第6話 タムールの鎚の音

 カーン! カーン! カーン! 周りを見渡せば真っ白な雪と氷。頭上には澄み切った真っ青な空。眼下に広がる灰色の雲の絨毯。霊峰タムールの切り立った山頂に、響くのはつちの音。


 帝国アルハグラが支配する砂漠を南に進むと草原地帯が延々と広がり、やがて大きな湖に出る。その湖を渡った向こう側、広大な平野部に下から突き出した巨大なとげ。雲を切り裂くその先端は、真夏でも白く凍り付いている。人も魔族も寄せ付けぬその巨大な岩塊がタムールと呼ばれるようになったのはいつ頃だろうか。


 タムールは古い神の名。だがどんな神であったかを覚えている者はすでにない。古代の神々はすべてフーブ信仰に飲み込まれ、埋没し、踏み潰されてしまっていた。


 そんなタムールの頂、常に雲がかかり地上からは見上げられぬ場所に、人の姿があった。いや、人間ではない。人の形をしてはいるが、あまりに巨大だ。空のように大きく、空のように青い。その体は大の字に固定されている。両手と両足を氷の杭で貫かれ、そそり立つ氷の壁にはりつけになっているのだ。それを知る者はこう呼ぶ。青璧せいへきの巨人、と。


 鎚の音は巨人の右足首から聞こえてくる。カーン! カーン! カーン! 氷の杭にタガネを当て、鎚で叩いて砕こうとしていた。振り乱した髪の色は、巨人の体と同じ透き通るような青。厚い毛皮の服で包んだ華奢な体は普通の人間の大きさ。それでも振り下ろす鎚は自分の頭ほどもある。と、青髪は手を止めて巨人の顔を見つめた。色白の少女の顔で。


「兄様、痛くない?」


 返事はない。微動だにしない。まるで巨大な氷の彫刻のように。少女はふたたび鎚を振るう。タガネは氷の杭を削り、中ほどにまで食い込んでいる。あと少し、あと少しで砕けるはず。だがタガネが杭の真ん中を貫いたと見えた瞬間、それは何事もなかったかのように元通りの姿を取り戻した。


 何回目だ。もういったい何百回目なのか、何千回目なのか、記憶にすらない。少女は天を振り仰いだ。


「……ザンビエン、まだ続けるのか」


 そうつぶやいたとき。その目が背後を見た。


「魔族か」


 そこに居たのは山羊。捻れた角を持つ、八本足の魔界の黒山羊。皇国ジクリフェルの四賢者が一人、黒山羊公カーナである。それを知ってか知らずか、少女は振り返りもせずにこう言った。


「立ち去れ。ここは聖地。魔族の来るところではない」


「ほっほっほ、承知しております。故にワタクシも、本体はここに来ておりません」


 ゆらゆらと揺れる黒山羊は陽炎の如く。少女は不愉快そうに声を荒げた。


「ならば消え去れ。汚らわしい」


「はい、いますぐ消え去ります。ただ、その前に一つだけ耳寄りな情報をと思いまして」


「魔族の言葉に貸す耳など……」


「ザンビエンが苦しんでおります」


 少女は振り返りはしなかった。だが息を呑んだ気配がする。黒山羊は言葉を続けた。


「帝国アルハグラのゲンゼル王が、己の娘をザンビエンの生け贄とすべく、間もなく奉賛隊を派遣する模様。今回はこれだけをお伝えに参上致しました次第。それでは」


 黒山羊は姿を消した。少女は深いため息をつくと、再び巨人の顔を見上げる。


「兄様、どうしよう」


 だがやはり返事はない。青璧の巨人はただ静かに、時の流れを拒絶するかのようにそこに居た。




「兄上様、どうしましょう」


 リーリアはタルアンの部屋を訪れていた。泣き腫らした虚ろな目。父の前では決して見せない弱気な姿。妹の境遇を哀れとは思ったが、自分もたいして変わらない事に気付いて途方に暮れる兄である。


