第26話 硝煙の香
*
夕立が追いかけたころにはすでに、凪の姿はなかった。代わりに、四つん這いになりながら逃げる奴隷を見つけて、ただちに捕まえた。
「あなたを助けた男の子はどこです」
ひっぱたいて、無理やり屋敷まで案内をさせた。
屋敷の中には、すでに侵入した凪を殺そうと躍起になった浪人たちが、一点の部屋へと集中している。
(あの子、やっぱり嵌められたんじゃないの)
正義を妄信した凪に対しては、心底、馬鹿馬鹿しく思っていた。これだから、他人の悪意を知らない小僧は、人の言うことをそのまま信じて騙される。そんな凪を助けに来た自身にも、夕立は呆れてさえいた。
「来やがったぞッ」
浪人の駆ける音を聞いて、夕立はとっさに空き部屋へ身を隠した。
遠のいてゆく足音に耳を傾けていた刹那、その部屋に立ち込める臭いが鼻を突く。
火薬に似た独特の異臭。戦乱に身を置き続けた男の体に、染みついた鮮烈な煙の臭いだ。
この不気味な臭いを、夕立は知っている。
すさまじい悪寒とともに、恐怖が背筋を走り抜けた。
「うう……」
部屋の奥で、女の呻く声がする。
こわごわ近づいてみると、そこには、やせ細った女が着物を剥かれたまま倒れている。
その太ももには、刀で刻んだような奇妙な傷まであった。
夕立は愕然とする。
『久しぶりだな』
耳に残るおぞましい声が、すぐ背後で囁いた気がした。
すかさず振り返っても、その男はいない。ただ、その手が肩をいやらしく撫でまわしたような気がして、夕立はたまらず、自らの肩を抱きかかえた。
「……」
涙が出てきた。
強烈な火薬の臭いが染みた体臭に、犯した女に傷をつける不気味な癖。そういう癖を持った男に、夕立は心当たりがあった。
(去時化、お前がここにいたのね———)
香や花の香りを好んでつける者はいても、火薬の煙を香の代わりにつける者はいない。いるのはただ一人、戦場で人の香りを紛らわすために、好んで火薬を焚き染めていたあの男だけだ。
この強烈な臭いは、戦禍の中にいなければ、一息で彼と分かる。
夕立は皮を食い破らんばかりに唇をかみしめ、その場にうずくまる。
(ようやく見つけた……お前だけは、絶対に殺してやるわ)
憎き男が歩いたであろう床を踏みしめ、夕立は拳を強く握る。
万晴とその仲間に加担し、恩師を奪った男。夕立の人生に大きな傷をつけた男。軽い張り手では到底晴らせない恨みが、あの男にはあるのだ。
*
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