第28話 無銘にして無尽

 まだほんのり暗い早朝、ドルトの背に荷物を積み込む。チノールの街とも今日で一旦お別れだ。


「次に行くのはニワンバナじゃなかったのかよ」


 不満そうな顔で荷物を抱えるルオールに、褐色の大男は首をかしげた。


「次はミアノステスに行くらしいよん」


「ミア……どこだ、それ」


「ミアノステス。北の方にある小さな街だってさん」


 イルドットは荷物を支えるベルトの具合を確かめながらそう答える。


「ねえ、イルドットさん」


 赤髪の少年ニナリは、ドルトの背に積まれた袋に、さらに可能な限りの食料を詰め込んでいた。


「勝手に目的地を変えて、王様から怒られたりしないのかな」


 ルオールはうなずく。


「そうだよな、そう思うよな」


 しかしイルドットは、ルオールの手から荷物を受け取ると、それをドルトのベルトに取り付けて微笑む。


「隊長の裁量ってものがあるからねん。勝手気ままにって訳には行かないだろうけど、ある程度は大丈夫なんじゃないかなん」


「ホントかよ。巻き込まれるのはゴメンだぜ」


 そう言うと、ルオールはまた次の荷物を取りに走った。


 もう巻き込まれてるけどねん。そんな小さなつぶやきは、誰の耳にも留まらなかった。




 ラミロア・ベルチア。その名を知る者はもう少ない。人間も、魔族も、精霊も。


 ラミロア・ベルチア。それは秘された偉大な名前。歴史に隠された存在。


 ラミロア・ベルチア。現世に固執する者には、もはや知る意味すらない名前。


 ラミロア・ベルチア。この言葉が昨日からランシャの脳裏に浮かんで離れない。おそらくはサイーの知識。しかしこれが何の名前なのか、何故いま思い浮かぶのかがわからない。


「バーミュラ、ラミロア・ベルチアって知ってるか」


 たずねてはみたものの、魔道士は怪訝な顔を見せるだけ。


「聞いたこたないね。人の名前かい」


「わからない。古い名前らしいんだが」


「サイーの記憶なら、おまえが頑張って思い出すしか手はないよ。サイーのすべてを受け継いだんだ、できるはずさ。そもそも知識の量だけなら、あのジジイに太刀打ち出来るヤツなんぞ居ないしね」


 そうは言われても、思い出し方に見当がつかないのだ。またザンビエンにでも出会わなければ思い出せないのかも知れない。だいたい思い出さなければ、どんな不都合があるのか。気にはなるが、もしかしたら単にそれだけの事という可能性だってある。


 朝の光の中、ランシャは気分を切り替えてチノールの街を出た。前後には隊長やリーリア、バーミュラたち。街を囲む壁の外では、待っていたドルトの隊列が立ち上がる。さあ、旅の再開だ。




「闇に乗じるのが定石」


 毒蛇公スラはため息をつきつつ空を見上げた。雲一つ見えない、抜けるような快晴の朝。


「夜まで待てとでも言うつもりか」


 砂丘の陰で魔獅子公フンムは不満げに言う。全身より満ち溢れる闘志。そこからわずらわしそうに顔をそむけて、スラは冷静に答えた。


「攻めるなら昨夜でも良かった」


「戦には準備が必要だ」


「たった二人に準備など要らない」


「我らの準備ではない。カーナに従い人間と共闘する連中には、心の準備をさせねばならん。獣魔どもを説得するには、一晩でも短いくらいであったわ」


「蛇族には理解不能」


「ごちゃごちゃとうるさい。とにかく我が正面から攻め、そなたが側面を突く。いますぐ、これからだ」


「役割分担は理解している」


「ならば良し!」


 戦斧せんぷを一本構え、黄金の鎧をまとったフンムは砂丘を飛び越えた。




 大水路に沿って東へ向かうと、二時間ほどで土漠はまた砂漠へと変わる。ちょうどその辺りで支水路が分岐し、水は北に向かって流れて行く。この支水路に沿って行けば、ミアノステスまでたどり着くはずだ。


 奉賛隊はそこで一旦休憩を取った。まだそれほど暑くはないが、天幕を張り、パンを焼く。傭兵たちは見張りに立ちながら、飯炊きから声がかかるのを気もそぞろに待っていた。


 パンの焼ける甘い匂いが漂ってくる。


「もうそろそろかな」


 傭兵の一人が待ち遠しそうに言った。隣に立つ仲間に聞こえるように。だが返事はない。それは当然、隣を見ても誰もいない。


「あれ。あいつ、いつの間にいなくなった……」


 そうつぶやきかけたとき、足首に走る鋭い痛み。何かに咬まれた、と思ったものの、下を見る時間的余裕はなかった。悲鳴すら上げられず、一瞬で砂の中に引きずり込まれる傭兵の体。




