第16話 死者の谷
「蛇が出たよん!」
最初に声を上げたのはイルドット。闇の中から現れる黒い蛇を、松明の灯りでよく見つけられたものだ。その途端、砂漠に稲妻が走って蛇を撃ち抜く。
「蛇の
その声と共に数本の稲妻が天と地を結んだ。見上げれば、黄色い髪に黄色いマントの小さな少女が宙に浮いている。雷の精霊ジャイブルは得意げにタルアン王子を見下ろした。
「今度は気を失うのではないぞ」
「ええと、何とか頑張ってみる」
「頼りない雇い主だのう」
ジャイブルがため息をつき、また数本の稲妻が走る。
「ま、こなたが本気を出せば、誰が雇い主でも変わらぬのだが」
奉賛隊を襲う蛇の群れの前に、ジャイブルが立ちはだかっていた。
やはり出て来たか、雷の精霊。キリリアの峠で確認しているので、現れるのは前提だ。
「我慢比べ、結構得意」
毒蛇公スラは砂の中で口を開け、また暗闇の蛇を吐き出す。雷の力も無限ではないのだ、いずれ疲れるだろう。ならば手数で圧倒し続ければ、突破する蛇も何匹かは居よう。それで十分。狙うはリーリア姫ただ一人なのだから。
魔法の牙を持った黒い蛇がリーリアに咬み付けば、彼女はスラの人形となる。そうなれば殺す事はもちろん、あえて生かしてザンビエンとの交渉にも使えるかも知れない。切れる手札は多い方が良い。保険を常にいくつも用意するのが毒蛇公の戦い方だった。
黒い蛇たちは闇夜を進む。そこに空から降ってきた七本の矢が、七匹の蛇を貫いた。なるほど、これが魔弓の千里眼か。スラは少し感心した。ここまで見えるものなのかと。しかし矢筒の矢にも限りはある。じきに打てる手はなくなろう。それに黒い蛇は見えても、結界の内側に潜むこちらは見えないのだ、恐るるに足らず。
揺れる松明の炎が壁面を照らす。左右の壁際には、もたれかかる人影が。人影と言っても、人間の姿とはかなり違う。みな猫背で頭が大きく、全身が毛むくじゃら。歩くランシャの手には汗がにじんでいた。
「怖がるこたあない。あれが屍食鬼の本当の姿なんだからね」
バーミュラが面白そうにつぶやく。
「おまえには目の前に歩いてるのが絶世の美女に見えるだろう。だけど本当の姿はアレだよ。こっちが話しやすいように気を遣ってくれてるんだ、有り難いじゃないか」
「苦しそうに見えるが。蛇に咬まれたんじゃないのか」
「かも知れないね。だがおそらくは女王様の方が深刻なんだろうよ。そっちを先に片付けろってのさ」
その会話を聞いていたのかどうか、先頭に立って進んでいた女が立ち止まる。
「ここです」
そこには薄い岩が階段状に積み上がる。神殿、とランシャの眼には映った。大股で石段を登って行くと、頂には天蓋のかかったベッドが。屍食鬼の女がひざまずき声をかけた。
「女王様、魔道士を連れて参りました」
「……入れ」
手前の台にはオイルランプが置かれている。女はそれを手にし、松明の炎を移すとバーミュラを天蓋の内に案内した。
「こちらへ」
松明を岩の床に置き、ランシャはバーミュラと共に天蓋へと入る。そこに横たわっていたのは、長い黒髪に王冠を差した、上半身は毛むくじゃらで、下半身が蛇になった怪物。蛇が蛇に咬まれて苦しんでいるのか。体の数箇所に、指が入るほどの穴が空き、血が流れ出している。
「鉄が刺さった部分が腐ってるんだね」
「……助かる……か」
弱々しい女王の声に、バーミュラはフンと鼻を鳴らした。
「医者なら無理だって言うとこだろうがね、生憎と私ゃ魔道士だ。魔法ってのはこの世の摂理をねじ曲げてこその魔法なのさ」
そう言ってランシャと案内してきた女に目配せをする。
「暴れないように押さえつけな。ちょっと痛いよ」
ウィラットの矢はとうに尽きた。だが、彼はまだ弓を構えている。魔弓のもたらす千里眼の力を使うために。
「……見えぬな」
しかし視界に延々と広がるは砂の海。闇の向こうは見通せていても、敵の居場所が見つからないのだ。
雷の精霊ジャイブルは疲れていた。稲妻を放っても放っても、蛇の数が一向に減らない。
「ああー、もう! いつまで続くのだこれは!」
討ち漏らした蛇は傭兵たちが何とか叩き潰しているが、このペースが続けばいずれそれも追いつかなくなるだろう。限界が近付いている。
毒蛇公スラは笑う。雷の精霊はもはや限界。魔弓の矢も尽きた。魔道士も死の谷から戻っては来ない。状況をひっくり返す要因は何も見つからない。
「終わりだ」
スラはその口から、トドメを刺すべく最後の蛇の群れを吐き出した。
蛇の群れが現れた。その向こうにあるのは砂漠。千里眼でも砂以外に何も見えない。けれどウィラットは天に向けて、矢をつがえずに
「この魔弓キュロプスが、なにゆえ魔弓と呼ばれるか、思い知るがいい」
ピン、と音を立てて弦が放される。その瞬間、星が流れた。ただし、この流星は消えない。長い尾を引き天を切り裂くように駆けると、突如爆散した。散り散りになった光は無数の輝く矢となり、暗闇の砂漠に降り注ぐ。毒蛇公スラの頭上に。
