第22話 玉座の隣
ゲンゼルがダナラム領内への侵攻を命じてより三日が経過、伝令の早馬はようやく北進する軍団に追いついた。広大な砂漠に帯をなす、主戦歩兵に弓兵、槍兵、ドルト隊、常設軍から傭兵部隊、兵站要員までを含めて総勢三十万の大軍。国境に到達するまで、あと一週間はかかろう。
後方からはキリリアより三万の兵力も北上するはず。信仰によって国を統治する神教国ダナラムに正規軍はない、この軍勢を迎え撃つのは不可能ではないか。そもそも戦闘にならないのではないか。指揮官たちはそう考えていた。
戦わずして勝利するなら、それに越した事はない。それは油断というより願望と言えた。何故ならフーブ信仰はアルハグラにおいても大きな勢力を誇る。もしダナラムとの間で本格的な戦争になった場合、アルハグラ国内が不安定化するやも知れない。下手をすれば背後から撃たれる。そんな事態だけは何としても避けたかった。
だが彼らはまだ知らない。『大口』のハリド師により急を知らせられた、取り巻く周辺の諸国・諸侯がダナラム救済のために兵を準備している事を。ましてジクリフェルやタムールの動きなどをや。
早朝、チノールから北に向かう集団があった。リーリアにタルアン、バーミュラにウィラット、ルルとキナンジ、そしてランシャの七人である。この計画を聞いたとき、隊長は驚くというより呆れ返った。
「何で姫様をわざわざ危険な場所に連れて行くんだ」
だがバーミュラは鼻で笑った。
「街中なら安全だと思うのが間抜けなんだよ。いま魔道士も魔剣も千里眼も居ない場所にお姫さんを置いて、安全で居られる訳がないだろ。一緒に連れて行くのが一番安全なんだ。それが嫌なら北の集落は見捨てるこったね」
隊長はしばらく腕を組んで考え込んだが、最終的にこう言った。
「なら、せめてルルとキナンジを連れて行ってくれ」
「ほうら、ご覧」
北に向かって遠ざかって行く七人を、城壁の上から見送るのは二人の黒衣。妖人公ゼタ、そして風音。
「あの魔道士は頭が良い。だからこちらの想定通りに動いてくれる」
指を差し微笑むゼタに、風音はたずねる。
「では、この先はやはり」
「ああ、放ってはおけぬさ。それが人間らしさというものだろう」
人の姿をした人でないモノは、尊大なまでに言い切った。風音は顔にこそ出さなかったものの、こんな化け物どもが敵でなかった事を心の中でフーブに感謝した。そう、敵ではない。少なくともいまのところは。
七人の先頭を行くのはルルとキナンジ、最後尾はバーミュラにウィラット、そしてランシャ。ここでもタルアンとリーリアは中央を歩いていた。
「何か納得が行かない」
タルアンが一人ぶつくさ文句をつぶやいている。
「リーリアがバーミュラと一緒に居なきゃ危ないっていうのは、まあわからないでもない。けど、だったら何で僕はここに居るんだ。必要か? どっちかって言ったら僕は街に残った方が安全だったんじゃないか? どうもみんなリーリアの事ばっかり考えて、僕は添え物扱いされているような気がするんだが」
「兄上はさっきから何をおっしゃっているのですか」
不思議そうに顔を見つめるリーリアを、タルアンは横目でながめた。
「おまえは楽しそうでいいな」
「わ、私は楽しそうじゃありません。この先の集落の人々が大変な状況だというのも、ちゃんとわかってます。兄上こそ何も考えていないのではないですか。不謹慎です」
リーリアは動揺をひた隠しにしてタルアンの横顔をにらみつける。しかしタルアンは、やれやれとため息をついた。
「まあ、おまえはランシャが居ればそれでいいんだろうけど」
「兄上ー!」
真っ赤な顔で叫び声を上げるリーリアを、ルルとキナンジが振り返った。
「あの二人はいつも仲いいねえ」
キナンジは笑ったが、ルルは目をそむけるように前を見つめた。
「いいのかね、これで」
「何が?」
キョトンとするキナンジに、ルルは小声で言う。
「だってさ、あのお姫様、もうじき生け贄にされるんだよ」
「あっ……そうか」
「お姫様はいい子だよ。だから、余計にね」
