第3話 解放感と夫の評価

「じゃあ、皆を寝かしつけるまで、あなたたち消えていて」


 弟の皆は、いつもと違う環境に戸惑い、ぐずっている。一歳を過ぎて、好みや主張が激しくなった。


「どうせ、うちはせんべい布団……セレブ・柴崎家の、ふわふわベッドとは大違いだよ……」

「環境の違いに戸惑っているだけだって。いじけないで。さ、散歩しよ。まだ、八時だし!」


 さくらはコートに袖を通し、玲を引っ張って外に出た。


「……じゃあ、夜桜でも見に行くか。平野神社、少し歩くけど行ってみるか」

「なに、どこそこ?」

「桜の名所。天神さんのちょっと先にある」

「ふうん……じゃあ、行ってみる」


 今のさくらは、家事も育児もなにも背負っていない。柴崎さくら(24)である。そのときの気分で、なんでもできる。


「案外軽く乗って来たな」

「だって、一時間ぐらいは町家を留守にしないと、皆くんが寝られないし。赤ちゃんの寝かしつけって、ほんと繊細なんだよ」

「なるほど。子持ちの発言は重みを感じるね」


 吹く風はひんやりしているものの、歩いているうちに身体があたたまってきた。さくらは着ていたコートを脱ぎ、腕にかけると、玲が持ってくれた。


「懐かしいね」

「そうだな」


 期待と不安でいっぱいだったあの春、玲だけを頼りにして京都に来た。なのに、類を選んだ。あおいが生まれた。


「玲には、謝っても足りない!」

「なんだいきなり……」


「私、玲には心の底から感謝している。だいすきだったのに。ずっと一緒だって思ったのに」

「感傷的になるなよ、取り扱いに困るし」

「そうだね。ごめん」


 夜の深い色の空と。車や人通りの少ない道。痛いぐらいに静かだった。

 さくらは、いちいち思い出してしまう。玲と歩いた道、類と手をつないだ場所。目を閉じれば、昨日のことのようなのに。


「類くんに聞いたんだけど、あおいが欲しいってほんとうなの?」

「考えてくれたのか」

「いや、普通に考えて無理でしょ。あおいは私たちの大切な娘だもん」

「そこをどうにかと言っている」


「どうしてあおいなの? 玲なら、これからいつもで結婚できると思う。子どもがいたら、大変だよ」

「あおいがいいんだ。かわいくて仕方ない」

「それ、実のおじさんとしての発言なんだよね」

「当たり前だ」


 そのとき、さくらの携帯電話が鳴った。類からだった。玲に断ってから、さくらは通話ボタンを押した。


『さくら、無事?』

「うん。類くんも?」

『今、仕事が終わって家……といっても、親の家に戻るところ。車の中』


 社長の類には運転手がついている。


「おつかれさま」

『あおいはすっかり、じいじ……オトーサンと意気投合しているみたい。母さんと皆はどんな様子?』

「お母さんは、久しぶりの京都にテンションMAX。皆くんは、町家の和風な趣に驚いて、ちょっとぐずっちゃって」

『玲、いる? 少し話がしたいんだ』

「うん。近くにいるよ、代わるね」


 さくらは類からだと告げ、自分の携帯を玲に差し出した。


『もしもーし、玲。ぼくだけど』

「……ぼくぼく詐欺か。おつかれ」

『向こう十年かけてやろうと思っていた社長引き継ぎを、半年で済ませろという荒業中だから、まじおつかれだよね。来月は株主総会もあるし』

「類社長、多忙だな」


『玲、お願いがあるんだ。京都で、さくらに変な虫がつかないように、見張ってね。変な虫より、気心の知れている玲のほうが安心できる。さくらが切なそうだったら、相手してあげて?』

「な、なに言ってんだお前」


『ぼくがさ、激しく調教しちゃったから、今の淫乱さくらは、二ヶ月もご無沙汰なんて耐えられないと思うんだ。なんとなーく誘われて、わけのわかんない男と、ふわふわゆるゆるの一夜の関係を結ばれても困る。シバサキのスキャンダルにもなるし』

「なにが言いたい」


『さくらが乗り気なら、処理してあげて。あ、難しい? 本気になりそう? 子どもを生んでから、さらに締まったし、すごいよ』

「バカ。さくらには類しか見えてないって。そういうお前こそどうなんだ」

『おつかれで、それどころじゃないよ。女なんて見たくもない。じゃあ、よろしくね。ということで、さくらに代わって』


 玲は電話を突き返した。さくらは、きょうだいふたりの会話が聞こえていないので、なにも分かっていない。きょとんとしている。


「もしもし、類くん」

『さくら。ぼくのかわいいさくら。約束の手紙、毎日だと手間だから、十日分ぐらいまとめて送るでもいい? ちゃんと書いているからね』

「類くんの都合でいいよ。忙しいんだし」


『さくらのことを思って書くの、楽しいんだ。ほんの半日でも、時間が空いたら行くから。絶対に会いに行くから!』

「ありがとう。もう、会いたい。でも、無理しないでね。健康第一」

『さくらは、ぼくのすべての活力なの。愛している。世界でいちばんしあわせにするよ』

「……うん。私も、類くんがだいすき」


 電話を切ったあとも、さくらは電話を胸に当てて抱き締めていた。類の声。やっぱり、だいすき。逢えないのは悲しいけれど、ほんの二ヶ月。家族のために、会社のために、今はがまんする。


「さくら。神社のライトアップ、九時までなんだ。行こう」


 玲に促され、さくらは現実に還った。


「ねえ、玲にはなんだって? 類くん、なんて言っていた?」

「お前のことをよろしくされただけだ。なんでもない」

「よろしくされた? 確かに、お世話になるもんね。あらためて、よろしくお願いします」

 

 さくらは玲に向かって頭を下げた。社会人二年生らしく、丁寧な振る舞いである。

 が。

 夫に淫乱認定されていることに対し、まるで気がつかないさくらを、不憫に思う玲だった。

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