第15話 困惑の朝/決意の昼

 にぎやかな声で目が覚めた。あおいの声だった。


「……あ」


 外はもう明るい。午前八時。

 ここは、玲の町家。玲の部屋。玲のおふとん。

 昨日、玲に迫られた。強引に連れてこられて、それで……。


「ままー、おねぼう。おは!」


 娘が乗っかってきた。おはようと答えたいのに、声が出ない。


「きょうはね、れいと、どぶつえん、いくの! ままは?」

「さくらは起きたばかりだ。あおい、ふたりで行こう」


 襖が全開になる。まぶしい。『どぶつえん』……?


「ごはん、たべたの。あおい、もういくの!」


 着替えも済ませてある。準備万端らしい。


「れい……」


「朝食はあたためるだけだ。天気もいいし、あおいとふたりで東山の動物園へ行く。お昼ごろ、片倉医院で会おう。昼食をみんなで食べる予定だって。午後、涼一さんは東京へ帰るそうだ」

「あ……うん、分かった」

「俺たちはもう出るから、ここの戸締りをしてきてくれるか」


 町家の鍵を渡された。


「それと、昨日はごめん。乱暴だった。ああいうのは、よくないな」


 あおいが近くにいるので、はっきりとしたことは言えなかった。


「ううん。私こそ……ごめんね」

「じゃあ、またあとで。動物園が終わったら、母さんのところへ向かう」

「ままー、あとでね!」


 元気なあおいを連れて、玲は出かけて行った。



 さくらは、おふとんから出られないでいる。


 祈るような玲の懇願を、また拒否してしまった。傷つけてしまった。

 迫られて、すごくどきどきした。ずっと思い続けていてくれたこと、うれしかった。正直、心が動いた。でも、だからといって、玲と越えようとは思えなかった。類の顔がちらついて離れなかった。あおいを裏切りたくなかった。


「でも、キスはしてしまった……」


 つつっと、涙が流れた。


 ごめん、玲。こんな自分で。情けも容赦もない女で。

 流れる水を受け止めるぐらいの気持ちで、玲と抱き合えたらよかったのに。ひと晩だけの秘密として、胸に秘めておけばいいのに。


 ここが玲の町家だったことも、さくらは戸惑った。かつて町家は、きょうだい恋愛禁止の場所だった。

 ごめんなさい、玲。


***


 お昼、十二時。

 日曜日、片倉医院は休診日。片倉家と柴崎家合同で、『聡子ママ☆出産おきばりやす会』の席が設けられた。

 有名料亭からの仕出し弁当を食べながら、聡子を激励するパーティーである。


「塩分控えめ、塩分……」


 聡子は妊娠高血圧とも戦っている。さすがに臨月、身体は限界を迎えていた。


 さくらは片倉とともに、お弁当を配ったり、飲み物を用意したり、準備を手伝った。最近は白衣姿ばかりを目にしていたので、私服の片倉は新鮮だった。ブルーグレイのニットにジーンズである。


 あおいと玲は先ほど到着し、手洗い! うがい! と忙しく動いている。忘れないうちに、家の鍵を返さなければならない。さくらは玲の姿を目で追っていた。


 ポケットに突っ込んでいる、町家の鍵。よくよく確認したら、以前の自分が使っていたものだった。まだ取っておいてくれたのかと、涙が出そうになる。


 大学に入って、京都へ来たとき。

 この鍵を渡されてどんなに感激したことか。だいすきな玲と同居。いつかは結ばれる、固く信じていた。


 けれど、現実はこれだ。


 弟の類と恋をして、婚約。未成年で妊娠、結婚。二十歳で出産。一年遅れで大学を卒業し、京都を離れて東京に戻り、現在に至る。


「弁当、豪華だな」


 すぐ背後に玲が立っていた。


「ひゃあ! びっくりさせないで」

「ぼーっとしていたお前が悪い」


「……動物園、どうだった?」

「あおい、動物がだいすきなんだな。昨日の水族館と同じぐらい元気に走りまわっていた。帰りの新幹線では昼寝かも」

「そのほうが父さまも助かるね」


「でも、もう重いよ。いつまでだっこするのかな」

「だっこ、だいすきだからなあ……そ、そうだ。鍵。家の鍵。戸締り、してきたよ」


「……持っていてくれないか。京都にいる間だけでもいい。それはさくらの鍵だ」

「やっぱり、これって私が以前に使っていたやつ?」

「気がついていたのか、さすがの記憶力」


「ここに、薄く傷がついているでしょ。自転車で転んだときに、つけちゃったんだ」

「傷……って、転んだのか? 聞いていなかった」

「だって、恥ずかしかったもん。子どもみたいで。昔の傷を思い出しちゃうから、返します」


「持っていてほしい。昨日のことで、望みはないって分かった。でも、頼む。使わなくてもいいから。せめて、同じ鍵の関係でいたい」

「玲……」


「お前と、最後までしたかった」


 そこまで言われると、引き下がれなかった。鍵を持っているだけでいいのだ。


 ちょうど、あおいが走って来た。さくらは、鍵を引っ込めた。玲との話はそこで打ち切られた。


「みなさんに、お話があります。涼一さん、あおいちゃんを」


 食後、聡子に指名された涼一はあおいを連れて片倉医院のお庭へと消えた。どうやら、あおいには聞かれたくない話らしい。


 おもむろに、聡子は一枚の紙を取り出した。ぺらっと。表に『遺書』と書いてある。


「遺書? なんのつもりだ!」


 もちろん、玲は怒った。


「これから大難関の仕事を果たすんですもの、命がけ。みんなに聞いてほしい。涼一さんと類には、もう話してある」

「だからって、遺書だなんて」

「出産、命がけだったでしょ、さくらちゃん。忘れたなんて言わせない。あのとき、こうしておけばよかったーって、後悔したくないの。私が元気なうちに、伝えておきたい。片倉さん、みなさんも聞いてください」


 そう宣言して、聡子は遺書を読み上げはじめた。



『私に、もしものことがあったら、幼い皆と、生まれてくるふたごのことを、どうかお願いします。

 全力を尽くしますが、足りなかった場合は、子どもを最優先で助けてください。

 私は、とてもしあわせでした。

 みなさん、ありがとう。わがままばかり言って、ごめんなさい。

 特に、さくらちゃん。あなたには、子どもたちの母代わりになってほしいの。

 自分の子どもがほしいと思うけど、私の子どものこともよろしくね』



 冗談じゃない。泣いてしまいそう。


「こういう雰囲気、きついです……おかあさん……!」


 単純なさくらは、きゅんきゅんだった。


「もしものときは、私の子どもたちをお願いできる?」

「はい、もちろんです。あおい同様に、育てます。ですが、絶対に安産で」

「ありがとう。これで安心。憂いなく生める」


 聡子はさくらの手を握った。


「玲もありがとう。結局、私がいちばんのわがままよね」

「みんなも分かっているって。柴崎家のラスボスは、母さんだろ。今さら遠慮なんてするなよ」

「すごく幸せ。私、最高!」


 全員で手を握り合った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る