ルルは振り返る。リーリアとタルアンはまだ何か言い合っている。その向こう側には、周囲に気を配りながら歩くランシャが見えた。
「ホントに、いいんだろうか」
ここはどこだろう。少なくとも砂漠でも土漠でもない。茶色く枯れた草の海が延々と続く薄暗い平原に、冷たい風が吹き、あちこちに大きな氷の塊が落ちている。そして、遠くかすかに響く声。
「ひもじや……ああひもじや」
日が一番高くなる前に一度休憩を取り、体力を回復させてから七人はまた北に向かった。間もなく土漠の向こうに、集落の入り口を示す木組みの門が見えて来る。そこに吹いてくる、驚くほど冷たい風。
「ひょー、気持ちいい」
キナンジは喜んだが、バーミュラは足を止めた。
「全員、待ちな!」
そして怖い顔でタルアンを見つめる。
「えっ、何、何?」
動揺するタルアンに、バーミュラはこう言った。
「おまえさんに用があるんじゃないよ。ジャイブルをお出し」
「でも何で」
「つべこべ言うんじゃないよ! さっさとお出し!」
「は、はいっ!」
タルアンが慌ててジャイブルを呼び出すと、黄色い髪に黄色いマントの小さな少女は、不満げに宙に浮かんだ。
「はて、敵が出た訳でもないようだが、何の用かの」
バーミュラはしかしジャイブルに向かず、目を閉じた。
「……匂わないかい」
「匂う? こなたは犬になった覚えはないぞ」
「残念だが、これは犬にはわからない匂いだ。そう、精霊じゃなきゃね」
ジャイブルは眉を寄せたが、クンクンと空気の匂いを嗅いでみた。その目が驚きに見開かれる。
「これは!」
不敵に笑うバーミュラ。
「やっぱりあるんだね」
「ある。いや、これはあったと言うべきだろうか」
「何があるって?」
皆が疑問に思ったであろう事をたずねたのはルル。これにジャイブルが答えた。
「精霊の園だ」
「精霊の……園?」
首をかしげるリーリアに、バーミュラはうなずいた。
「言葉通り、精霊の住み処さ。私ゃ結構長生きしてるけど、出くわしたのはこれで三度目だよ。あえて探しでもしない限り、魔道士でも一生出くわさないヤツがほとんどだろうね。珍しいなんてもんじゃない」
次いでランシャが問う。
「その精霊の園が、あの集落と関係あるのか」
「あるんだろうとしか言えない。どんなカラクリかは知らないが、おそらくあの集落には入ることも出る事もできないんじゃないか。だとしたら話の筋は通るよ」
腕を組んだバーミュラが考えながら答えた。ジャイブルが後を続ける。
「精霊の園は、この世とは異なる
「つまり、引き返せという事ですか?」
それはリーリアの声。
「あの集落の人々を見捨ててチノールの街に帰れと、そういう事なのでしょうか」
「そういう事だよ」
言い切ったのはバーミュラ。
「私たちゃ神様じゃない。できる事もありゃ、できないことだってある」
「まだ何もしていないのに?」
食い下がるリーリアに、ジャイブルは冷たく言い放つ。
「何もしなくともわかるほどに絶望的な状況だと理解できぬか」
「でも!」
「アタシは諦めるのに賛成だな」
そう言ったのはルル。
「領主との約束は様子を確認するって事だけだ。領民を助けるのはこっちの仕事じゃない」
ジャイブルはタルアンを見た。
「こなたはそなたに雇われた身、どうしたいかはそなたが決めよ」
「……んー、僕も無理をする必要はないと思う」
「兄上! 臣民を見捨てるのですか!」
リーリアは地団駄を踏むが、タルアンは取り合わない。
「いや、だってバーミュラにもわからないんだぞ。実際のところ無理じゃん」
「私は姫に従います。まだ何もできないと決まった訳ではない」
それはウィラットの声。
「オイラもできれば助けてやりたいなあ」
キナンジが手を挙げた。バーミュラはため息をついた。
「ジャイブルを入れなきゃ、これで三対三。そうだね、多数決ってのもいいかも知れない」
これで一同の目はランシャに向けられた。
「私らがどうするべきか、おまえが決めな」
バーミュラの言葉に、ランシャは不服げに返す。
「俺が決めていいのか」
「どっちに転んだって半分は文句を言うよ。そいつを理解した上でなら、決定するのがおまえである事に異存はないさ」
