第30話 紅蓮の右手

 天を衝く水の竜巻の中心から、毒蛇公スラの気配が消えると同時に、竜巻も消滅した。


「そうかい、ランシャはジクリフェルに飛んでっちまったんだね。馬鹿な小僧だ」


 魔道士バーミュラは諦めたように小さく首を振る。それに納得できないのか、小太りのキナンジは楽観的な予想を口にした。


「でもよ、でもよ、ランシャなら何かやってくれそうな気がしねえ?」


「そうだよ、まだ可能性はあるんだろ」


 ルルも同調する。その視線の先には、酷く落ち込んだリーリア姫の姿。


 だがバーミュラは言い切った。


「無理だね。ランシャがレキンシェルの力を使いこなしたところで、炎竜皇ジクスの前にまで出られるかどうか。仮に出られたところで、勝ち目なんざ一切ない。次元が違うよ」


「つまりランシャはもう戻って来ない前提で旅を進めろって事か」


 細身のナーラムがため息交じりにつぶやき、隊長に目をやった。ザッパは難しい顔で腕を組んでいる。


「……居なくなったのはランシャだけじゃない」


 その言葉に、皆の視線が集まる。


「この旅は、全員が無事にリーヌラへ戻る事を前提としてはいない。最初から誰かが居なくなるのはわかり切っていた。重要なのはリーリア姫をザンビエンの元に届ける事だ。姫以外の誰かが欠けても、この奉賛隊は進まなきゃならん」


 バーミュラもうなずく。


「いまは一刻も早くミアノステスにたどり着く、それだけを考えな。一人でも多くリーヌラに戻りたきゃ、それしかない」


「その話なんだが」


 頭にジャイブルを乗っけたタルアン王子がたずねる。


「ミアノステスに、いったい何があるんだ」


 それは他の面々も思っていたのか、みな興味深そうにバーミュラを見つめている。魔道士は面倒臭そうにフンと鼻を鳴らした。


「居るんだよ、とんでもないのが」


「とんでもないの?」


 この期に及んでとんでもないとは、いったいどのくらいとんでもないのか。不安げな顔を浮かべるタルアンに、バーミュラはニッと歯を見せた。


「本人に会ったらまたそういう顔をするはずさ。魔道博士ライ・ミン。サイーの弟弟子だが、能力の高さに関しちゃサイーどころの騒ぎじゃない。本物の天才だよ。化け物と言ってもいい」


 ルルは目を丸くした。


「そんな凄いヤツが奉賛隊に加わってくれるのか」


「そりゃわからんさ。だから行くんだ。手紙だの何だのまどろっこしい事をしてたんじゃ、あの馬鹿は絶対に首を縦に振らないからね。ふん捕まえて引きずり出すんだよ」


 バーミュラの言いように、タルアンは当惑する。


「馬鹿なのか? 天才なのか?」


「天才で馬鹿なんだよ。見りゃあわかる」


 即答だった。




 頭のない妖人公ゼタの胴体が振るう妖刀土蜘蛛に押され、ランシャは後退した。痛めたのか左足を引きずりながら。上下から斬り込んでいたゼタは、いい加減に焦れたのだろう、攻撃を突きに切り替えた。その刹那、ランシャは横に飛ぶ。真横ではなく、相手を中心として大きな円を描くように。


 しかしスピードで劣るゼタにはあらず。あっという間に追いつくと、ランシャの胸を狙って、目にも留まらぬ突きの一撃。それをレキンシェルで跳ね上げて何とかかわすと、ランシャは円の内側へ直角に曲がった。


 背を向けて飛ぶランシャをゼタの胴体は追う。ランシャの体は不規則に左右に揺れた。そのとき。


――離れるんだ


 転がったゼタの頭の中に聞こえる声。だが遅かった。ゼタの胴体は巨大な手に握られたかのように動かない。周囲の空間が光を発していた。ランシャが土蜘蛛をかわしながら飛んだ軌跡が、引きずった左足の跡が、真っ白い線となり輝いているのだ。その意味を、ゼタの頭はただちに理解した。


「呪印だと!」


 返答はない。ランシャはまっすぐに飛ぶと、水平に、そして縦に、すなわち十字にゼタの胴体を切り裂いた。その断面は凍り付く。しかしそれを確認する事もなく、ランシャはさらにレキンシェルを振るう。千里眼は見つめていた。ゼタの頭のその中を。