 バーミュラは突然顔を上げた。


「ランシャ、ウィラット、周りを見張りな。何か居るよ」


 二人の千里眼が周囲を見回す。先に気付いたのは、魔弓を空に向けるウィラット。


「北の方角、獅子頭の魔族が来る」


 ウィラットに手のひらを向け、同じモノを見るバーミュラ。


「魔獅子公フンムだね。ランシャ、食い止めな」


 ランシャはうなずき、無言で駆けて行く。


「ならば援護しよう」


 弦を絞ろうとするウィラットを、バーミュラは止めた。


「まだだよ。もっと千里眼で周囲を見張るんだ」


「しかし」


「こないだは大勢で押しかけてきた。それが何で今回は一人きりなんだい。きっと策があるはずだ」


 そして王族の二人に声をかけた。


「リーリア、タルアン、おまえたちは近くに居な。離れるんじゃないよ」




 砂塵を巻き上げ砂丘を突進してくるフンムの足が、不意に止まった。目の前が一瞬白く輝く。砂地に小さな窪みを作って、いつの間にか人間が立っていた。見覚えのある少年が。燃え立つが如きフンムの目。


「我が名は皇国ジクリフェルのフンム。小僧、うぬの名は」


「ランシャ」


 その右手に伸びる、魔剣レキンシェルの白い刃。


「覚えておこう、ランシャ。我を一度退しりぞけた者の名としてな」


「もう一度退ける」


「図に乗るな!」


 陽光をきらめかせて戦斧が振り下ろされる。それをレキンシェルが受けた。衝撃は全身を震わせ、ランシャの足先にまで届く。腕が軋む。月光の将ルーナの鎚を受けたときのように。だがあのときも剣を落とさなかった。だから今度も耐え切れた。


 ガリガリと戦斧の削れる音に、フンムの口元が歪む。


「ほう、強さを得たか」


「俺は何も変わっちゃいない」


「己の力量を理解するのが」


 フンムは戦斧に両手をかけて押し込んだ。


「強さだというのだ!」


 圧倒的なまでに強烈な圧力。いかにレキンシェルの力を発揮できるようになったランシャとは言え、体力差は否めない。真正面からの組み合いはやはり不利であった。


 ランシャは魔法の力で後ろに飛んだ。飛び上がらず、地面に沿って距離を取ろうとしたのだが。


 フンムは距離を取らせなかった。下がっても下がっても、追いついてくる。


「同じ手が通じるとでも思ったか!」


 後方には奉賛隊が居る。いつまでも下がり続ける訳には行かない。右に飛んだ。しかし追いついてくる。左に飛んだ。やはり追いついてくる。


「もはや逃げられはせぬ、諦めよ!」


 振るわれる戦斧、ランシャは足を止めて受ける、と思いきや。


 その身が小さく沈んだ。レキンシェルは真下から真上に白い線を走らせる。


 魔剣の刃が当たったのは、戦斧の柄。いかに頑強な戦斧でも、柄ならばと狙ったのだ。それは正解。戦斧の柄は白い刃に斬られてヘッド部分は宙に舞った。ランシャは体を一回転させると、フンムを肩口から斬り下ろす。


 無論フンムの体は魔法の鎧で守られていて、レキンシェルでも傷はつかない。だが一瞬全身が凍結する。その一瞬で、頭の内側を貫くつもりだった。心臓を斬り割っても死なない怪物であっても、頭の内側を貫けば。


 けれどフンムの頭部を狙ったレキンシェルは、次の瞬間、再び戦斧の一撃を受け止める事になる。砕ける氷が飛び散る中で、ランシャは混乱した。馬鹿な、戦斧は柄から斬り落としたはず。


