第19話 空飛ぶ影

 魔弓キュロプスを天に向かって撃つ、撃つ、撃つ。光の矢は雨のように降り注ぎ、イノシシの群れに突き刺さった。大地から突き出す砂の拳はイノシシを殴りつけ、弾き飛ばし、壁を作る。だが。


 イノシシの群れはひるまない。全身を血に濡らしながら、苦悶の声を上げながら、その足は一秒たりとも休まない。ただただ前進する事に、己が存在のすべてを賭けているのだ。人間たちは戦慄した。これはただのケダモノの群れではない。この軍団は、強い。




 遅くはないが、かわせないスピードでもない。ただしパワーは想像を絶する。魔獅子公フンムの振るう戦斧せんぷを、レキンシェルで受け止めるのは不可能だ。そんな事をすれば剣が砕けるか、さもなければ腕が引きちぎられるか、もしくは両方だろう。


「どうした! 剣は斬るための武器ぞ! ぶら下げているだけでは敵は倒せん!」


 フンムの獅子の頭が吼え、竜巻のように戦斧を振り回す。その間合いに入るのは自殺行為としか思えなかった。しかし逃げ回るだけで何かが解決する訳でもない。考えろ、考えろ、ランシャは頭を巡らせた。


「怖いか! このフンムが恐ろしいか! ならば死ね! 我が戦斧の露と消えよ! さすればすべての恐怖より解放されよう!」


 回転する戦斧が砂をすくい跳ね上げる。ランシャの視界を砂のカーテンが覆った。いけない、ランシャは後ろに飛び退いたが、黄金色の幕を突き破り襲いかかってきた戦斧の先が左腕をかすめる。その衝撃でランシャの体は地面に叩き付けられた。もし下が厚い砂でなければ、この一撃ですべて終わっていただろう。


 反動ではずむランシャの体に、魔獅子公は大上段から斬りかかった。ランシャは思わず叫ぶ。


「飛べ!」


 ランシャはイメージしていた。キリリアの峠で聖滅団と戦ったときの事を。あのときは上空高くに飛び上がった。ならば。


 フンムの戦斧が届く寸前、ランシャは飛んだ。水平方向に。上に飛べば落ちるだけ。敵の餌食になるのは間違いない。だが水平に飛んで距離が取れれば……取れれば?


 距離を取っただけでどうなるというのか。ただでさえ圧倒的に有利である強大な戦闘力を誇りながら、一切の手加減なく油断なく、全力で仕留めにかかってくる相手に。


 勝てない。こんなの、どうやったって勝てるはずがない。


 ならばどうする。逃げるのか。この怪物に背中を向けるのか。だがそれこそまさに自殺行為。勝つ見込みもなく、逃げる事すらできず、ただ死を恐れながら待つだけ。


 ランシャはようやく理解した。そうか、これが絶望なのか。


 怖い。牙や爪が怖いのではない。圧倒的な強さが怖いのでもない。自分が死ぬ事も、それほど怖くはなかった。ただ希望が、この心の片隅に灯る小さな明かりが、自分の手の届かない、あずかり知らぬところで無残に叩き潰される現実、それが怖くてたまらなかった。ランシャは震えた。俺はいったい、どうすればいいんだ。


 振り回される戦斧を何とかかわしながらも、恐怖は体をすくませる。恐怖は思考を鈍らせる。徐々に足が重くなり、間合いは相手の有利な距離に縮まる。一度恐怖に取り憑かれたら、もはや敗北以外の道はない。誰かの助けがない限りは。


「そろそろいいか」


 ランシャの耳元に聞こえる声。


「おまえ、もう負けたつもりになってるだろ。だけど違うんだな。おまえはまだ負けてない。何でかわかるか。それはおまえの手の中に、オレっちが居るからだよ」


 何を言っているのかとランシャは思った。レキンシェルによる攻撃は、この相手には通じない。さっきそれを見せつけられたではないか。しかし声は続ける。


「オレっちは道具だ。道具には使い方ってもんがある。おまえはオレっちの使い方を知ってるはずだ。思い出せ、キリリアで領主を斬ったときを。あのとき、おまえはどう使った」


 どうって、あのときは距離があったし、千里眼で……


「千里眼で見て、その後どうした」


 その後? その後、俺は何をした。


「こいつの鎧は魔法の鎧だ。斬ろうとして斬れるもんじゃない。だがオレっちの力なら、鎧の『向こう側』が斬れるぞ」


 向こう側……建物の向こう側に居た領主を斬ったように?