 けれど。


 レキンシェルは振り抜けなかった。先端を握る、手袋に包まれた小さな手。空間に逆さまに立つ、ブカブカの鎧を身にまとった三本角の子供。ランシャは一瞬瞠目するが、すぐにレキンシェルを小刀に戻して小さな手から奪い取ると、後ろに飛び退いた。


「すごいね」


 子供は心底感心したかのように、目を丸くして微笑んだ。


「フンムと戦ったときには使えなかった呪印が、使えるようになったんだ。本当にドンドン強くなるんだね」


 レキンシェルの白い刃が再び伸びる。ランシャは心の中でレクにたずねた。


(誰かわかるか)


「ああ、そりゃわかるさ。てか、おまえもわかってんだろ」


(炎竜皇)


「そうだ、炎竜皇ジクス。ここの親玉だよ」


(勝てると思うか)


「無茶言うな。オレっちの力にサイーの遺産が加わったくらいで勝てる相手なら、誰も苦労はしねえわ」


「そうだね」


 まるでそのやり取りを聞いていたかのように、ジクスはうなずく。


「君ではボクは倒せない。それはわかり切ってる事。だけど、四賢者を倒せる力を人間が持っているのは邪魔だから、このまま見逃してあげる訳にも行かないんだ。ねえ」


 ジクスは逆さまのまま言った。


「君は魔族になる気ない?」


 返答はしない。ランシャは見た、千里眼で炎竜皇ジクスの内側を。だがそこにあったのは、脳でも心臓でもなかった。炎。ただ燃えさかる炎だけしか見えない。


「ないのか、じゃあゴメン」


 ジクスは手袋に包まれた左手で自らの右の手袋をつかむと、一気にねじ切った。右手首から猛然と吹き上がる炎。それはジクスの体を十数体は包めるであろう巨大な炎の手のひらとなる。


「殺すね」


 ランシャはその場から動かず、素早くレキンシェルの先端をジクスに向けた。白い刃が一気に伸びる。しかしそれが相手に届く事はない。まるで小枝をそうするように、軽々と振られた巨大な炎の右手は、ランシャの体を簡単に弾き飛ばした。




 イオースボックは海賊船。白い三本マストに、舳先には角の生えた鷲の頭部を刻む。広大なラダラ海を股にかけ、ガステリアと対岸のノグワルド大陸を行き来する商船を襲うのが基本スタイル。ただし、金さえ積まれれば護衛も引き受ける。


 今日もそんな船団護衛の仕事の真っ最中。天気晴朗なれど波高し。


「親分、何か嫌な海ですぜ」


 舵を取る猫背の船員の頭に、後ろから木製のジョッキがぶつけられる。


「痛てっ」


「親分じゃありません。船長とお呼びなさい」


 背後の玉座と見紛う立派な椅子にふんぞり返っているのは、女。少女と呼ぶほど幼くはないが、海の荒くれ男たちには小娘扱いされてもおかしくないほどには若い。しかし樽から酒をジョッキに注ぎ、グビグビと飲むその様子を見つめる周囲の目には、敬意と恐怖が半々に映る。


 長い金髪を左側でまとめて胸に垂らした青い瞳は、ほろ酔いの笑顔を男たちに向けた。


「海は荒れるものです。凪いでばかりでは、いつ襲われるか知れたものではありません。適度に荒れてくれるのは、ありがたいと思いなさい。時化しけてる訳でもないのですよ、ご覧なさいこの青空……」


 そのとき遠い空、雲の上から聞こえたのは爆発音。


「あらら、雷ですか」


 頭上にかかる真っ白い雲の峰。その中腹から噴き出したのは、紅蓮の炎。




 間一髪、雲の中から飛び出したランシャは、周囲を包み込まんとする炎から逃れた。巨大な燃える右手が握られている。振り返りざま、彗星の尻尾のように長く伸ばしたレキンシェルの刃を炎の拳に叩き付けたものの、表面で止められてしまう。斬れない。


「そりゃあ斬れんわな」


 耳元でレクの声がする。


「最初のビンタが浅かったから助かったけど、アレをかわせてなかったら、今頃挽肉の炒め物だぞ」


 何やら美味そうな例えだが、それに返事をする余裕はランシャにはない。巨大な炎の右手の動きに緩慢さは見当たらなかった。まるで獲物を見つけたトンボの如く、軽やかに飛んで来る。


