第32話 鬼火の街

 水の中なのに炎が燃えている。その明かりに照らされる顔、そして顔。暗い水の中に八つの顔が浮かんでいた。どれも美しい女の顔。けれど生気は感じられない。そのうちの一つが口を開いた。


「ジクリフェルの炎竜皇が何用か」


 炎は小さな子供の姿になった。ブカブカの鎧を着た三本角の子供に。


「君に頼みがあって来たんだ」


「たわけた事を。魔族の理を捨てたお主らジクリフェルと、我らは互いに関わりなき者。頼み事など受けねばならぬ謂われはない」


「でも筋だけは通しておこうと思ってさ」


「筋だと、笑止」


「じゃあ海の水を干上がらせてもいい? すべての魚が茹で上がって、何も住めなくなるけど構わない?」


 女の顔は、カッと目を見開いた。


「海魔水魔を敵に回す気か、ジクリジクフェル」


「そんなつもりはないから、君に頼んでるんだよ、ゾーブラシム」


 ゾーブラシムと呼ばれた顔は、いささか迷惑そうに眉を寄せた。


「……とりあえず話だけは聞いてやろう。ただし、受けるかどうかは内容次第」


「うん、それで構わない。難しい話じゃないんだよ」


 炎竜皇ジクスは笑顔でこう言った。


「海の中にザンビエンの爪の欠片が落ちてるんだ」




 誰かが見下ろしている。顔の輪郭は見えないが、この優しげな視線には覚えがある。リン姉だ。


――ランシャ


 リン姉、どこに行ってたんだ。俺は、俺はずっと。


――忘れなさい


 何を? 何を忘れろと。


――あなたはもう自由。過ぎた事はすべて忘れて


 何でそんな事を言うんだ。俺はいままで一日だって。


――人は忘れるもの。みんなそうやって生きていく


 忘れるものか、俺は、絶対に!


「絶対に?」


 上からのぞき込む青い瞳。左側にまとめた金色の髪。女は息のかかるほど顔を近付けている。


「リン姉って誰ですか?」


「お……」


 おまえこそ誰だと言いかけて、ランシャは口を押さえた。喉の奥に吐き気が迫り、頭の中が揺れている。


「あらあら顔が真っ青ですよ。船酔いですか? 情けないですね」


 女は楽しそうに笑いながら、ベッドの脇の椅子に座った。その隣には全身青い装いの、背の高い老人が立っている。二人は動かない。だが世界が動いている。揺れている。ミシミシと部屋が歪む音。


「……ここは、船なのか」


 ランシャの言葉に女は笑顔でうなずく。


「私、船酔いって言いましたよね。だったら普通、船でしょう」


 老人が一つ、ため息をつく。


「お嬢様」


「船長とお呼びなさい」


「ならば船長、船に乗った経験がなければ、船酔いを知らぬ者もおります」


「あら、そう。では新たな知識を得られて良かったですね」


 そう言うと、女はランシャにたずねた。


「あなた、名前は」


 相手が敵なのか味方なのかもわからない状況で、偽る事も考えなかった訳ではない。だがいまのランシャの脳には、嘘を考える余裕がなかった。


「ランシャ」


 ベッドに横たわったまま動けないランシャに、女は微笑む。


「私は海賊船イオースボックの船長、ビメーリア・ベルチア。ようこそランシャ、歓迎します。なお、この船では働かざる者食うべからずなので、そのつもりで」


 ベルチア。その名にランシャは反応しかけたが、目が回って体が動かせない。そのまま意識を失ってしまった。




 日は沈み、夜が来る。砂漠を行く奉賛隊は立ち止まり、天幕を張って火を焚いた。夕食を摂り、一部の傭兵が見張りに立つと、それ以外はみな天幕の中で毛布にくるまれて眠る。夜の冷気と静寂が周囲を包む中、ほとんどの者が気付かない、小さな動きがあった。