「千里眼でヤツをよく見ろ! 鎧の向こう側に何がある!」


 そのときフンムが大きく踏み込み、一気に間合いを縮める。ランシャは対応が遅れた。しまった、やられる。


 だが刹那、フンムの前に揺らめく壁が現れた。透明な水の壁が。戦斧はそれを切り裂くが、抵抗により速度が落ちる。


「水の魔法だと!」


 ほんの一瞬の猶予によって紙一重でフンムの斬撃をかわすと、ランシャはまた水平に飛び、距離を取った。


「逃げても無駄だと何故わからぬか!」


 大地を震わせ迫り来るフンムの咆吼。ランシャは眼に集中した。鎧の向こうに何が見える。魔界の力を閉じ込めた、鉄より固い生身の体。ならばそのもう一つ向こう側には何がある。その透き通った眼には見えた。激しく脈動を繰り返す魔族の心臓が。


 ランシャは足を止め、レキンシェルを一閃。


「ごまかしなど小賢し……」


 いま戦斧を振り下ろさんとしたフンムの動きが止まり、突如胸を押さえ、砂の上に膝を落とした。


「な……にをした、貴様!」


 だがフンムは立ち上がる。これにはランシャも、そしてレキンシェルも驚いた。白い刃は間違いなくフンムの心臓を真っ二つにしたはずだ。慌てて千里眼に集中すると、フンムの体の中で心臓は確かに半断され、凍り付いていた。けれどすでにその状態で、心臓は自己修復を始めている。


 立ち上がりはしたものの、フンムの足は前に動かなかった。口からは血を吐き出し、苦しげな声が漏れる。


「最初からこれを狙って……いや、違うな。この一瞬で成長したのか、小僧」


「何してる、もう一回心臓をぶった斬るんだよ!」


 レクの声がランシャの耳に響いた。だが、ランシャは動かない。たとえ心臓をもう一度斬ったとしても、きっとこの相手は立ち上がる。それはわかりきっていた。


 フンムの戦斧を持つ手がゆっくりと上がる。水平に。シルマスの方向に。


「あれを見よ」


 高くそびえる砂の壁の手前には、力尽きたイノシシの群れ、死屍累々。


「我が兵どものしかばねを見よ。なんじらはそれに値する敵か。我はそれに値する将か」


 そして戦斧の先は移動し、ランシャを向く。魔獅子公は吼えた。


「我はそれに値する将ならねばならぬ! なればこそ、ザンビエンの爪ごときに屈する訳には行かぬ!」


 フンムの足は一歩踏み出した。ランシャは見る。千里眼で見つめる。フンムの頭骨の内側を。


 一度振り上げられ、大上段から落ちてくる戦斧。レキンシェルの白い刃はそれをかいくぐるように下から上へと走った。だが。


 フンムの姿は消えた。現れたときと同様、突然に前触れもなく。三頭の類人猿も、倒れ伏したイノシシの群れもまた。砂漠に一陣の風が吹いた。


「……終わった、のか」


「それを言うなら、勝ったのか、だろ」


 耳に聞こえたレクの言葉に返事をする間もなく、ランシャは砂の上に倒れた。あんなヤツに勝てる訳があるか、そう言いたかったのだが。




 シルマスの人々は突如街の近くで発生した戦闘に驚き、戸惑い、軽くパニックを起こしかけていた。その騒ぎを足下に見る、街の中で最も高いフーブ教会の尖塔の上、風音かざねは街の外を眺めながらつぶやいた。