苦悶の絶叫と、何か得体の知れない物が焼けるニオイ。全身の傷口から煙を上げながら、屍食鬼の女王はのたうち回っていた。ランシャたちは何とか押さえつけようとするものの、とてもじゃないが押さえきれない。
「ちったあ我慢しな! 女王だろうが!」
そう叱咤してバーミュラがまたブツブツと口の中で呪文を唱えると、オイルランプの明かりの中で、鉄の牙を持つ蛇に咬まれた跡に空いた穴は、ゆっくりと塞がって行った。やがて出血は止まり、煙も小さくなる。徐々に呼吸も整い、痛みも和らいだのか暴れなくなった。
「……治ったのか」
押さえていた手をどけてランシャがため息をついた。バーミュラはうなずく。
「ああ、もう大丈夫さ」
それを聞いたと同時に、上半身が毛むくじゃらで下半身が蛇の怪物は、横たわる美しい女王へと姿を変えた。女王は微笑みこう話す。
「此度の事は大義でありました。何と礼を申してよいかわかりません」
するとバーミュラは、途端に冷たい眼で女王を見つめ、鼻先で笑った。
「別にいいさ。礼をされるほどの事でもないしね」
「されど、それはそれ」
女王は横たわったまま静かに告げる。
「わらわに無礼を働いた罪は償わねばならぬ」
ここまで案内をしてきた女が、バーミュラの腕をつかんだ。だがその手が炎を上げ、倒れ込んだ女は悲鳴とともに屍食鬼の正体を現わす。ランシャは気付いた。天蓋の外に無数の気配。
「バーミュラ!」
「気付くのが遅い」
大仰にため息をつくと、バーミュラはいつの間にかベッドの向こう側に立っている屍食鬼の女王をにらみつけた。
「いいかい、世の中にはこうやって人の親切に
ランシャはそれに返事をするでもなく、腰の小刀を抜いた。レキンシェルの白い刃が姿を現わす。屍食鬼の女王は笑った。
「鉄ではない魔剣では、我らは倒せぬぞ」
しかしバーミュラは悪そうな笑顔を返す。
「最初から倒すつもりはないからね」
そしてこう続けた。
「レキンシェル、全部凍らせちまいな!」
ランシャの右腕がまた勝手に動く。レキンシェルの白い刃が、何もない虚空を水平に丸く斬った。
ピシリ。どこからか固い音が聞こえ、すべての動きが止まる。絶対的静寂。揺れるのはオイルランプの炎だけ。屍食鬼の女王は厚い氷の中に閉じ込められている。天蓋の外に蠢いていた気配も感じなくなった。
静謐な世界の中で、バーミュラが静かに振り向く。
「レキンシェルはこの程度の事ができる。目安として覚えておくんだ」
「死んだのか」
ランシャの言葉にバーミュラは首を振る。
「屍食鬼はこんなもんじゃ死なないさ。けどまあ、当分の間は身動きが取れないだろうね」
「こうなるのが、わかっていたのか」
「別にわかりゃしない。ただ、屍食鬼が嘘つきなのは知ってたから、驚きはしなかった。それだけさ」
本当だろうか。ランシャは疑わしいと思ったが、それを口にする暇はなかった。
「ところで体力はまだ余裕があるかい」
そう問われて初めてランシャは体が随分疲れている事に気付いた。バーミュラはのぞき込むようにこう言う。
「魔剣は使い手の体力を食うからね、派手に使いすぎると死ぬよ。自分で調節しな。やり方はサイーの記憶の中にあるはずだ」
そう言われてみれば知っている、ような気がする。ランシャはうなずいた。バーミュラは満足げに微笑むと、不意に遠い目をした。
「……ああ、ちょうどいい練習台が居たね」
「練習台?」
バーミュラはニッと笑った。何とも底意地の悪そうな笑みだった。
天空から降る光の矢の雨。それは結界の壁を貫通し、さらには砂をえぐり、その下に潜んでいた毒蛇公スラの体を射貫く。長い体に三本の矢を受け、スラは砂の中から飛び出した。蛇は悲鳴を上げない。しかし弾けるようなスラの動きには、声なき絶叫が透けて見える。
間髪を入れず、天に再び星が流れた。スラを襲う光の矢の第二撃。これ以上矢を受けては身動きが取れなくなる。スラの姿がかき消えた。そして現れたのは、奉賛隊の上空、リーリアの真上。ここに居れば、いかな魔弓といえど攻撃はできまい。
まだ人間どもの大半は気付いていない。ならばこのまま直接リーリアに咬み付くのみ。そう考えたスラが高度を下げた、その頭上に出現する白く冷たい輝き。
「!」
振り仰ぐ時間はなかった。伸びた薄い氷の刃が音もなく走り、長い体を四つに斬り割る。だが毒蛇公の姿はまたかき消えた。今度はもうどこにも現れない。少なくとも魔弓の千里眼が及ぶ範囲には。
「馬鹿だね、蛇は頭を潰すんだよ」
地面に降り立ったランシャにバーミュラが声をかける。そういうのは先に教えてくれ、と文句を言いたかったが、それより早くランシャの意識は薄れていった。なるほど、力を使いすぎるとこうなるのか、と思いながら。
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