 魔道士バーミュラの天幕に、入り口をくぐる事なく突然姿を現わしたのは、リーリア。バーミュラは片目を開けてつぶやく。


「しつけのなってない姫様だね。こんな時間に何の用だい」


「魔道士バーミュラ。あなたにたずねたい事があります」


 目を閉じたリーリアは、立ったまま眠っているかのようにも見えた。バーミュラはフンと鼻を鳴らす。


「私ゃ眠いんだ、手短かに頼むよ」


「ラミロア・ベルチア。本当はその名を知っているのではありませんか」


「知らないね」


 即答だった。


「そんな名前は知らない。知る必要がないし、知らない方がいい。そういう事は世の中に沢山あるんだ。ちったあ利口になったかい」


 しかしリーリアは不満を表すように立ち尽くしている。バーミュラは小さくため息をついた。


「……ま、ライ・ミンなら知ってるかも知れんね。だからミアノステスに着くまではおとなしくしておいで。それがお互いのためだよ」


 ようやく納得したのか、リーリアの姿は消えた。バーミュラは今度は大きくため息をつくと、しみじみつぶやいた。


「まったく、厄介なこったね」




 深夜のリーヌラに火が灯る。街の明かりではない。暴動の炎でもない。鬼火だ。無数の鬼火が漂い、闇に隠れているフーブ教徒たちを探している。その鬼火の群れに照らされて、広場の中心に立つのは、第一王子ラハム。人々は闇の中で震え、手を合わせてフーブに祈りながら、鬼火から身を隠す。けれど。


「百と八人」


 ラハムの声が響くと、闇に隠れる者たちが次々に、まるで雑巾が絞られるかの如く体がねじられ、全身から血を噴き出して死ぬ。その数、百八人。闇の中から聞こえてくる悲鳴と絶望の声。心地よい音楽を聴くかのように、その声に耳を傾けると、ラハムは微笑みこう宣言した。


「死にたくない者は、闇より姿を現わすがいい。我が前にひざまずき、祈る者には赦しを与える。ラハムの名において、すべての罪を赦そう。だが、これ以上隠れる者には、地獄の苦しみの後に死あるのみ。朝までに皆殺しとしてくれよう」


 暗闇は沈黙している。もはや暴徒たちは刀折れ矢尽きた状態、民衆を率いていた主力部隊は既に皆殺しにされ、残った者にできるのは逃げるか隠れるだけ。なのにそのどちらにも希望は残されていなかった。


 返事を寄越さぬ夜の闇に向かって、ラハムはこう言う。


「ならば次は百九人……いや、千と百九人にしようか」


「ま、待ってくれ!」


 突如闇の中から鬼火の明かりの下に出て来たのは、男が一人。ひざまずき、地面に頭を擦り付ける。


「待ってください、お願い致します。私は今回の騒ぎに関係しておりません。私の家族もです。どうか、どうかお見逃しください」


「ならぬ」


 しかしラハムは首を振る。


「そなたはひざまずいた。よってそなたは赦そう。されど、そなたの家族は別の話だ」


 すると男はひざまずいたまま振り返り、闇の中へ顔を向けた。


「何をしている! 早く出て来なさい!」


 闇の中から赤子を抱いた妻らしき女と、年端も行かぬ子供が三人姿を現わし、慌ててひざまずく。男は再びラハムに向き直る。


「これ、この通りにございます」


 ラハムは微笑みうなずいた。


「良かろう、そなたたちは赦す。されど、他の者はそうは行かぬ」


 そこに、闇の中からバラバラと足音が。


「わ、私もお赦し願います」


「私どもも!」


「お願いします! お願いします!」


 次々と通りに現れ、鬼火の下でひざまずき祈る者たち。足音は途切れる事もなく、地面は人影で埋まって行く。その様子を見つめながら、第一王子ラハムは赤く燃える目を輝かせた。




 夜の闇に乗じて、魔族の群れが砂漠を走る。ダナラムの国境の村ヒサに陣を構えていたジクリフェルの獣魔部隊が、アルハグラ軍に攻撃を仕掛けんと村を出たのだ。無論、そんな指令は受けていない。獣魔を率いる魔象ボルボルの独断専行であった。


 しかしそこに火矢がかけられる。砂に撒かれた油が燃え上がり、獣魔たちの姿を浮かび上がらせた。


「待ち伏せだと!」


 砂丘の上にはズラリと居並ぶアルハグラの兵たち。剣を持ち槍を持ち、いざ攻め込まんと身構えている。それを抑えているのが、中央に立つ青い光。聖剣リンドヘルドの輝きが、百を超える数の魔族を怯ませた。その前に躍り出る、小さな二つの影。


