第15話 屍食鬼の群れ

 広大無辺のガステリア大陸に、かつて四つの聖魔あり。


 東には、精霊軍を率いた白き氷のザンビエン。


 西には、魔族軍を率いた赤き炎のジクリジクフェル。


 北には、人類軍を率いたしろがねの風フーブ


 そして南には、百万の聖騎士『ギーア聖軍団』を率いた青き光のギーア=タムール。


 四つの勢力は微妙なバランスで均衡し、平穏な時代が長く続いたが、あるときザンビエンとギーア=タムールの確執を発端として争いが勃発、やがて四軍入り乱れた大争乱に拡大し、最終的にフーブ以外の三聖魔は封印された。これが人類の時代の幕開けとなる。




 黒のとばりが砂漠を覆う。夜が来た。待ち望んだ夜が。砂の中から這い出してくる、長くまがまがしい姿。毒蛇公スラは口を開くと、闇より黒い細長い影を無数に吐き出した。鉄の牙を持つ影たちは、身を左右にくねらせながら砂の海を進んで行く。普通、砂漠の蛇は夜に走らない。しかしこの怪蛇たちは凍り付くような夜の砂漠を音もなく駆けた。目指すは一路、死者の谷。




「死者の谷? 何だそりゃ」


 夕飯を食べながらルオールがたずねた。揺れる焚き火が横顔を照らしている。もう食べ終わったのだろうか、褐色のイルドットは皿を足下に置いて遠くを指さした。


「大水路ってのは普通まっすぐに伸びるものだろん。ギルホークの断崖だってまっすぐに超えてたよねん。だけどこの先にある小さな谷のところだけ、ぐるっと迂回してるんだよん。そこは死者の谷って呼ばれてて、屍食鬼が出るらしいんだん」


 毎回思うがその語尾は何とかならないのか、という言葉を飲み込んで、ルオールはため息をついた。


「……くっだらねえ。屍食鬼なんぞ、おとぎ話じゃねえか」


「ししょくきって何?」


 赤髪のニナリが首をかしげた。ルオールが面倒臭そうに答えた。


「人間の肉を食う化け物の事だ」


「化け物? 魔族なの?」


 その問いにはイルドットが答える。


「屍食鬼は人でも魔族でも精霊でもないんだよん。そのどれにもなれなかった、哀れで醜い魂のなれの果てなのさん」


「大丈夫かな。襲ってきたりしないよね」


 心配げなニナリにルオールは呆れ返る。


「だから言ってっだろ、おとぎ話だよ、おとぎ話」


 イルドットは微笑む。


「ま、夜の間に谷に近付いたりしなけりゃ大丈夫じゃないかなん」


「大丈夫もクソもあるか。そもそもおとぎ話なんだよ」


 しつこいほどに繰り返すルオールを、ニナリは不思議そうに見つめた。


「……ルオール、怖いの?」


「ぶっとばすぞ、てめえ!」


 ルオールの声が裏返り、イルドットが笑う。夕食の時間は賑やかに過ぎて行く。




 賑やかな声と揺れる炎。すぐ近くに見えて、何と遠いのだろう。隊列から離れた闇の中、ウィラットは一人佇んでいた。足下に置かれた料理の皿には手をつけていない。情けない。自分がこれほどまでに情けない男だったとは。


 あのランシャという少年、白い魔剣でビンテルを斬った彼の言う通りである。自分の生き死にさえ自分で決められない。名誉のため、主君のため、命をかける覚悟はあった。だがそれは自分の命の価値を誰かに「決めてもらう」覚悟である。自分で自分の価値を決める覚悟など、まるでなかったのだ。だからいま、どうしていいかわからない。


 リーリア姫や魔道士バーミュラは共に旅をせよと言う。しかしその言葉をそのまま素直に受け入れる事ができない。有り体に言うなら勇気がない。一度弓を向けた相手が自分に見せる笑顔の何とつらい事か。罵られた方がはるかに気が楽だったろう。


 自分は人として、武人として、どうすべきなのか。それは明白に思えた。しかしその明白さが眩しい、いや恐ろしくさえある。情けない、本当に情けない、ウィラットが拳を握りしめたとき。


 闇の中に気配を感じた。誰か居るのだろうか。近付いて来る、ように思えた。足下に置かれた魔弓キュロプスを手に取り構える。千里眼が闇の中を見通した。




 傭兵たちの食事は終わり、見張りに立つ者が焚き火の炎を松明たいまつに移す。


「じゃあな、行ってくるわ」


「おう、交替まで頑張れ」


 そんな会話をしているところに、闇の中から物凄い㔟いで走り寄ってくる人影。傭兵たちは思わず剣を構えるが、影はそれを無視して横を通り過ぎると、焚き火の中で燃えている薪をつかみ、夜空に向かって放り投げる。


