第29話 忌むべき名前

 ラミロア・ベルチア。その名を知る者はもう少ない。人間も、魔族も、精霊も。




 毒蛇公スラの口から噴煙の如く吹き出る紫色の煙。正体はわからない。だがバーミュラは咄嗟に叫んだ。


「いと速き風の精霊よ!」


 猛烈な風が吹きすさぶ。それは紫の煙をスラの側へと押しやった、かに見えた。だが。


 チリチリという細かい音と共に、煙は徐々にこちらに向かって来る。風に翻弄され、渦を巻きながらも、少しずつその勢力圏を広げていた。バーミュラは音の意味に気付いた。風が食われているのだ、この紫色の煙に。


「無駄、無意味、無価値」


 煙をとめどなく吐きながら、感情を映さない冷たい目でスラが笑う。


「いかに強大であろうとも、ただの風ではこの煙は止まらぬ。これは世界を焼き尽くす猛毒。人間に逃れるすべはない」


「ならば!」


 ジャイブルが稲妻を放つ。しかし煙を貫けない。ウィラットの魔弓キュロプスが唸る。だが天空から降る光の矢も、煙の中に喰われて消えた。


「風を喰らう。稲妻も喰らう。光も水も、この世界のすべてを喰らうのだ」


 スラはリーリアを見つめた。両手を組み、青い指輪に祈りを集める姫を。


「いと賢き水の精霊よ、願わくはその力を貸し与えたもう」


「無能、無力、無様」


 スラの吐く煙の量が一気に増大し、バーミュラが作る風の壁を圧倒する。リーリアが叫んだ。


「願わくは!」


「終わり」


「みんなを守って!」


「誰も守れない」


 嘲笑あざわらう毒蛇公。けれど、リーリアの耳には、水滴の墜ちる音が聞こえた。その瞬間。


 スラの足下から立ち上る巨大な水流。宙で渦を巻き竜巻状態で天に伸びる。紫色の煙をその内側に飲み込んで。


 渦の中心で高速回転させられるスラは、声にならない悲鳴を上げた。


――何故喰らえない、この水、まさか


 リーリアは瞠目していた。天を衝く水の竜巻に、そして、水色に輝く自らの体に。その脳裏に浮かぶ、一つの名前。


「……ラミロア・ベルチア?」




 戦斧に乗る圧倒的なパワー。確かにいまのランシャとレキンシェルなら、それをこらえる事は可能だ。だが堪えるだけでは勝てない。持久力勝負になれば圧倒的に不利。相手の鎧を飛び越えて必殺の一撃を放つためには、距離を取り、タイミングを合わせる必要がある。


 けれど魔獅子公フンムは、徹底的に距離を取らせない。瞬間的なスピード、瞬間的な攻撃力ならば上回れるのに、フンムはランシャの動きを読み、先手先手を打つ。総合的な戦闘力には、いまだ大きな差があった。


 ランシャの耳元にはレクの声が響く。


「とにかく何とかして離れろ! このままじゃ潰されるぞ!」


 できるならやってる、と怒鳴りたかったが、いまは声を出す余裕すらない。そんなランシャの脳裏に浮かぶ、あの名前。


 ラミロア・ベルチア。


 いまはそれどころじゃない、ランシャが打ち消そうとすればするほど、その名前は強く頭の中に浮かんで来た。


 ラミロア・ベルチア。


 叫べ、叫べ、叫べ、叫べ。それは誰の声。それは誰の思い。サイーか。いや、違う。それは遠い時間の彼方からサイーに受け継がれた、そしてランシャがサイーから受け継いだ記憶、願い、祈り。


 そのとき、フンムの戦斧にかかる圧力が一瞬弱まった。


「いまだ、飛べ!」


 レクの声に意識が向いたランシャは、ほんの一瞬棒立ちになる。それを見逃すはずはない。それともそこまで計算していたのか。フンムの蹴りがランシャの脇腹を襲った。鈍い音と共に宙を舞うランシャの体。無銘にして無尽なる戦斧は、地面に落ちるのを待ちきれぬかの如く振り下ろされた。