「こちらにおわすは、あらまあ大変、漠水帝ゲンゼル陛下」


「その手にあるのは、いやはや最悪、聖剣リンドヘルド」


 ソトンとアトンの二人の道化師が、獣魔たちを煽るように飛び跳ねる。


「刃向かう魔族を討ち滅ぼすよ」


「出しゃばる魔族は斬り捨てられるよ」


「愚かな魔族は蹂躙されて」


「賢い魔族は契約される」


「それが世のため人のため」


「それが世の常あるがまま」


 踊る二人の道化師に、魔象ボルボルはいきり立つ。


「おのれ、おのれおのれ、人間風情が、裏切り者どもが」


 二本の鼻と四本の牙を振り回すボルボルを冷たい目で見つめ、ゲンゼル王はリンドヘルドを高く振りかざす。その青い剣身に直線の亀裂が走り、中空で四つに分裂した。


「かかれ!」


 王がリンドヘルドを振り下ろすと、四つの断片が飛んだ。アルハグラの兵たちが獣魔に向かって走る。ボルボルが二本の鼻先をゲンゼルに向けた。噴き出される炎。しかしリンドヘルドの断片の一つが回転しながら炎を防ぎ、別の一つがボルボルの二本の鼻を切断した。さらに別の一つは四本の牙を斬り落とし、残った一つが魔象の脳天を直撃。


 リンドヘルドの断片は巨大な獣魔の頭に苦もなく食い込み、頭蓋を割り、脳を斬った。その巨体が砂上に倒れるまで、五秒とかからなかったろう。だがリンドヘルドの断片は地に落ちる事もなく宙を舞い続け、周辺の獣魔たちを手当たり次第に斬り倒して行く。


 獣魔それぞれの戦闘力は高いが、圧倒的な数で押すアルハグラ軍には通じなかった。絶叫と咆吼の渦巻く只中を、一人泰然と歩むゲンゼル王。海を渡る奇跡の如く割れ行くその前に、立ちはだかる者はない。




 夜が明ける。眠っていた世界が目を覚まし、色彩を取り戻す。波がきらめき、雲がたなびく。そして、風が凪いだ。


いかりを下ろせ! 野郎ども朝飯だ!」


 海賊船イオースボックの食事は、塩漬け肉の煮物と硬い乾パンと干からびたチーズ。そして酒。それだけ。それでも人は食わねばならないし、食う事は楽しみであった。船員たちは狭い食堂に大きな体を詰め込み、飯をむさぼり食うのに必死。故にいま、甲板には人影がない。船長ビメーリアとジーロックの二人だけ。


 樽から木製ジョッキに酒を注ぎ、ビメーリアが口をつけたとき、ヨロヨロと船室から現れたのはランシャ。


「あらあら一晩で随分元気になったのですね。船の生活に向いているようで何よりです」


 そう言うビメーリアに、ランシャはゲンナリとした顔を向けた。


「……元気にはなってない。いまは揺れてないから、アレだ」


「でも歩けるのは立派ですよ。すぐ働けるようで助かります」


 働かせる気満々で微笑むビメーリアの顔をしばし見つめると、ランシャは甲板を舳先に向かって歩いて行った。そして先端から海を見下ろすと、不意にパン、と手を叩く。次の瞬間、甲板には人間より巨大な魚が一匹、空から落ちて来た。また手を叩く。また魚が落ちてくる。もう一度手を叩けば、さらに魚が落ちてくる。


 結局ランシャは十回手を叩き、甲板には十匹の大魚が転がった。目を丸くしているビメーリアの前に戻ると、ランシャはこう言う。


「助けてもらった分の礼だ。その代わり、もう少し寝かせてくれ」


 ビメーリアはジーロックと顔を見合わせ、突然大笑いを始めた。それを横目に、ランシャは船室に戻って行く。その背後に聞こえるビメーリアの声。


「コック長、コック長、すぐ甲板に来てくださーい」

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