微笑む。


「これ以上の事をしてあげなくてはならない義理はありません。助かるかどうかは本人次第です」


「しかし、首の骨が折れています。そう長くは持ちますまい」


「あらそう、死んだら海に帰してあげなさいね」


 これにはさすがのジーロックも眉を寄せた。


「気まぐれで周囲を危険に巻き込むのはやめていただきたい」


「そうは行きません。弱き者を助けよと、私の慈愛の心が叫ぶのですから」


 女は楽しげにそう答える。何とも酷い慈愛があったものだ、とジーロックが心の中でつぶやいたとき。


 少年の口が小さく動くと同時に、全身から白い光と冷気が放たれる。だが少年はは目覚めない。その首筋に触れたジーロックの目が一瞬見開かれた。興味深げに女は再びのぞき込む。


「いまのは氷の精霊魔法ですね」


 ジーロックはうなずいた。


「回復魔法を使ったようです。おそらくは無意識でしょう」


「つまり助かるという事ですか」


「骨折やケガは回復しました。力を使い果たしたようですが」


「ほらあ、やっぱり私のおかげじゃないですか」


 女は嬉々として胸を張った。ジーロックは少年を船室に運ぶよう周囲に指示を出しながら、この先襲い来るであろう厄災について考える。炎竜皇に追われる人間など、しかも幸運と偶然が重なったとは言え、そこから生き残る者など、どう考えてもマトモではないはずだから。




「えーっ、ランシャ帰って来ないの?」


 赤髪のニナリがヘナヘナとへたり込む。それは想定外の衝撃。この旅における想定だけではなく、人生の想定が外れたと言ってもいい。泣きそうな顔でルオールを見上げる。


「どうしよう」


「どうしようって言われてもよ、帰って来ねえんだからしゃあないだろ」


 そう答えるルオールの顔に浮かぶ表情も、沈痛と言って良い。ニナリは泣きべそをかいてしまった。


「僕、やだよ。ランシャが居るから旅に出たのに。ランシャが帰って来ないんなら、もうどこにも行きたくない。ここで待ってる」


「んな訳に行くかよ。食い物もなしに何日待てると思ってんだ」


「ルオールは先に行けばいいじゃないか!」


「なっ、キレてんじゃねえよ!」


 周囲では他の荷物運びや飯炊きが、荷物をまとめ始めている。いつまでもこうして喋っている訳にも行かない。ルオールは困り顔でイルドットを見つめた。褐色の大男はやれやれという風に眉を上げ、ニナリに声をかける。


「だけど、ランシャはこの隊がミアノステスに行く事を知ってるんだよん。もし戻ってくるとしたら、ここじゃなくてミアノステスだと思うけどん」


 ニナリは顔を上げる。


「……そうかな」


「ニナリはどう思うのかなん」


 一度うつむいて、数秒考えると、ニナリは立ち上がった。


「わかった。じゃあミアノステスで待つ」


 そうつぶやいて、荷物をまとめ始める。ルオールはほっとした顔で、イルドットに「済まん」と言った。




 アルハグラの首都リーヌラ。帝国の繁栄を支えるこの都市に、いま暗雲が立ち込めている。いや、立ち込めているのは黒煙か。街のあちこちの建物から炎が上がり、悲鳴と怒声が響く。通りを埋め尽くす人の群れ。手に手に棒を、刀を、鎚を、槍を持ち、天に向かって突き上げる。


「アル・フーブ! アル・フーブ! アル・フーブ!」


 五人の指導者が惨殺された事に端を発する暴動。怒れるフーブ教徒の集団は、目に付く物を手当たり次第に破壊しながら、王宮へと進撃した。立ちはだかる者は誰も居ない。この街のすべての兵力は、ダナラム攻略に振り向けられていたがために。


「殿下! 姫様! お逃げください!」


 王宮の中はパニックとなり、使用人たちも大臣たちも、先を争って逃げ出す。それに続いて王族たちも。しかし時すでに遅し。王宮は暴徒に囲まれ、みな捕まってしまった。


「吊るせ! 殺せ! フーブに捧げよ!」


 フーブは生け贄を禁じている、暴徒の中からそんな声が出るはずもなく、命乞いの叫びも虚しく、次々に斬り落とされる首、首、首。その様子を王宮の中から見つめ、震えている影。第一王子ラハムは部屋の天井に向かって叫んだ。


