第5話 窮鼠の一撃
深夜のアルハグラの首都リーヌラ。その中心にそびえる王宮の外れの中庭において、巨大なコブラの無表情な丸い眼が見つめる。
「おまえ、勘がいい、邪魔」
ランシャはその透き通った眼で相手をにらみつけたまま、少女を後ろに回した。
「動揺しない、気に入らない、殺す」
コブラは鎌首を大きくもたげ、ランシャはジリジリと横に移動した。と、そのとき。
「誰か! 賊が侵入しています! 衛兵!」
少女が叫ぶ。だが返事はなく、人の集まる音もしない。無表情な蛇の目から漂う気配は嘲笑。
「無駄、無意味、無情」
理屈はわからないが、何らかの理由によって声が届かないのだとランシャは理解した。ならばどうする。武器がある訳でもないし、向こうの手の内もわからない。ただ食われるのを待つだけか。目をそらせば、相手はその瞬間に飛びかかってくるだろう。しかし背を向けずには逃げられない。まして少女を連れてなど。
そんな心の動きを読んだのか、毒蛇は不意にこう言った。
「逃げたいか、逃がしてやろうか」
「……へえ、逃がしてくれるのか」
ランシャは視線を外さない。
「我が目的は、その娘。おまえは別に、どうでもいい」
少女の腕を握るランシャの手に力が入った。
「この子を殺すつもりか」
「心配、いらない、殺しはしない」
冷たく無表情な爬虫類の目が、月光を照らし返す。
「そうか、それなら」
ランシャは少女を放し、怪物から目をそらした。その途端、ランシャに襲いかかる巨大コブラ。だが猛毒の
小刀を握って引き抜くと、ランシャは再び蛇の魔物に顔を向けた。そして稲妻の速度で迫り来る敵に向かって、縦に一閃、刃を振るう。
チン。
硬い音がしたかと思うと、ランシャの手の小刀が砕けた。だがそれを驚く余裕はない。横殴りの圧倒的な質量の打撃でランシャの体は吹き飛ばされ、壁に叩き付けられた。衝撃で気を失う。
「驚いた、ほんの少し」
皇国ジクリフェルの四賢者が一人、毒蛇公スラは、小さくため息をつくと、倒れたランシャを見つめた。
「無力、無謀、無様」
そして恐怖に立ち尽くす少女に目をやる。
「おまえは殺さない、それは本当、ただ人形になってもらうだけ」
そう言うと、その巨大な口を開いた。月明かりに輝く鋭く長い二本の毒牙。だが。左の毒牙に亀裂が走り、微かな音と共に折れて地面へと落ちる。
「なっ……」
スラが動揺している。再びランシャに向き直ると、うわごとのようにつぶやく。
「有り得ない、有り得ない、こんな人間如きに、絶対に有り得ない!」
スラは口を開き、残った一本の毒牙でランシャにとどめを刺そうとした。そこに突然現れた光球が、スラを弾き飛ばす。その光の中から現れたのは。
「やれ、何ともまがまがしき気配なり」
薄黄色い服を身にまとった太った犬の如きその姿に、リーリアは歓喜の声を上げる。
「サイー!」
「おのれ、奉賛士」
月光の下、鎌首をもたげる巨大な毒蛇に、サイーは恐れるでもなく口ひげをいじって見せた。
「なかなか見事な結界であるな。うっかり見過ごすところであったわ」
「わが結界を突破した人間、おまえだけ」
「ほう、それは光栄だ。ジクリフェルの魔族か。おそらくはそこそこの高位であろう」
「そこそこかどうか」
闇の中から尾が飛び出す。
「思い知れ!」
丸太のようなスラの尾が横殴りに襲いかかる。サイーはかわしもせず、マトモに喰らった。かに見えた。だが尾は小さな抵抗を受けただけで、サイーの体の中を通過する。そして奉賛士の姿は崩れ、水の塊となって地面に落ちた。
「幻影!」
スラは慌てて振り返る。そこに居並ぶは五人のサイー。本物は一人、それ以外はすべて幻影。ならば。
大きく開いたスラの口から、黒い煙が噴き出した。吸い込めば肺の内側から腐り果てる猛毒の煙。すると五人の右端、リーリアの隣に立つサイーが右手を掲げた。手のひらが白く輝いたかと思うと、周囲の毒煙がかき消されて行く。浄化魔法である。すなわち。
「おまえ、本物!」
牙を剥き、スラが飛びかかる。刹那、「本物」以外の四人のサイーが両手を前に突き出した。その手が八本の氷の刃となって伸び、スラの胴体を貫く。毒蛇公はもんどり打って地面に落ち、動かなくなった。
「影はただの影にあらず」
サイーがつぶやくと、安堵したリーリアが深く息を吐く。