「どうしようもないよ。明後日の朝には出発だ。予定の変更なんて父上が絶対許さないし」


「兄上様の力で何とかなりませんか」


「僕にそんな力がある訳ないだろう。他の兄様方ならともかく」


「兄上様は父上に嫌われていますものね」


「そうハッキリ言わんでくれ。傷つく」


 リーリアは深くため息をついた。つられたようにタルアンもため息。


「己の立場をわきまえていない訳ではないのです。でも」


 つぶやくリーリアに、タルアンは魔獣奉賛士サイーの言葉を思い出していた。


――あなたもリーリア姫も、当たり前の事を期待されているに過ぎません


「そうは言っても、もうちょっと長生きしたかったよなあ」


 天上を振り仰ぐタルアンに、リーリアは小さく微笑んだ。


「兄上様は大丈夫です。きっと」


「おまえに言われても、慰めにはならないよ」


 タルアンは苦笑しながら思った。諦めるしか、もう本当に諦めるしかないのだろうか。それだけがただ一つの解答なのだろうかと。




「利口なヤツはいらねえ。欲しいのは馬鹿だけだ」


 顔の斜め十字傷を心なしか歪めながら、隊長が宣言した。


 二日目の朝、奉賛隊に参加を希望する者たちの人だかりは、昨日より小さくなっている。顔ぶれも変わっているかも知れない。彼らの前でこれを言うのは、隊長としても少し勇気が必要だった。本当なら馬鹿は要らない。だが人は集めなければならない。だからランシャのアイデアに賭けてみたのだ。


 人だかりの中から不満げな声が飛ぶ。


「何で利口なヤツは要らないんだ」


 ランシャの言った通りじゃねえか。噴き出しそうになるのを隊長は必死で堪えた。


「この奉賛隊の旅はキツいものになる。人死にも出るだろう。利口なヤツらはこの国の財産だ。アルハグラの将来を支えてもらわにゃならん。だから連れて行けねえ。諦めてくれ」


 みな顔を見合わせ、困惑している。そして一人、また一人と背を向けて帰って行く。やがて人数が半分くらいになったとき、別の声が上がった。


「馬鹿ならば、誰でも参加できるのか」


 これもランシャの言っていた通り。隊長は一呼吸置いてこう答えた。


「誰でもたあ言えねえな。こっちにも都合はある。できれば何か得意な事のある馬鹿が欲しいんだが」


 それは矛盾した要望。一芸に秀でた馬鹿など居るはずがない。だがそれでいいとランシャは言った。矛盾していると理解できない者に用はない。矛盾に気づき、それがいかなる理由によるものかを推察できる者こそ、求めている人材なのだから。


 最初に利口な者を除外したのもその一環。ああ言えば、自分が利口だと思っている連中は勝手にふるい落とされる。これはもっとも要らないヤツらと言えた。


 結局、残ったのは二十人ほど。このうち、何人が使えるだろう。これを明日の夜まで何度も何度も繰り返し、奉賛隊を完成させなければならない。隊長はウンザリする気持ちをひた隠した。




 ドルトは砂に沈まぬ三本指の足を持った巨大な飛べない鳥。立ち上がれば頭の高さは大人二人分くらいになる。人間など一呑みにできるほどの大きな口を持つが、性格はいたっておとなしい。その背中には網がかけられ、いくつもの荷物――おもに天幕など――が、くくりつけられている。ドルトは恐ろしいほどの力持ちなのだ。


 荷物運びがまだ集まらない中、三十羽のドルトに出発の準備を施しているのは傭兵たち。その中に混じってランシャも働いている。指揮をしているのは痩せぎすのナーラム。もっとも、出発までは丸一日半以上時間がある。本格的な旅の準備が始まるのは明日の午後からになるだろう。いまは指揮と言っても基本的に見張り番であった。