「カーナ、カーナ! どういう事だ、何をした、何をさせた!」


 天井の隅に固まる暗闇。そこから逆さにのぞく二本角の黒山羊の頭。


「おやおや、ご立腹ですね。いかが致しました」


「ふざけるな! 私の兄弟たちも、大臣たちもみな殺されてしまった。このままでは私も殺される。貴様、私を裏切ったのか!」


 涙を浮かべ、恐怖に震え、怒りに我を忘れそうになるラハム。しかし黒山羊公カーナは呑気な高笑いを響かせた。


「またまたご冗談を。これはすべてラハム殿下、あなたのためでございますよ」


「な、何だと」


「そう、確かにあなたのご兄弟も、大臣たちも皆殺しにされました。ですが、こうお考えください。あなたの政敵になる可能性がある者は、みな居なくなったのだと」


 ラハムは愕然とする。


「しかし、しかしだな、このままでは」


「このままでは自分まで殺されてしまう、それでは意味がない、とおっしゃりたい?」


「そうではないと言うのか」


「はい、そうではございません。ラハム殿下のお命は、このカーナが責任を持ってお守り致しましょう」


 そう言うと、天井の暗闇は消え去った。


 そこにいくつもの足音。部屋の扉を乱暴に叩く音。口々に怒鳴る声。そして、扉は無理矢理にこじ開けられた。


「居やがったぜ、最後の王子だ」


「第一王子だ、捕まえろ」


「いいや、ぶち殺せ!」


 部屋に入ってきた四人の男たちが、しかし、不意に足を止めた。その後ろに居る連中が苛立たしげに声を上げる。


「おい、何してんだ、さっさとやれよ」


「……動かねえ」


「あ?」


「足が、動かねえんだ」


 先頭に立って乱入してきた四人は、みな足が床に縫い付けられたかのように動かない。そして彼らが邪魔で背後の仲間は身動きが取れずにいた。それを見つめて微笑むラハム王子。赤く輝く目で。


「そなたたちの乱暴狼藉、許し難い」


「うるせえ、ぶっ殺してやるからそこを動くな」


 そう答えた後列の男を、ラハムは右手で指さした。


「王族に対する不敬は万死に値する」


 その指がクイッと上を向くと、男の首は突如根元から千切れ、天井に飛び上がってぶつかる。


「一人」


 頭を失った首元から吹き上がり、バラ撒かれる大量の血液。暴徒たちは呆然としたものの、まだ自分たちの優位を疑っては居ない。ラハムの指が、今度は下を向く。


「二人」


 首を飛ばされた男の左右に立っていた二人の暴徒の体が、目には見えない何かに真上からグシャリと押し潰されて、平らな肉になった。ラハムの指はまた上を向く。


「三人」


 潰れた二人の背後に居た三人の股間から頭頂にまで亀裂が走り、一瞬で左右に引き裂かれる。ラハムの指はまた下へ。


「四人」


 足が動かなくなっていた四人は、突如全身から炎を噴き出し、苦悶の絶叫を上げながら生きたまま燃えた。


 ここに至り、ようやく暴徒たちは理解した。もはや自分たちには優位などないという事を。一斉に振り返り、悲鳴を上げて王宮の廊下を逃げ出すフーブ教徒の集団。その背に向かってラハムの声が響いた。


「五人」


 最後尾の五人の体が、爆発して血しぶきと肉片になる。恐怖は伝染し、パニックを呼んだ。




 軍本隊からの早馬は、まだゲンゼル王の元にまではたどり着いていない。だがそれを待っているのは時間の無駄と言えた。前線の様子はソトンとアトンの二人の道化が伝えている。ゲンゼルは青い聖剣リンドヘルドを手に、ドルトの背を降りた。駆け寄る近衛兵長に簡単な指示を与えた後、二人の道化と共に虚空に消える王の姿。


 その姿が再び現れたのは、国境の村クスカ。ジクリフェルの悪霊部隊が陣を構えるその正面に、王は降り立った。獲物が向こうから飛び込んで来た、と顔すらない者たちが嘲笑の声を上げたとき。ゲンゼルはリンドヘルドを一閃した。


 馬鹿め、そんなもの脅しにもならぬ、悪霊どもはそう言いたかったろう。だが、言えなかった。定まった形を持たぬ、殴っても斬っても手応えのないはずのその体が、まっすぐ水平に切り離されていたから。血が出る訳ではない。ただ切り口からボロボロと、全身が崩壊して行く。


 悪霊たちはゲンゼルに突進した。いかに恐るべき聖剣であっても、扱っているのは人間。殺して死なぬ訳はない。取り憑きさえすれば勝てるはずだ、と。しかし王は霧を払うように、草を薙ぐように、軽々とリンドヘルドを左右に振り回す。


 その刃に触れなくとも、ただ近付くだけで聖剣は悪霊の群れにダメージを与えた。これは完全に想定外、こんな相手と戦った経験がある者などここには居ない。声なき悲鳴を上げながら、取り憑くどころか抵抗らしい抵抗もできず、悪霊は次々に斬り殺されて行く。


 姿を消しても地に潜っても、リンドヘルドからは逃げられない。一方的な、ただただ一方的な虐殺は延々と続いた。

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