「……終わったのですね」
「いやいや、まだですな」
「えっ」
リーリアが身を固くする。と、感情のこもらぬ蛇の冷たい眼がサイーを見上げた。
「何故わかった」
「蛇を殺すのに頭を潰すは常識。まして魔物ともなれば」
静かに見下ろすサイーに、スラは微かに笑ったような声を漏らした。
「面白い。今回は退くとしよう、魔獣奉賛士サイー」
そう言うと氷の刃が砕け散り、スラの身は中天高くに舞い上がる。
「我が名はスラ。毒蛇公スラ。覚えておくがいい」
その長い姿は、月光の中に溶けて消えた。
「ふむ、面倒臭い性格かな」
サイーは苦笑しながらリーリアに向き直った。
「とりあえずは終わりましたぞ」
リーリアはホッとため息をつくと、不意に顔を上げ、ランシャの元に駆け寄った。
「もし、もし、大丈夫ですか」
しかしランシャは目を開けない。リーリアはサイーを振り返る。
「どうしましょう」
「どれ、やってみましょうかな」
サイーはしゃがみ込み、ランシャの頭に手を当てた。指の間からボンヤリとした水色の光が漏れ出す。
「魔法も薬と同じでしてな。効果が高く出る者と、そうでない者がおります。この若者に効果があれば良いのですが」
ランシャは目を開けた。まだ空に赤みが残っている時間帯、ベッドの上で。俺は昨夜、確か。やけに鮮明な記憶。だが、あんな事が本当にあるだろうか。リン姉に瓜二つの少女、巨大な蛇の化け物。
「夢……なのか」
体を起こした。痛みはない。あれが事実なら、どこかにケガの一つくらいあるだろう。だが何もない。やはり、夢か。
まだ部屋は暗い。ベッドの上にわずかに土が残っている事に、ランシャは気付かなかった。
「毒蛇公スラか」
まだ夜も明けやらぬ頃、ゲンゼル王のベッドの脇に、二人の小さな道化が現れて言う事には、皇国ジクリフェルの四賢者が一人、毒蛇公スラが深夜リーリア姫を襲ったのだそうな。しかしゲンゼルに驚いた様子はない。道化は踊る。
「スラは良く言えば、知略に長けた策士」
「悪く言えば、腕っぷしはからっきし」
王は面白くもなさそうに、フン、と鼻を鳴らした。
「炎竜皇は動いていないはずではなかったか」
道化たちは踊りながら、クスクスとおかしそうに笑った。
「僕らが使者に立ったので、それを見て」
「僕らが居なくなったので、その隙に」
「つまりは余が
だがその言葉に不快感はない。
「それで、キリリアの領主に話は付いたのだな」
ソトンとアトンは胸を張る。
「ついたついたよ、話は付いた」
「ついでに餅もついたから腹いっぱい」
ゲンゼル王は体を起こした。窓の外はもう明るい。
「ならば良し。下がるがいい」
二人の道化は声を揃えて「ほーい」と言うと、姿を消した。
ガステリア大陸北方、岩肌の目立つダーナ山脈の山間の盆地。扇状に広がる建築群こそ神教国ダナラムの首都グアラグアラ。その扇の要にそびえる石組みの巨大構造物が、フーブ神殿である。
フーブ信仰の聖地である神殿には普段、朝夕に世話人が炊事や掃除に訪れる以外、風の巫女と三老師の他に人影はなく、ヒッソリと静寂に包まれている。だが今日は少し違う。静寂はいつもの通り。だが神殿に入ってすぐの大聖堂に、黒い群れが集まっていた。
黒の僧服に身を包み、顔に鳥の翼を模した鉄の仮面をつけた者たちが二十名並ぶ。僧服の背にはハゲワシの紋章。神殿直轄の実行部隊、その名を聖滅団。居並ぶ彼らと向かい合う正面の祭壇の上には、風の巫女が立つ。
「黒き風の子らに祝福を」
凜と張った声が大聖堂にこだますると、聖滅団の中央から前に進み出る影が一つ。中肉中背、短い髪。他の者同様、腰の後ろに二本の剣を差し、顔は仮面でわからず、その仮面の中央に赤い一本線が走る程度しか特徴はない。だが圧倒的な威圧感。この聖滅団でもっとも強い、もっとも優れた、もっとも恐ろしい存在である事は考えるまでもない。
「
巫女にそう呼ばれた影は、右手を胸に当てて頭を下げた。
「はっ」
「此度のお務めは、我らが偉大なる創造神フーブの威信を、改めて世に知らしめる重要な機会。異教徒や不信心者をガステリアより排斥するためにも、必ずや成功を見ねばなりません。だからこそあなたを選びました」
「有り難き幸せに存じます」
