第22話 罠


 *


「こっちだ」


 男に導かれるままやってきたのは、破れた屋敷だった。


「毎朝、ここから歩かされて町に売られる」


「町に……」


 たしかに、言われてみれば人を数人引き連れた男が、名古屋の宿場町にもいた気がする。人買いというのは、ああして人間を売り歩いているのだろう。


(ひどいことを)


 凪は正義の味方よろしく、拳を握った。


 当時、乱取りは火急の武士に与えられた、ある種の「褒美」でもある。普段の稼ぎではとても食っていけず、薄給故に士気も下がる。で、あるから、上級の武士が乱取りを許すことで、下級武士の収入源としたのだ。


 ———だが、侍の事情なんぞ、町人である凪にはわからぬ。


「ほかの人たちは、あの屋敷の中かい」


「お、おう」


「悪いが、案内しちゃくれないか。見つからないようにいくのは、さすがに難しいぜ」


「んん……」


 男は意外にも、いともたやすく受け入れた。恐怖から、屋敷に入ることを拒む様子もない。


(……)


 どことなく、この男に違和感を覚えてはいた。


 この男がなんの抵抗もなく、この屋敷へと進んでこられるのはおかしい。恐怖心があるのなら、屋敷の中まで案内してやろうとは思わないはずだ。


 だが、凪は疑いこそすれ、助けないという選択肢はもっていなかった。


(罠なら俺一人で切り抜ける。本当なら、全員助ける)


 凪には、自身が死ぬかもしれない恐怖はない。


 一番恐ろしいのは、仮にこの男が嘘をいっていなかったとき、助けなかった自分に後悔が残ることだ。


「———ありがとう。じゃあ、俺は先に屋敷に入るよ」


 意を決して、裏口より忍び込んだ。


 不用心なことに、戸口は棒きれで施錠してすらいない。古い屋敷だからであろうか、当世の屋敷で見る閂も見当たらない。


(留守にしているのか)


 奴隷が逃げ出すことも想定されていないのか、警備が異様に薄い。鍵がなければ見張りをつけるものだが、凪が忍び込んだ土間は重く静まり返っていた。


 あまりに入りやすすぎる。


 屋敷の不用心ぶりを実感するほど、凪の、屋敷に対する不信感は募っていった。人買いも大人なのだから、凪のような第三者のことは想定していなくても、奴隷が逃げることは考えつくだろう。


 それなのに、これほど守りが薄いとなれば、逃げるなり忍び込むなり好きにしろ、と言っているも同然である。


(やっぱり、はめられたかも)


 凪は心の半ばで後悔する。


(俺がもし捕まったら、お夕さんは怒るだろうな……)


 ほら、ごらんなさい。だから行かなければよかったのに。


 ———と、夕立が怒るのが目に浮かんだ。


 巨体に軋む廊下を静々と進みながら、冷や汗とともに苦笑した。


 廊下の端から、奥までの間に渡り進んだところで、


「おまえ、凪?」


 廊下に面した障子のおくより、女の声が凪を呼ぶ。


 凪の耳には覚えのある声だった。


「あんたは、吉坊よしぼうの……」


 わずかに開いた襖を開けると、その先では、襤褸に身を包んだ女たちが座敷牢に閉じ込められている。その先頭には、かつて面倒を見ていた子供の母親の姿もあった。


 凪の住んでいた長屋には夜鷹も多かったため、夜の仕事を子に見せたくないからと、わが子を凪に預ける母もいた。


 面倒を見ていた吉蔵よしぞうという子供もまた、そのひとりである。


「生きてたのか」


 凪は涙せんばかりに喜んで、座敷牢の格子へと駆け寄った。


 大坂夏の陣では、女子供も容赦なく斬り伏せられた。だから、子供の母親たちもみな死んだと思っていたが、生きているものもいたらしい。


「あのときは、長屋から離れたところで仕事してたから……」


「そうか。何より、無事でよかったぜ」


 吉の母親はとくべつ美しい女性だから、きっと殺すより売るほうが利になると思われたのかもしれない。


「助けとくれ、あたしら明日には売られちまうよ」


 やってきたのが外部の人間だと分かるや否や、母親の後ろで、女たちが助けを乞う。


 逃げてきた男はどうやら、凪を誘い出すおとりではなかったらしい。心の不安が晴れ、大阪の生き残りにも出会って、凪は心底から安堵した。


「待っててくれ、すぐに出してやる」


 優しい声で伝えて、格子に手をかけた。


 屋敷の警備が薄いわりに、鍵は頑丈にも鉄の鍵でつくられている。鍵穴に海老状の鉄鍵を入れなければ開かない仕組みになっているものだった。


(手で開かないのなら……)