「ラミロア・ベルチア!」


 最後の力を振り絞り、ランシャの口が発した叫びは、フンムとの間にそそり立つ透明な水の壁を呼んだ。しかし爪の先ほどの厚さの壁など、時間稼ぎにすらならぬ。フンムの戦斧は軽々とそれを切り裂いた、はずだった。


 戦斧は振り抜かれた。だがその切っ先はランシャに届くどころか、水の壁の向こうにすら達しない。フンムは慌てて飛び下がる。水の壁の向こう側に人影。左の手のひらをフンムに向け、ランシャをかばうように立つのは、全身を水色に輝かせたリーリア。青い指輪が強い光を放っている。


「水の精霊魔法だと、馬鹿な」


 砂漠の真ん中とは言え水路の近くである、水の精霊魔法が使える事自体はおかしくない。けれど、この薄い水の壁が越えられないとなれば話は変わる。空間が歪められているのだ。そんな強大な力を持った精霊など、果たしてザンビエン以外に居るだろうか。


「いと賢き水の大精霊よ」


 リーリアは歌うように詠唱する。


「永遠に流れる時の守護者よ、忘却の彼方の女王よ、いまこそその力、示したもう」


 リーリアの右手が背後に向けられた。一瞬ランシャの体を水が包んだかと思うと、音を立てて弾け飛ぶ。思わず咳き込んだものの、脇腹に手をやり、傷が治っている事に気付く。戦いの中で奪われた体力も復活している。強力な回復魔法である。


「おのれ、武人の勝負に水を差すなど小賢しい。しかれども! 我らの本来の目標がここに現れたのは好機と言えよう」


 フンムは戦斧をリーリアに向けた。いかに水の壁が空間を曲げるとは言えど、無限であるはずもない。果てがあるなら突っ切るまで。


「覚悟せよ!」


 水の壁を回り込むという発想はなかった。猪突猛進、直情径行、立ちはだかる壁は打ち砕くのみ。野獣の咆吼を上げ、フンムは水の壁に頭から突っ込んだ。その目が見たのは、圧倒的な量の水。壁どころの騒ぎではない。前後左右に、そして上下に、陽光の差し込まぬ、ほの暗い水の世界が広がっている。


 それは必ずしも無限ではないのかも知れない。けれどここを突き抜けるには、フンムの力はあまりにも卑小に思えた。


 ランシャが走る。レキンシェルで水の壁を突いた。氷の魔剣は爆発的な反応を起こし、透明な壁は一瞬で凍り付く。内側にフンムを飲み込んだまま。ランシャは安堵のため息をつき、遠く奉賛隊の居る方向を見つめた。


 天を衝く水の竜巻。次いでもう一度凍った透明な壁を見て、最後に水色に輝くリーリアに目をやった。


「ラミロア・ベルチア、なのか」


 リーリアの顔に浮かんだのは、寂しげな微笑み。


いにしえの知識を受け継ぐ者よ。我が名を口にしてはならぬ。これはけがれ、呪われた名前。血といさかいを呼ぶ、忌むべき名前。封じられ、忘れられたには理由がある。そなたも忘れるが良い」


 だがランシャの中には、それに否を叫ぶ声が。その透き通る眼の奥に刻まれた、サイーの遺産が告げている。この名を忘るべからずと。


 と、そこに。


 突然意識に割り込む雑音ノイズのような感触。凍りついた壁の中から、フンムの気配が消えた。自力で姿を消したのではない。何か外から大きな力が、無理矢理に引っこ抜いたのだ。その強大な異能の残渣がランシャの眼には見えた。


 空間を飛び越えてはるか彼方、千里眼の届く範囲の外まで続く「道」を、ランシャは、いや、サイーの遺産は追える。ラダラ海の上空にそびえる白い雲の峰、濃密な魔族の気配の集まる中で、さらに一つ、際立って巨大な気配がいま、こちらを見た。