「見ろ!」


 そして目にも留まらぬ速さで黒い弓を構えると、宙を飛ぶ薪を射た。花火のように散り散りに弾け広がる炎。それがうっすらと照らし出す砂漠。そこには無数の人影があった。


「何だ!」


「敵襲か!」


 ウィラットは三本の矢を弓につがえ、闇に向かって構えた。


「気をつけろ、屍食鬼だ」




 屍食鬼が出たとの情報は素早く隊列の中を駆け抜け、その中ほどで夕食を終えたばかりのリーリアとタルアンの耳にも届いた。


「し、屍食鬼?」


 あたふたと怯えるタルアン。さすがに王族、屍食鬼の伝説くらいは知っているのだろう。一方リーリアが後ろを振り返ると、魔道士バーミュラは腕を組んで難しい顔をしている。大柄なだけあって近寄りがたい迫力だ。


「こいつは厄介だね」


「そんな厄介な相手なのか」


 隣に立つランシャは魔剣レキンシェルを握る。白い刃が形をなす。バーミュラはジロリとにらむと、フンと鼻を鳴らした。


「屍食鬼かい? 連中ならたいして厄介じゃないさ。鉄に弱いからね、鉄の刀で斬られりゃ死ぬ。ただ問題は、屍食鬼ってのは基本的に人間の死体を食うだけのヤツらだって事だ。食うために人間を殺したりはしないし、ましてそのために谷から出て来るなんてのはまず有り得ない」


「……なら、誰かが屍食鬼を引っ張り出して来たのか」


「理解が早いね、小僧。そういうこった。その誰かがわからないのが厄介なんだよ」


 そこに前方から光が近付いてきた。松明だ。手にしているのはナーラムか。


「バーミュラ」


 声をかけてくるその背後に、誰か居る。女だ。長い黒髪を垂らした、松明の灯りに透ける薄い服をまとった女。この暗がりの中でもわかる切れ長の大きな眼に薄い唇。まるで光を放つようなその姿、絶世の美女とはこの事。タルアンはあんぐりと口を開け、目をそらせなくなっていた。