「フーブの名の下に、魔獣ザンビエンへの供贄の儀が妨げられれば、悪の帝王ゲンゼルの支配は根底から揺るぎましょう。あなた方の信仰と行動に期待します」
風切は顔を上げ、声を張った。
「アル・フーブ!」
聖滅団の全員が揃えた声は、大聖堂に響き渡る。
「アル・フーブ!」
風の巫女はそれを満足げに見下ろしていた。
「おまえ、何て名前だっけ」
隊長の隣に座る痩せぎすな男が言った。この男はナーラムという名だと聞いた。王宮で働く使用人たちの専用食堂の片隅に、ランシャと傭兵たちは集まっている。ランシャとしては別に集まりたかった訳ではないのだが、朝食のために食堂に入ったら、隊長たちに無理矢理連れて来られたのだ。荷物運びと傭兵は寝る場所が違うのに、食事をする場所は一緒らしい。
「……ランシャ」
不承不承つぶやいた名前にナーラムはうなずく。
「あー、そうだったそうだった。よし、今度こそ覚えた」
その向かいの席に座る小太りの男――確かキナンジだったか――が困ったような顔でこうたずねてきた。
「でよ、ランシャはどう思う」
「どうって、何が」
「だからよ、テストに合格するヤツがおまえ以外に居ないんだよ、どうしたらいいと思う」
「え、俺に聞くのか、それ」
「しょうがねえだろ」
キナンジの隣のルルが、パンをかじりながら呆れ返っている。
「このメンツじゃ知恵が足りないんだから」
「おまえもそのメンツに入ってるんだぜ」
ナーラムが苦笑していた。
「んな事はわかってんだよ。で、どうすりゃいいと思う、ランシャ」
ルルが苦り切った顔で改めてたずねた。ランシャは眉を寄せる。
「どうもこうも、人数が必要ならテストを甘くするしかないだろう」
「だよなあ」
ナーラムはそう言いながら、十字傷の隊長に目をやった。キナンジもルルも同じく。隊長はパンをスープにつけて口に放り込み、一噛みで飲み込むと、憮然とした顔で口を開いた。
「ダメだ」
ナーラムとルルはため息をつく。キナンジはお手上げだとポーズを見せてランシャを見つめた。
「昨日からこうなんだぜ」
そう言われてもなあ、という表情でランシャは隊長の顔をのぞき込んだ。
「何でダメなんだ」
「馬鹿はすぐ死ぬ」
隊長は即答した。ランシャはあえて一拍置いてからこう言った。
「旅の道中が戦場になると考えているのか」
隊長はランシャを横目でにらむように見つめる。
「ったく、おめえは話が早くて助かるよ」
そしてパンを皿に置くと向き直った。
「今回の旅は東の氷の山脈まで、帝国の領土内の移動だ。本来ならお姫さんと魔獣奉賛士の爺さん、あとは護衛が何人か居れば事は足りるはずだろ。だが実際には傭兵だけで三十人、総勢百人の所帯だ。何のための行列だと思う」
それにルルが食ってかかった。
「お上のご威光とやらを見せびらかすための行列かも知れないだろ」
「ここの王様がそんな甘いなら、この国はとっくに潰されてる」
その隊長の言葉を受けてナーラムが続ける。
「確かに、百人ぽっちじゃ威光もクソもないしな」
しかしキナンジは首をかしげた。
「だけどよ、人数を言いだしたのは魔獣奉賛士じゃなかったっけ」
その疑問に、ランシャが答を用意した。
「それを王様が却下しなかったのは何故か」
「ああ、そういうこった」
隊長がうなずく。
「王様も、おそらくは魔獣奉賛士も、何かを知ってる。それが何かは知らんが、何かを前提に動き、人を集めてる。そこでこっちが何も考えないで人数だけ集めてみろ、あっという間に全滅だ。全員無事に旅を終えるなんて間抜けな事は考えちゃいないが、無駄に死ぬヤツは少ない方がいい。傭兵以外の連中は特にな」
「じゃ、どうすんだよ。荷物運びランシャ一人でやらす気か? 王様から人集めの金もらっちまってるんだぞ、いまさらできませんでしたって返すのかよ」
ルルの指摘はもっともである。そんな事をしようものなら、傭兵としての信用はガタ落ちとなるだろう。もうこの国には居られなくなるかも知れない。ただ、隊長の考えも人として理解はできるのだ。それだけにナーラムもキナンジも簡単に否定はできなかった。
隊長は黙り込む。他のメンバーもまた。しばしの沈黙の後、ランシャだけが口を開いた。
「それなら、こういうのはどうだろう」
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