「ラミロア・ベルチア」


「やめておけ」


 リーリアの姿をした古き存在は首を振った。


「そなたの力では手に負えぬ。あの魔道士もそう言うだろう」


「姫様を頼めるか」


 その言葉に、ラミロア・ベルチアは眉を寄せる。


「私に頼むだと? ザンビエンに生け贄を届けろとでも言うつもりか」


 その問いへの回答の代わりに、ランシャは微笑みこう言った。


「同じ事を繰り返したくない。これ以上誰も失いたくない」


 ラミロア・ベルチアはしばし哀しげにランシャを見つめると、ため息交じりにうなずいた。


「あの指輪とえにしを結んだときから、こうなる宿命であったのやも知れぬな。良かろう、そなたが戻るまでは、この娘を守ってやろう」


「ありがとう」


 そう言って背を向けるランシャに、リーリアの口を借りてラミロア・ベルチアが声をかけた。


「必ず戻れよ」


 ランシャの姿は白い光となって消える。涙が一粒、砂に落ちた。




 風より速く天空を駆ける。砂漠をあっという間に通り過ぎたかと思うと、広大なジャングルを一瞬で飛び越える。そして海の上、そびえる巨大な白い雲の峰。そのあらゆる意味で中心、もっとも巨大な力のある場所に、ランシャは一直線に飛び込んだ。


 分厚い雲の壁をレキンシェルを振るって突き抜けると、中には広大な空間。その奥に石造りの宮殿が威容を示し、入り口はこちらに向かって開いている。そこに立つ、黒衣の女。腰に巻いた黄金の鎖が、一本の刀に姿を変えた。真っ赤な刀身に黄金の刃。妖刀土蜘蛛。


 レキンシェルの刃が伸びる。ランシャの体の何十倍もの長さにまで伸びる。唸りを上げて振り下ろされる長大な白い刃を、金色の鎖で編まれた蜘蛛の巣が受け止めた。しかし蜘蛛の巣は一瞬で凍り付き、冷気はさらに浸食する。妖人公ゼタの手元に向かって。


 けれど、冷気の侵攻は土蜘蛛の先端で止まった。真っ赤な刀身が輝くと、展開した蜘蛛の巣も赤く熱を帯び、瞬時に氷は蒸発する。さらにそのまま熱い蜘蛛の巣は、ランシャを包囲した。


(なあ、レク)


 そう心の中でつぶやくと、ランシャの耳元で声がする。


「何だよ」


(あの女を倒せるか)


「さあな。相手が悪い」


(無理か)


「無理かどうかも良くわからん。ただし」


(ただし?)


「たぶん向こうも同じ事を考えてんじゃねえかな。いまのおまえはそのくらい強いぞ」


(レクにおだてられると気持ち悪い)


「まったく素直じゃねえなあ、おめえはよ」


 ランシャの周囲を取り囲む蜘蛛の巣は、一気に包囲を狭めた。ランシャは見た。その千里眼で、蜘蛛の巣の向こう側のゼタを。その白い首筋を。レキンシェルを水平に振るうと、ゼタの首は音もなく落ちた。


 途端、周囲の蜘蛛の巣は熱を失い、動きを止める。レキンシェルを叩き付ければ、蜘蛛の巣を形作る細い鎖は散り散りに砕けた。包囲を突破したランシャは一息にゼタまで飛ぶ。首を落としただけで死ぬとは限らない。事実、首を落とされたゼタの体はまだ土蜘蛛を手にしたまま立っている。トドメを刺さねば。


 だが近付いたランシャに、ゼタの体は凄まじい速度で反応した。赤い刀身の土蜘蛛が下段から斬り上げる。かろうじてレキンシェルで受けたものの、続く上段からの打ち込みには腰が引けた。下、上、下、上と連続する攻撃。速い。これに比べればフンムの戦斧など、ハエが止まりそうだと言えるかも知れない。


「なるほど、魔獅子公の言っていた通り」


 その声は、転がるゼタの首から出ていた。


「貴様は接近戦が苦手なのだな」


 しかし首を見ている余裕はランシャにない。ゼタのペースの速い攻撃に体勢を立て直せないまま、ズルズルと後退していた。何とかしなければ。何とかして隙を作らねば、次に首を落とされるのは自分の方だとランシャは焦る。その焦りは剣を迷わせ、鈍らせた。

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