第21話 黒衣と黒衣
奉賛隊はウルネーザの流砂帯を抜け、ようやくチノールに至る土漠へとたどり着いた。もう日は暮れている。隊列は止まり、天幕を広げた。今日はここで夕食だ。
「あいつは何でもできるんだ。最初に会ったときからそうだった。置き引きもスリもかっぱらいも、誰が相手だろうと困った事なんてなかった。失敗した事なんてなかった。なのにあいつは何もできないみたいな顔をしやがる。自分には何ひとつ満足にできなくて残念だ、みたいな顔を。いまでもそうだ。隊長に気に入られてサイーに気に入られてバーミュラに気に入られて、自慢すりゃいいじゃねえか。調子に乗りゃいいじゃねえか。なのにずっと困ったような顔だ。それが気に入らねえ」
満天の星の下、焚き火に横顔を照らされながら、塩気の薄い肉のスープが入った暖かい碗を手に、ルオールはブツブツとつぶやく。イルドットは静かにそれを聞いている。ニナリは天幕の中で毛布にくるまれていた。
クラム・カラムはガステリア大陸のずっと北、ダナラムよりも寒い地域の山間にある、湖畔の小さな貧しい村。真夏以外は雪に閉ざされた陸の孤島。しかし湖は冬でも凍らず、住民が何とか食べていけるだけの恵みを与えてくれていた。
「ランシャ、おいで」
リンはランシャより五つ年上。実の姉弟のようにいつも一緒に過ごし、事あるごとにこう話した。
「ランシャはいつか、この村を出て行くんだよ」
「どうして?」
「君の眼は、世界を見つめるための物だからさ」
だがそう言われるたびに、ランシャは思った。出て行きたくはない。ずっとこの村に居たい。ずっとリンのそばに居たい、と。口に出す事はなかったが。何故口に出さなかったのだろう。出せば良かったのに。後悔は先に立たない。
ランシャが十二歳のとき、それはやって来た。氷。凍らないはずの湖の表面を埋め尽くす厚い氷。愕然とする村人たちの前に現れたのは、竜の骸骨だった。
「ひもじや、ああひもじや」
一面の氷の真ん中に横たわる、白い巨大な竜の骨。アゴをカタカタと鳴らせながら、不気味な言葉を紡ぎ出す。
「小生がかくもひもじいというのに、人間は魚を食い腹を膨らませる。まこと不条理なり。さりとて小生のひもじさは人間の責任にあらず。怒りを買って湖の恵みを奪われ、諸君らがひもじい思いをするのもまた不条理。世界は何とひもじく不条理に満ちている事か」
村長や大人たちは銛やナタを手に湖岸に集まっていたが、そんな物でどうにかなりそうな相手ではなかった。村長が前に出た。
「わしらにどうしろと言うのだ」
竜の骸骨はカタカタ鳴った。笑っているようにも思えた。
「ここで小生が一つ、不条理な要求をしよう。さすれば小生のひもじさも癒やされ、諸君らの腹も膨れる事となる。不条理に不条理を重ねて双方に利をもたらすのだ」
言葉の意味はよくわからない。だだ、
「この村でもっとも大切な誰かを、我が生け贄に差し出したまえ。さすればすべてが上手く行くであろう」
「ふざけた事を」
誰かがつぶやいた。そう、これはふざけた話。村に一方的な被害を押しつけるだけの、真の不条理。しかし竜の骨は叫び、煽り、迫る。
「生け贄だ。生け贄を捧げよ。生け贄を探せ。生け贄を選べ。生け贄を決めよ」
村人の中に、大きな混乱が生まれた。生け贄を差し出さねばならぬ
村でもっとも大切な誰か、と言われて最初に出て来るのは、当然村長。しかし村長はかぶりを振る。
「ば、馬鹿を言うな、この村でもっとも大切と言えば、言えば……そうだ、ランシャだろう」
その一言で、村人たちの目はランシャに向けられる。確かに、かつてランシャの両親がこの村に託し、この村が守ってきた子供。それがランシャだ。ある意味もっとも大切な存在と言っても良かろう。