 ランシャはレキンシェルの先端で素早く虚空を十字に切ると、それを二重の丸で囲んだ。氷の呪印。サイーの記憶。十字が膨らんで裂けると、内側から無数の尖った氷の破片がジクスに向かって襲いかかった。


 だがジクスの右手に届く直前、すべて一瞬で蒸気に変わる。


「そりゃそうなる」


(どっちの味方なんだよ)


 ランシャは思わず文句をつけた。耳元で笑う気配。


「もちろんオレっちはおまえの味方さ」


 迫るジクスに、ランシャは全力で後退した。


(だったら方法を考えろ。どうすればヤツに勝てる)


「言ったろ。勝てねえんだよ。強さの次元が違うんだ、最初から無理な話さ」


(だが)


「だけど助かる方法ならあるぞ」


(どうすればいい)


 ここは一旦逃げて、体勢を立て直すしかないか。そう考えるランシャにレクは言う。


「一度奉賛隊まで飛べ」


 何を言っているのか。ランシャは目を剥いた。


(そんな事ができるものか)


 できるはずがない。奉賛隊の居る場所まで飛べば、相手も追ってくるだろう。いたずらに被害が増えるだけだ。だがレクはランシャの気持ちなど無視して続けた。


「そしてリーリア姫を連れて、氷の山脈まで飛ぶんだ」


(おまえ、何を)


「ザンビエンの懐に逃げ込んで、生け贄を捧げろ。そうすりゃザンビエンが炎竜皇を退しりぞけてくれる。おまえは助かるし、奉賛隊の連中もおそらく生き残れるはずだ。当初の目的も果たせるし、いい事尽くめじゃねえか」


(本気か)


「何で冗談を言う必要がある。ここまで何のために旅をしてきた。何のために戦ってきた。いまさら自分のやるべき事がわからないはずはねえだろ。さあ、さっさと飛べ!」


「それはダメだよ」


 その幼い声は、ランシャのすぐ後ろから聞こえた。馬鹿な、ジクスなら目の前に……消えた。まるで花が風に散るように、巨大な炎の手はかき消えた。幻影。いつの間に入れ替わったのだ。


 考えられたのはそこまで。強大な衝撃が真上から襲い、ランシャは海に叩き落とされた。




 アルハグラの兵団その数三十万の中から、兵二万ずつの三部隊、合計六万が先行し、ダナラム側の国境に面した村、ジヌー、ヒサ、クスカに侵攻した。どれも人口千人に満たない小さな村、すぐに攻略できると誰もが思っていたが、それは叶わなかった。魔族の軍団が待ち構えていたからだ。


 ジヌーには人型をした大小の鬼の軍、ヒサには魔象ボルボルを先頭に獣魔の軍が、そしてクスカには確固たる肉体を持たぬ悪霊の軍が陣を構える。


 鬼どもは人の肉を文字通り食い散らかした。獣魔は爪や牙で人間を引き裂き、悪霊たちは次々に兵に取り憑き呪い殺す。士気も練度も低いアルハグラの兵六万は、三つの村で合計三百の死体が転がる頃には悲鳴を上げて逃げ出していた。そのあまりに呆気ない敗北は残り二十四万を大いに動揺させ、将軍は後方に迫るゲンゼル王に早馬を走らせた。




 ジクスの一撃には手応えがあった。あれで死んでいてもおかしくはない。しかし炎竜皇は巨大な燃える右手を揺らめかせながら、海面近くにまで降りた。体が浮かんでくれば消し炭に変え、後顧の憂いを断ってやろうと。


 その視線が上がった。いつの間にか水平線が見えなくなっている。霧だ。牛乳のように濃厚な霧が海面を覆い、這い寄ってくる。だが霧など恐れるジクスではない。その目はどれほどの濃霧であろうと見通せる。はずだった。だがこの霧は向こう側が見えない。ただの霧ではない。


「精霊魔法、かな」


 ジクスは問いかけるように口にしたが、返答はなかった。霧は視界だけではなく、気配もすべて飲み込んでいるようだ。この一帯を吹き飛ばせば話は簡単に終わるようにも思えたが、海はジクリフェルの支配領域ではないのだ。海魔水魔を敵に回して魔族同士で戦うような羽目には陥りたくない。損得を妥当に計算すれば、ここは引くのが得策だろう。


 やれやれと一つため息をついて、ジクスは空に舞い上がった。

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