 首を細かく振り、顔を覆っていた氷がすべて落ちると、フンムの口元が獰猛に歪んだ。


「残念だったな。我が戦斧は無銘にして無尽。斬り落とそうと打ち砕こうと、決してこの手の中から失われる事はない」




 隊長たちがバーミュラの元に集まる。その顔に焦りを浮かべて。


「どうだった」


「荷物運びが二人」


 と、ルル。


「傭兵が三人消えてる」


 と、キナンジ。


「飯炊きが一人見当たらない」


 と、ナーラムが答えた。


 隊長が深刻な顔でバーミュラを見つめる。


「とりあえず最低六人が姿を消した。どこに行ったかわからない」


 バーミュラはウィラットに目をやった。


「近くに何か居るはずだ。見えないかい」


 しかし魔弓キュロプスを空に向けながら、その千里眼は敵を捕らえられずにいた。


「見えません。敵には千里眼をかわす能力があるのかも知れない」


「んじゃあ仕方ないね」


 するとバーミュラは左の手のひらに、右手の人差し指で渦巻きを描く。


「ちょっとビックリするだろうけど、我慢おし」


 そう言うと、その渦巻きをフッと吹き飛ばした。だがこれといって何も起きない。ウィラットにはそう思えた。それが間違いであると理解するのに必要だったのは、瞬きを二回するだけの時間。


「これは」


 止まっている。ウィラットの千里眼の中で、リーリアとタルアンが、傭兵が、荷物運びや飯炊きが、そしてドルトたちまでが、凍りついたかのように動かない。バーミュラがニヤリと笑う。


「金縛りの魔法を使った。三十秒で切れるよ。いまのうちに魔弓で矢の雨を降らせな」


「みんなを避けて撃てというのですか」


「そうだ。人と人の隙間、人とドルトの隙間を、おまえの矢で埋め尽くすのさ」


「簡単におっしゃる」


 ウィラットは苦笑しながら、それでも真上の青空に向けて弦を絞った。


「キュロプス、我が意に応えよ」


 矢をつがえない弦が、微かな音と共に放たれる。そのままの姿勢で一つ、二つ、三つ数えたとき。天空から雨のように降り注ぐ光の矢。それは奉賛隊の最後尾から前に向かって、人間を避けドルトを避け、次々に足下に突き立って行く。


 光の矢がリーリアの足下に刺さると同時に、砂の中から飛び上がる長い影。バーミュラはその影に向かって右手を向ける。


「結界は張らせないよ!」


 もんどり打って砂の上に降り立ったのは、巨大なコブラ。腹が丸々と太い。何を喰らったのかは考えるまでもない。


「おのれ魔道士、邪魔立てを」


 言葉を話す蛇の口。バーミュラは右手で宙を握りしめる。


「ジクリフェルの毒蛇公スラだね。三度目の正直って訳かい」


「魔剣の相手は馬鹿に任せた。生け贄はこちらにいただく」


 ウィラットは目にも留まらぬ早業で、スラに向かって光の矢を放った。だがそれよりも先に、スラの前には壁が現れていた。六つの、人間の姿をした壁が。いつの間にかスラの腹が細くなっている。


 光の矢で貫かれた六人は、苦痛と怨嗟の声を上げながら前に進む。戸惑うウィラットに、バーミュラの声が飛んだ。


「ビクつくんじゃない! 死んだヤツの向こうに居る蛇を撃ちな!」


「そうは行かん」


 大きく開いたスラの口から湧き出るのは、無数の黒い蛇たち。地面を這い空中を這い、リーリアに襲いかかる。バーミュラは左手を砂についた。途端、砂の中から噴き出したのは、大量の砂色をしたネズミの群れ。ネズミは集団で蛇たちに噛み付き、六人の歩く死体の表面を埋め尽くした。


 真上から降る光の矢、しかしスラは稲妻の速度で横に飛んでかわす。


「ああっ!」


 そのとき声を上げたのはタルアン。隣でリーリアも目を丸くしている。


「目が覚めたんなら、さっさとジャイブルを出すんだよ!」


 バーミュラに怒鳴られて、タルアンは慌ててジャイブルを呼び出した。いかにスラが稲妻のように移動したとしても、速さでは本物にかなわない。たちまちその身に何本もの落雷を受け、身動きが取れなくなったところに光の矢が降り注ぐ。


 スラの全身は無数の矢に貫かれ、音を立てて地面に横たわった。


 勝利の確信、そんな気配が漂う中で怒鳴り声を上げるのはバーミュラ。


「気ぃ抜いてんじゃないよ! まだ頭が生きてる!」


 その言葉を待っていたかのように、スラの首は持ち上がった。開かれた口から吐き出される紫色の煙。


「黙って生け贄を差し出せば、命ばかりは助かったものを。無謀、無思慮、無分別。ならばもう良かろう、すべてを破壊する」

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