第2話 可愛いお嬢様
お嬢様は可愛い。それはアルゥバースの絶対的価値観である。
お嬢様はステキで可愛い。翠色の春の湖面を思わせる真ん丸の瞳も可愛い。まっすぐに伸ばしたはちみつ色のとろりとした髪を揺らしている様も可愛い。白い小さな手も、そのまあるい爪も可愛い。小さな赤い唇から紡ぎだされる声も可愛い。女性にしてはやや小柄な背丈をまっすぐに伸ばす姿勢も可愛い。歩くときは音を立てないけれど、なんでもないところでつまづくところも可愛い。小さく欠伸をしてはっと我に返るところも可愛いし、食事で彼女の好物が出た時に小さくはにかむ姿も可愛い。
踵の高い靴でアルゥバースの尻を蹴りあげる様も可愛いし、しなやかな鞭を舌舐めずりするところも可愛い。最後は妄想の中の彼女だが。
一日どころか、毎日でも可愛いところは言い続けられるほど、可愛い。
日々、見ていて飽きない。どころか、日を追うごとに彼女に惚れている。中毒患者のように彼女を思い、慕い、夢想する。
そんなアルゥバースの女神もかくやというサラヴィだったが、カンターレ公爵の王都にある屋敷から一歩外に出れば、たちどころに敵に囲まれるほど彼女の日々は危険に満ちていた。
王太子の筆頭婚約者候補。
カンターレ公爵家の唯一直系の長子。
そんな肩書が、彼女の命を危ぶませ、平穏からは遠いところへと彼女を連れ去る。
それが、アルゥバースには呪わしい。
彼女は立場に胡坐をかいているわけではない。
彼女なりに足掻いて、努力し、研鑽している。
それは15歳の少女には過酷ともいえる環境だ。
傍で長年仕え、見守ってきたアルゥバースをはじめ彼女に仕える屋敷の者ならば皆知っている。だが、周囲の者たちは彼女を恵まれたお嬢様だと評価する。
生まれが尊い、容姿が整っている、最初から彼女が持っているものだけで、サラヴィという少女を評価するだけだ。
頭が空っぽの、中身のない、人形のような美少女、と。
王侯貴族が通う学び舎ですら、彼女の評判は様々で、悪意に満ちたものが多い。中には良心的に評価してくれる者もいるが、とかく噂というものは悪いものの方が広がりやすく浸透しやすい。
曰く、我が儘放題で男を手玉にとり振り回すお嬢様。
曰く、金に物言わせる放蕩で宝石と服飾に目がないお嬢様。
曰く、周囲を不幸に陥れて嘲笑うお嬢様。
そんな日常に、がりがりと精神を削られるのは、主よりもアルゥバースの方だった。
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「あの、アル…少し落ち着いて…」
「いいえ、お嬢様! 今回ばかりはもう我慢できません! いえ、我慢しろとお嬢様が命じてくだされば我慢はいたしますけれど…いや、しかし、この屈辱すら甘美な責め苦に変えてしまうお嬢様は素晴らしく残酷な女神様でございますね!」
「あああ…アル、本当に落ち着いてください! そして戻ってきて…」
震える声で懇願されればアルゥバースには極上のご褒美だ。
少し冷静になれたので、目の前の惨状をもう一度凝視する。
茜指す教室にはアルゥバースとサラヴィのみだ。20人ほどが学ぶ場所には、各個人の机が並ぶ。
机は個人の所有物だ。3年間同じ教室で学ぶため、規格だけ指定された自由な机が並ぶ。ある者は真っ白な机を、ある者は七色に輝く机を。個性がそれぞれにでている机の中で、サラヴィが使うのは黒檀の机だ。一見重厚に見えるが、線の細い彫刻が施され優美な曲線を描いた脚や引き出し、装飾のため女性が使っても問題ない一品だ。
娘のために財を惜しまず作成された職人渾身の一品は、机の裏に刻印された公爵家の家紋がそれを物語っている。
その一点ものの机は見事に真っ二つにされていた。突き刺さった斧が西日を受けてきらりと輝く。
「ええ、これは宣戦布告ですね。公爵家に対する最大の侮辱でございます。命にかえましてもこの不届き者を血祭りにあげてお嬢様の御前に並べて見せましょう」
「心配してくれるのは嬉しいけれど、困ります。このような脅しに屈する私ではありませんから」
「お嬢様を怖がらせたという罪だけで死罪確定です。天に唾を吐くような行為ですね、愚かな。そんな者には生きている価値などありませんよ」
「おやおや、随分と物騒な話をしているんだね」
不意に柔らかな声がかけられ、二人は入り口を振り返った。
教室の開かれた扉の横には、金色の髪に青い瞳をした少年が立っている。中肉中背の体型は学園の制服に包まれているが、整った顔立ちには気品が感じられた。タイゲイア王国の王太子であるガンレット=グレマ=タイゲイアだ。
「ガンレット様、ごきげんよう」
「ああ。相変わらずサラヴィの忠犬は物騒だね。いったいどうしたの」
後ろに控える護衛を残して、ガンレットが教室へと足を踏み入れ、二人の影になっていた机の惨状をみて、息を飲んだ。
「なるほど。これは冷静ではいられないね。手伝おうか?」
サラヴィは静かに首を横に振る。当然だ。公爵家に売られた喧嘩だ。こちらでも十分に対処できる。
それに彼には彼でやらなければならないことが山積みのはずだ。一国の王太子に課せられている重責は学生といえども軽くなることはない。そもそも不用意に関わらせるべきではないのだ。
「お気持ちだけで十分です。ところでガンレット様はなぜこちらへ? すでにお帰りになっているものと思っておりました」
「あなたたちを探していたからね。サラヴィこそ、何をしていたの」
「私は中庭に呼び出す手紙をいただきまして。そこで相手の方をお待ちしておりました」
「なるほど。机を壊す時間稼ぎだね」
朝からサラヴィは放課後に中庭へと呼び出されていた。
あなたに関わる秘密の話がある、との手紙の内容にサラヴィだけを向かわせるのは心配だったため、アルゥバースも影で控えていたのだ。
だが、いつまで待っても相手は現れなかった。待ちぼうけを受けた形だ。仕方なく教室に戻ってきてみれば、机が壊されていたというわけだ。
「回りくどい手を使う理由はなんだろう」
「愉快犯でしょう。お嬢様に構ってほしくてちょっかいをかけてくるのです。そりゃあお嬢様が鞭を振るって仕置きしてくれるのは極上の快楽ですけれど、それはたまにあるのだから素晴らしいのです。しかも粗相をして、叱られようだなんて恥知らずな行いを許せるはずもありません」
「アル! 妄想が漏れてますよ! 空想を現実のように語らないでください…」
「相変わらず忠犬は廚犬だね」
「褒めてもしっぽは振りませんよ」
「いらないよ、気持ち悪い。それより、今月末に王城で夜会を開くんだ。ぜひ出席してくれ」
彼が差し出したのは、王家の印蝋で封された手紙だった。
礼をしてサラヴィが受け取ったものを、アルゥバースが預かる。
「随分と急に催されますね?」
「隣国から使者が来ることになってね。そのための歓迎式典なんだ。僕には見合いの場にもなる。陛下の思惑は別のところにあるけれど。とうとう我慢できなくなったらしい。未来の義娘に会いたいんだってさ。卒業まではまだあるし、デビュー前だから公式では呼べないからね」
思わず手紙を握りつぶさなかったのは、奇跡に近いとアルゥバースは思った。
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