「なるほど、まずはあの魔剣を封じなければならないのですね」




 目が開いた。黒い部屋。人間の手の形のロウソク立てがぶら下がっている。何故こんなところに。自分はいまのいままで砂漠にいたのではなかったか。


「聞かれる前に、言っておく」


 隣からよく知る声が聞こえてきた。


「おまえ、ここに来たの、二日前」


 とぐろも巻かずにベッドに横たわっているのは、巨大なコブラ。それを見て、フンムはようやく理解した。


「ノスフェラの診療所か」


「おまえ、心臓、氷漬けだった」


「そうか。陛下に救っていただいたのだな。もったいない事だ」


「頭の中にも、氷があった」


「そこまで攻め込まれていたか。何とも情けない」


「普通死んでる、やはり化け物」


「四等分にされた者が言うセリフではなかろう」


 スラはしばし沈黙した。それがフンムには無声の笑いに思えた。


「しかしあのレキンシェルは厄介な相手だ」


 フンムのつぶやきに、スラが答える。


「あの小僧、勘がいい」


「確かに。剣の使い方はなっていないが、逃げ方ならば一人前だ」


「斬られたヤツのセリフじゃない」


 今度はフンムがしばし沈黙した。スラは言う。


「時間を与えれば、魔剣を使いこなす」


「まあそうなるだろう。面倒になるな」


 だが言葉とは裏腹に、フンムの声は楽しそうにスラには聞こえた。魔獅子公は続ける。


「とは言え、次の機会があるとは限らん。連中の敵は人間界にも居る」


「ダナラムが、もし生け贄を殺せば、どうする」


 フンムはニヤリと笑みを浮かべた。


「知れた事。まずはアルハグラを攻め落とし、その次はダナラムだ」


「攻撃的、好戦的、戦闘的」


「何とでも言え。ザンビエンとフーブの勢力が低下すれば、この世界を統べる存在は我らが陛下に自ずと決まる。それが嫌なら無理強いはせんが」


 けれどスラは言う。


「ザンビエンが倒れれば、青璧の巨人が目覚める」


「ならばなおの事、先にフーブを討っておく必要があるだろう」


「それは願望、希望的観測にも程がある」


「願望なくして勝利なし。戦いは最終的に意思の力で決まるのだ。希望的観測、結構ではないか」


 笑うフンムに、スラは呆れたようにため息をつく。意思の力が勝敗を左右するのは、互いの戦力が拮抗した場面だけだ。それを最初から計算に入れるなど、策略と呼ぶに値しない愚策中の愚策である。やはり自分が早く復帰しなければ、ジクリフェルの将来が危うい。毒蛇公はベッドの上で体をくねらせた。




 どおん。白昼の砂漠に遠くから響く音。隊列の先頭を行く隊長は、苦笑しながらつぶやいた。


「まーた失敗しやがったな」




 砂丘をえぐる穴。その真ん中には、上半身を砂に埋めたランシャの姿。懸命に体を引き抜くと、砂まみれのまま砂漠にへたり込んだ。


「背中にまっすぐな棒が入ってると思いな」


 バーミュラの言葉が頭に浮かぶ。


「その棒を巨人につかまれて、真上に持ち上げられたと考えるんだ。後はそのまま千里眼で行きたい場所を見るんだよ。そうすりゃ、勝手に目的地まで飛んでっちまうさ」


 と、いとも簡単そうに話していたのだが、そう思い通りには行かなかった。


 確かに持ち上げられた自分の姿をイメージし、目的地を千里眼で見つめれば、空を飛ぶことはできる。それはそれで凄い事であり、その点はさすがにサイーの遺産と言えた。しかし何度やっても上手く着地できない。毎回頭から砂に突っ込んでしまう。下が柔らかい砂地じゃなければ、とうに首の骨を折って死んでいたかも知れない。さて、いったいどうしたものか。




「朝から繰り返して、一回も成功なしとはね」


 天幕の下、椅子に座ってパンの欠片を冷たい茶で流し込みながら、バーミュラは呆れ返る。


「何とも呑気な話だ。緊張感ってモンがないんじゃないのかい」


「そうはおっしゃいますが、バーミュラ」


 隣に座るリーリアが擁護する。


「今日始めて今日できるというものでもないのでは」


 バーミュラはうなずいた。


「ああ、普通ならね。ただし、コイツは別だ。何たって魔獣奉賛士サイーの遺産を受け継いでるんだ、普通じゃ困るんだよ」


 ランシャは地べたに寝転んで、荒い息を繰り返している。反論する余裕もない。リーリアがしゃがみ込んで声をかけた。


「ランシャ、今日はもういいのではありませんか」


「……いや、まだ、大丈夫」


 ようやく声を出したランシャに、バーミュラは歯を見せた。


「そりゃあそうさ、男がすたるってヤツだろ」


「うるさい」


 何とか上半身を起こしたランシャに、タルアンが声をかける。


「とりあえず、お茶だけでも飲まないと死ぬぞ」


 ランシャは無言でうなずいた。しかしまだ立つのは難しいようだった。




 休憩も終わり、天幕が片付けられる。ランシャはフラフラとした足取りでまた隊列の先頭にやって来た。ふと顔を上げると、少し離れた場所に立つ人影。ウィラットが魔弓キュロプスを構えている。千里眼で周囲を見張っているのだ。その横をトボトボと通り過ぎようとするランシャに、ウィラットがつぶやいた。


「このキュロプスは、つるを引くだけで半年かかった」


 ランシャは足を止め、振り返った。ウィラットは言葉を続ける。


「私は子供の頃から弓を仕込まれた。ある程度の歳になれば、もう弓の扱いで困る事など何もない、そう考えるようになる。キュロプスに初めて触れたのはそんなときだ。衝撃だった。自分の力がまるで通じない弓が存在する事に」


 ウィラットは話しながらも、千里眼を使い続けている。その姿をランシャに見せつけるように。


「魔法の力は卑しい力。キリリアの旧い家ではそう習う。私もそう思って育った。だがキュロプスを知ったとき、卑しくとも構わないと思ったのだ。この力を使いこなせるのならば、と」


「……何が言いたいんだ」


 ぼうっとした顔でたずねるランシャに、ウィラットは笑みを見せた。


「打てば響く。すなわち打たねば響かない。魔法の力とはそういうものだ。打つ事は必ず意味を持つ。いまはとにかく打ち続けるといい」


「言われなくてもそうするさ」


 ランシャは背を向け前に進んだ。

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