ここまで育てたのだ、もういいのでは。そんな声も聞こえた。そこに。
リンが現れた。ランシャの前にしゃがみこみ、その顔を見上げる。
「ねえランシャ。ランシャにとって私はどんな人?」
「えっ」
何が言いたいのかわからない。だが満面の笑顔を浮かべるリンが、ランシャは怖かった。
「私は、ランシャにとって大切な人?」
どう答えればいいのだろう。ただ素直にうなずけばいいのか。本当にそれでいいのか。
「……うん」
けれどランシャはうなずいてしまった。リンに嘘はつけなかったのだ。リンは嬉しそうな――そして悲しそうな――笑顔でランシャを抱きしめた。
「ありがとう。お別れだよ、ランシャ」
「何で……何で」
「この世界はね、どうしようもなくくだらなくて、たまらなく最低で、ものすごく碌でもないの。だけどね」
「フーブは生け贄を禁じているよ。そんな事をしたら呪われるよ」
「だけどたまに、ほんとに小さな小さな、砂粒みたいな大きさの、でもとっても綺麗な宝石が見つかることがあるんだよ」
ランシャの首筋に落ちたのは、リンの涙だったのだろうか。
「だからね、ランシャ」
リンは立ち上がり振り返る。顔を見た記憶がない。何故見ようとしなかったのだろう。
「人間を嫌いにならないで」
その頭上に、巨大な白骨の
「美しい、ああ美しき死よ!」
ガリガリ、ガリガリガリガリ!
耳を砕かんばかりのその音に、ランシャは目を覚ました。ベッドから下りて窓を開けると、道路を挟んだ向こう側では古い建物が壊され、新しい建物が建てられている。新陳代謝の活発な、成長途上の都市。それがチノールだった。
ランシャは首を回してみた。頭を打った影響は残っていないようだ。体には冷たい汗の感触がある。悪い夢を見ていたのだろう。記憶はないが、だいたい想像はつく。
太陽は高い。もしかしたら昼飯も食いっぱぐれたろうか。とりあえず宿の食堂に行ってみよう、誰か居るかも知れない。ランシャは部屋を出た。
「宿は提供する。食料や物資の調達に便宜を図る事にも異存はない。しかしすべてタダとは行かん。相応の見返りはもらいたい」
チノールの領主は隊長にそう言った。ただし、金を払えという事でもないらしい。
「ここから北へ半日ほどの距離に名もない小さな集落があるのだが、この一週間ほど連絡がつかない。役人を何度か派遣しているのに、誰一人として帰って来ないのだ。謀反の可能性も考えたが、そもそもそれほどの人数が暮らしている訳でもないし、武装できるほどの経済力があるはずもない。どうだろう、この集落の様子を確認に行ってはもらえないだろうか。それと引き換えになら、可能な限りの優遇はしよう」
「……て訳なんだが」
「
困り顔の隊長に、バーミュラは呆れたように返した。
「そんな事一つのために、わざわざ傭兵と契約するのも手間だ。だいたい奉賛隊への便宜は、チノールとしちゃ断る訳にも行かない。出す物は出すしかない、けど黙って出すのも
「嫌だって言うのもアレだしな」
隊長はため息をつきながらそう言った。まあ状況的に他の選択肢は無いに等しいのだが。
そのタイミングで、のこのこ食堂に姿を現わしたのはランシャ。
「ああ、丁度良いカモが来たね。ちょっとこっちにおいで」
不信感いっぱいの顔で近付いて来るランシャに、バーミュラは意地の悪そうな笑顔を見せた。
「飯を食う前に千里眼の練習だ。ここから北にある集落を見てごらん」
今度は隊長が呆れる番だ。
「おいおい、まさか千里眼だけで済まそうってのか」
「馬鹿だねえ、千里眼で安全を確認してから人を出すんだよ。そうすりゃ最低限で済むだろう。合理的に考えな」
「合理的ねえ」
「見えた。これか」