 退屈そうなナーラムに、三人の影が近付く。足音に振り返って見れば、そこに居たのは。


「やあナーラム殿。順調ですかな」


「おや、サイー様。今日はどうされました」


 供を二人連れた魔獣奉賛士サイーは、優しげな笑顔をたたえている。


「いやあ何、年甲斐もなく気がはやりましてな、ドルトの様子を見に参った次第」


「気持ちはわかりますよ。旅の前ってのは、いつでもソワソワするもんです。作業は順調に進んでおります。ご心配なく」


「左様ですか。それは重畳ちょうじょう


 そう言って満足げにうなずくと、後ろに控える二人を振り返った。前に進み出たその手には、それぞれ革袋が。サイーが言う。


「たいした金額ではござらんが、皆様の酒手くらいにはなるでしょう。お納めください」


「えっ、いやしかし、それでは」


 さすがに恐縮するナーラムだったが、サイーは首を振った。


「ご遠慮なさいますな。これから厳しい旅の友連れとなるのですから。ご挨拶代わりです」


「そ、そうですか。では遠慮なく」


 ナーラムが二つのズッシリ重い革袋を受け取ったとき。


「ナーラム!」


 その声に思わず引きつった顔で振り返ると、ランシャが走り寄ってくる。


「天幕は積み終わった。次はどうする」


「お、おう、使いっ走りご苦労」


 後ろ暗い事は何もないのに、ナーラムはついつい挙動不審になってしまった。


「そいじゃアレだ、とりあえず昼飯までは休憩ってみんなに言っといてくれるか。なあに、時間はあるんだ、慌てるこたあねえよ」


 ランシャはキョトンと首をかしげている。


「ああ、わかった」


 そう言ってまた振り返り、走り去って行く。ナーラムは何故かホッとため息をついた。


「いまのは」


「は?」


 ナーラムが振り返れば、険しい表情で身を震わせているサイー。


「いまの少年も、傭兵なのですか」


「いえ、あいつは荷物運びで採用したばっかのヤツで」


「……晶玉しょうぎょくまなこ


「へ? 何です」


「い、いや、何でもござらん。それより、彼の名前は」


「ランシャ、と言いますが」


 ナーラムが不審げに顔をのぞき込むと、サイーは視線をそらした。


「左様ですか。ああ、この後いささか用事がございましてな、急ぎます故、これにて失礼いたします」


 サイーはそのまま後ろを向いて歩き出し、二人の供は慌ててその背中を追う。二つの革袋を抱えたまま、ぽかんとした顔でそれを見送るナーラムであった。



 さてさて、次の手はどうしたものか。雲の王宮の中、八つのヒヅメで長い長いらせん階段を降りながら、黒山羊公カーナは考えていた。一つ手は打った。二つ目もたぶん打てる。だが三つ目はどうだろう。そこまで考えたとき、足が止まった。階段の途中、雲の壁にもたれながら静かに立っているのは、黒衣の女、妖人公ゼタ。老爺ヤブを従えて。


「これはこれはゼタ殿。本日はお日柄も良く」


 ペコリと頭を下げるカーナを横目で見つめ、ゼタは微笑む。


「カーナ公、貴殿も理解していると思うが」


「はて、何の事でしょう」


「ゲンゼルの奉賛隊の件、陛下はスラ公にお任せになったのだ」


「ええ、確かそうでしたな」


「もしそれが陛下のご意志に背くのであれば、私は何であっても邪魔をするし、誰であっても討つ」


「おお、それはまったくワタクシも同意にございます」


「そうか、それは良かった」


 ゼタはそう言うと壁から離れ、カーナの横を通って階段を上って行く。


「時間を取らせたな。またいずれ、陛下の御前にて」


 その姿が見えなくなるまで見送ると、カーナはフンと鼻を鳴らした。


「勘だけは良い女ですね」


 そして階段を下りて行く。ほっほっほと笑いながら。

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