「それは何かズルくないか」
「いいからさっさと決めな。決められない男にゃ用はないよ」
「……なら」
ランシャは答を出した。
アルハグラの首都リーヌラの王宮では、第一王子ラハムが誰も座らぬ玉座の隣に立ち、家臣からの請願を受けていた。
「……この地の領域紛争はかように根深く、即座の解決は困難かと」
「左様か。内務大臣」
壁際に立つ大臣たちの中から、内務大臣が返答した。
「はい、殿下」
「この問題は誰の担当になるか」
「恐れながら申し上げます、都市間の領域紛争は様々な分野に渡る問題でございます故、一人の担当者ではなく、いくつかの部局が共同で解決を図っております」
ラハムは目の前にひざまずく、おそらく低い階級の役人であろう男を見つめた。
「おまえの知る限り、この件にもっとも詳しい者は誰か」
男はしばし首をひねり、恐る恐る考えを言葉にする。
「恐れながら申し上げます。王宮の皆様はご立身や何やかやで数年毎に交替されます。申し訳ございませんが、詳しい方は思いつきません。強いて挙げれば、私が最も詳しいのではと」
するとラハムは大きくうなずく。
「相わかった。内務大臣」
「はい、殿下」
「この者を特命全権代官として取り立てよ」
「は……はあぁっ?」
内務大臣は元より、他の大臣たちも目を剥いた。ラハムは言う。
「領域紛争解決に必要な権限をすべてこの者に集めるのだ。ただし、猶予は五年。五年を経て一定の進捗がない場合にはすべてを没収する。もし不正に手を染めるようなら首を撥ねる。異存はあるまいな」
男は呆気に取られていたが、やがて思い出したかのように深々と頭を下げた。
「ははっ」
男が下がると、大臣たちはラハムの前に進み出てこう言った。
「恐れながら、ラハム殿下。帝王陛下のおられぬ場で、五年先までのお約束をされるのはいかがかと」
「陛下がご帰還されたときに、混乱があるやも知れませぬぞ」
しかしラハムは平然と答える。
「父上は私に内政を任せるとおっしゃった。そなたたちはそれに異議を唱えるのか」
「い、いえそのような。ただ我らは」
ラハムはその言葉を遮った。
「大臣の職は父上の言葉にただうなずくためにあるのではない。混乱が起きそうだと思うのなら、起こらぬように取り計らえ。それができぬと申すのであらば、父上にそう伝えよう」
そう言われては大臣たちも言葉がない。ラハムは玉座の隣より進み出ると、平然とたずねた。
「今日の請願は以上だな」
「は、はい、以上でございます、殿下」
総務大臣が頭を下げる。ラハムは小さくうなずき、こう言葉を残すと玉座の間を出て行った。
「しばらく部屋で休む。何かあれば声をかけよ」
「いやいや、何とも堂に入った支配者ぶりでしたな」
ラハムの部屋に声が響く。
「あまり騒ぐな。人に聞かれる」
椅子に腰掛けるラハムは、天井を見上げた。部屋の高い天井の片隅に、闇があった。その中から、二本角の山羊の頭がぶら下がっている。
「ご心配なく。ワタクシの声はあなた様にしか聞こえませんし、いまはソトンとアトンの道化どももおりません」
「念には念だ」
「用心深いのは結構ですが、あまり気を張り詰め過ぎるのはお体に障ります。ほどほどに」
「魔族は随分と優しいのだな。とても寝首を掻こうとしているようには見えないぞ」
「おやおや、またご冗談を」
どちらの意味で冗談なのか。ラハムは問おうとしてやめた。
「とにかく、私は父上が不在の間に少しでも実績を積まねばならない。協力してくれ」
「そんな無理をしなくても、ゲンゼル王さえ亡くなれば、次の王位はあなたの物でしょうに」
「あの父上がそんなに甘いはずはない。打てる手は打っておかねばならん。おまえとて、それを見越して私に近付いたのだろう」
それを聞いて、逆さまの黒山羊は笑った。
「ああ、そう言えばそうでした。それではまあ、やれるだけはやっておきましょう」
そして天井の隅の暗闇は消えた。ラハムは頭を抱え、深いため息をついた。
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