「どんな具合だい。荒れてるか、それとも平穏か」
バーミュラの言葉に、ランシャは首をかしげる。
「どうなんだろう、平穏は平穏だ。て言うか、やけに貧しいな。いや……これは、飢えてるのか」
「飢えてる?」
バーミュラはランシャの顔に向かって手のひらを向けた。その目が焦点を結ぶ。ランシャの眼に映っている物を見ているのだ。
「なるほどね。こりゃ妙だ」
「何が妙なんだ」
見えない隊長は苛立ち混じりにたずねた。バーミュラが答えて曰く。
「明らかに食い物が足りてないんだよ。何で助けを求めない。こんな状態でチノールから来た役人を捕まえたとか殺したとか、あり得る話とは思えないね」
そしてしばし考え込むと、こう続けた。
「何かが起きてる。千里眼じゃ見えない何かが」
どんどん古い物を壊し、新しい物を造り上げて行くチノールにあっても、開発から取り残された地域がない訳ではない。そんな街の中央から離れた一角に、十人ほどの黒衣の影。古びた建物の中に集まっている。
「宿は確認しました」
黒い僧衣に鳥の翼を模した鉄の仮面の男たち。その中心には、同じ姿の女。仮面の中央に白い線が入っている。聖滅団の風音である。
「リーリア姫の部屋に間違いはないですね」
「はい」
「ならば、日が落ちると同時に行動を開始します」
「それは少し待ってくれぬか」
突然聞こえた声に、聖滅団は動揺を見せる事なく瞬時に剣を構えた。部屋の入り口に二つの人影。前に立つのは白い服を着た小柄な老爺。そしてその後ろには、体の線をクッキリ際立たせる黒衣をまとった黒髪の女。腰には黄金の鎖が輝いている。
他の者を手で制しながら、風音は一歩前に出た。
「何者ですか」
「我が名はゼタ。皇国ジクリフェルのゼタ」
知っているだろう、と言わんばかりの口調。そして実際、風音は知っていた。ジクリフェルのゼタ。四賢者の一人、妖人公。本物ならば。
「妖人公ともあろうお方が、こんなところで何をしておいでです」
風音の慎重な言い回しに、ゼタは微笑んだ。
「そなたに提案があってな」
「提案?」
「連中はもう傷も癒え、疲れも取れている。いまは相手有利の頃合い、ここで仕掛けても成功の見込みは薄いぞ」
「ご心配いただき恐悦至極。されど、余計な口出し」
白い老爺が笑顔を上げた。
「これはまた、口の利き方を知らぬ人間ですな」
「控えよ、ヤブ」
ゼタの静かな物言いに、ヤブは続きを飲み込んだ。妖人公は老爺より一歩前に出た。
「我が
謀略のカーナ、黒山羊公か。風音はそう考えながら両手をダラリと下げ、肩の力を抜いた。ゼタはまた一歩近付いた。
「そやつが一つ策を用意している。どうだ、乗ってみる気はないか」
「ございません、と申し上げれば?」
「聞き分けのない子には、お仕置きが必要だろうね」
風音が前に出た。ヤブも前に出て迎え撃つ。だが風音のスピードは、ヤブのそれをも凌駕した。
「ぬ!」
振り返ったときにはもう、風音の二本の剣がゼタの体に達する寸前。響く金属音、ゼタの腰に回していた黄金の鎖が風音の剣を受け止めている。しかし常人がそれと認識した瞬間には、風音はすでに第三撃、第四撃を放っていた。けれどそのすべてが黄金の鎖に阻まれ、ゼタの体に触れる事すらできない。
「速いな」
ゼタは笑う。
「速さだけなら、我らにも太刀打ち出来ぬほどだ。とは言え、我が鉄壁の防御を打ち破るには、いささか強さが足りない」
風音は一旦距離を取り、剣を構え直す。ゼタは言った。
「もう一度だけ言おう。我らが策に乗れ、人間」
「……お話をうかがいましょう」
風音は小さなため息と共に、剣を下ろした。
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