 しかしその美女に、バーミュラは棘のある言葉を放つ。


「ここに屍食鬼を連れてくるたあ、どういうつもりだね」


「え、屍食鬼?」


 タルアンは間抜けな声を上げた。その目が泳いでいる。ナーラムは困り顔で頭を掻く。


「隊長に言われたんだよ。こいつが魔法使いに会わせろって」


「だからってお姫様が居る場所まで連れて来るヤツがあるかい」


 呆れ顔でため息をつくバーミュラに、屍食鬼の美女は口元に笑みを浮かべて一礼した。


「我らが王の使いとして参りました。武器は持っておりません」


「武器がないからそれでいいってもんじゃないけどね。で、いったい何の用だい」


 警戒を崩さないバーミュラに、女はこうたずねた。


「おたずねしたい事があります。蛇を放ちましたか」


「蛇だあ? 何のこったい」


「鉄の牙を持つ蛇を放ったのは、あなたではないのでしょうか」


「そんな事をして何になるよ。こっちは急ぐ旅だ、わざわざ揉め事を起こす理由がない」


 鉄の牙を持つ蛇と聞いて、ランシャは僅かに動揺した。思わず視線をリーリアに向ける。リーリアもランシャを見ていた。そしてうなずく。


 屍食鬼の女は顔を陰らせて言う。


「何者かが死者の谷に鉄の牙を持つ蛇を放ちました。我らの仲間が多数咬まれ、苦しんでおります。何かお心当たりはございませんか」


「そいつは大変だったね。だけど私らには関係ない事だ」


「あ、あの」


 リーリアが口を挟んだ。


「蛇の魔物に心当たりがあります」


 驚いた顔で見つめる屍食鬼の女。バーミュラは、あちゃあ、と顔を歪める。だがリーリアは続けた。


「先日王宮で蛇の魔物に襲われました。ランシャとサイーに助けていただいたのですが」


 ああそうか、あのときはサイーが助けてくれたのか、とランシャは思う。バーミュラは、いかにも渋々といった風にリーリアにたずねた。


「その魔物について、サイーは何か言ってたかい」


「いえ、ジクリフェルの魔族としか。でも自分で毒蛇公スラと」


 バーミュラはリーリアに、ランシャに目をやり、また屍食鬼の女に目を向けた。


「毒蛇公スラってのはね、ジクリフェルの四賢者の一人さ。毒虫の親玉だよ」


「毒蛇公、スラ」


 初めて聞く敵の名を、しかしランシャは知っていた。記憶の底の暗闇から湧き出るそれは、いったい誰が埋め込んだものか。


「恐ろしい相手なのですか」


 リーリアの言葉に、バーミュラは少し首をかしげる。


「恐ろしいっていうかね、腕っ節はからっきしだが、知恵が回って性格が悪い。どっちかって言えば面倒臭いヤツだよ」


 ランシャは王宮で出会った魔物を思い出していた。自分を弾き飛ばしたあの力を。


――我が名はスラ。毒蛇公スラ。覚えておくがいい


 自分の知らない誰かの記憶。だが間違いない、あれこそが「からっきし」のスラだ。しかし、あれでからっきしならば、他の魔族はいったいどれほどの強さなのだろうか。


「もし今回の事がそのスラの仕業だとしたら」


 屍食鬼の女は言う。


「我らの民を救う事が、あなたにできますでしょうか」


 挑戦的なまなざし。バーミュラの胸にはムクムクと湧き上がるものがあったが、それを我慢した。


「さあね、私にゃ無理かも知れん」


「そんなはずはない」


 女はまっすぐ射るようにバーミュラを見つめる。魔道士はそれを見つめ返した。


「もし助けられないって言ったらどうする」


「無理矢理にでも来てもらう事になる」


 その女の迫力に、思わずナーラムが剣を向けた。と、そこにまたリーリアが口を挟む。


「あの、私が行きます」


「無駄だね」


 バーミュラが即座に否定した。しかしリーリアも食い下がる。


「でも、私なら」


「水の精霊の力は屍食鬼には使えないんだよ」


「つまりどうすれば助けられるかを知っている」


 女の言葉にバーミュラはため息で返した。


「まったく、厄介な厄介な」




 バーミュラが死の谷に赴くに当たって一悶着があった。鉄の剣を持った人間は死の谷には入れない、なので護衛は認められないと屍食鬼の女が言ったのだ。隊長としてはそれを受け入れる訳に行かない。だがバーミュラは首を振った。


「護衛はランシャ一人でいいよ」


 そして女に言う。


「この子の剣は鉄じゃない。問題ないだろ」


 さすがにこれは女も承諾せざるを得ず、こうしてバーミュラとランシャが死の谷に行く事が決まった。


「その前にザッパ、ウィラット、それとタルアン王子、ちょっと耳貸しな」


 バーミュラは悪巧みでもするかのようにニヤリと笑う。




 面白くない。ただでさえ表情に乏しいというのに、闇の中、砂の下、誰にも見えない場所で、毒蛇公スラは一人ふて腐れていた。理想としては、彼の放った無数の蛇がその鉄の牙で屍食鬼を殺戮し、怒り狂った屍食鬼が奉賛隊に襲いかかる、そんな展開になれば最高だった。


 ところが実際はどうだ。屍食鬼どもは怒り狂わず冷静に対処している。人にも魔族にもなれぬ屍食鬼ごときが生意気な。ただし、この展開も予想していなかった訳ではない。最良の結果とは言い難いが、そう悪くはないと言える。魔道士が奉賛隊の隊列から、ことに生け贄から離れたのは、途中の経緯はどうあれ目論見通りである。


 スラは口を大きく開いた。中から這い出てくるのは、蛇の形をした無数の暗闇。ただし今度の影たちが持つのは鉄の牙ではない。魔法の牙だ。




 かろうじて足下を照らす松明の炎は、そのほとんどを夜に飲み込まれていた。暗闇の底を進むランシャとバーミュラ、そして屍食鬼の女。少し離れた場所には屍食鬼の群れが居るはずなのだが、息を潜めているのか話し声すら聞こえない。無限に続くかに思えた静寂の果てに、屍食鬼の女が立ち止まった。


「ここから下り坂です。気をつけて」


 岩場ではないようだ。足に伝わる感触は柔らかい砂のそれだが、下り坂は崩れる事なくさらなる深みにつながっている。夜より深く闇より黒い。松明の炎が小さくなったように感じた。


「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないかね」


 バーミュラは何気ない風にそう言った。


「一人や二人が蛇に咬まれたからって、人間の力を借りようとはせんだろう」


「一人や二人ではありませんから」


 そう答えて、女はしばし沈黙した。砂を踏む音だけが聞こえる。だがやがて根負けしたかのように、静かに語り始めた。


「……我らの女王が蛇に咬まれました」


「なるほど、屍食鬼の女王かい」


 しかし何がなるほどなのか、ランシャにはわからない。それに気付いたのか、女はこう続けた。


「女王ネラス・ヘラスは母にして始祖。我らは全員、彼女の産んだ卵から孵った子供なのです」


 バーミュラがその後を受ける。


「つまり女王様が居なくなったら、いずれこの死の谷の住人が誰も居なくなるって事さ」


「そう、文字通り本当の死の谷になってしまう。それは何としても避けたい」


 切実な女の声と共に、下り坂は終わった。どうやら底に着いたらしい。ランシャは背負っていた予備の松明を下ろし、すでに手元近くまで燃えた炎を移した。新しい炎が周囲を照らし出す。そこにあったのは、上下方向に走る巨大な亀裂。いったい上がどこまで伸びているのか、貧弱な炎では判然としなかった。

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