 針金でもあれば、外から鍵穴に差し込んで出してやれるが、凪は持ち合わせていない。


 代わりに、ところどころ腐った牢の格子に目を付けた。


「ちょっと下がってな」


 伝えて、木格子に両手をかけた。片足を格子につけ、力強く腕を引くと、格子の軋む感覚があった。構わず格子を引き続けると、軋む木材がみるみるうちに大きな音を立てる。


「ねえ、凪。吉蔵は……」


 女が問いかけた時、ついに、


 ばしり———と、折れた。


 力任せに折り取られた格子を投げ捨てるや、凪はもう一度、格子を破壊する。人ひとり通ることができる穴から、


「さ、早く」


 手招いた。

 だが、女たちは穴から出てこない。


 凪を見上げながら、戦慄し、青ざめている。


「……?」


 首を傾げた刹那、女たちの視線を追って振り返った。


 男がひとり、開け放たれた障子の縁に立っている。


「凄まじい馬力だ。万晴が怯えるのも分かる。その分じゃあ、雑兵の頭を兜ごとかち割った話も真であろうな」


 小ぶりな男が、追い求める兄の名を口にした。


「万晴……」


「凪という小僧は貴様で間違いないな」


 ひしひしと歩み寄る男から女たちを背に庇い、凪は身をかがめて対峙する。


(この屋敷の親玉か)


 来ている身なりが、少なくともそこらの浪人よりは小綺麗だ。


 こぼれた刀を携えた浪人を引き連れているさまから、この男の格の高さがわかる。


「それにしても、本当に助けに来るとは驚いた。奴隷など捨て置けばいいものを……人の甘い男は長生きをせんぞ」


「奴隷?」


 凪の脳裏を、あの逃げ出した奴隷の顔が一閃した。


 やはり、罠だったらしい。


「万晴に言われて、俺を始末しに来たのか」


「うむ、それもある」


 男は頷き、その懐にしまっていた文をげた。


「あの男は、この小狂こぎょうの古い友人でな」


「友達ってんなら、そいつが道を踏み外した時に止めてやるのが友情ってもんだろ」


「はは」


 青臭い凪を男・小狂はせせら笑う。


「では聞く。友人とはいかにして出会うのか。出会い方は様々であろうが、そこには少なからず共通の話題や思想、利害の一致がある」


「……」


「彼は頭がおかしい。好んで生き物から命を奪い、生まれついての体の弱さゆえに、他者から強い部位を奪うのに余念がない。すなわち、あれは他者を不幸にする天才である。それでいて、私は弱った人間から富を吸い上げたいと思っている。万晴についていれば、少なくとも食うには困らない。そういうわけで私は彼の味方をするのだ」


 淡々と説き伏せる男に、凪は怒りを感じるより納得していた。


 類は友を呼ぶ。


 凪の知るような友の形をしていなくとも、万晴の近くにいると元は、彼と同じ部類の人間しかいないのだ。


(だが、安心したぜ)


 凪は納得して、ようやく怒ることができた。


 要するに、この男は万晴に脅されて、仕方なく悪行を働いているのではない。完全な趣味で、自分の欲望のために人を不幸にしているのだ。


(完膚なきまで叩きのめしてよし)


 これで、心置きなく悪人を殴り倒せるというわけだ。


「凪……」


 後ろで女が涙声になった。


 彼女だけではない。

 みなが、浪人の手にある凶刃に怯えている。


「大丈夫、あんたたちに怪我はさせないよ」


 女のほうは振り返らなかったが、穏やかな声調で言葉をかけた。


「すぐには出ないで、隙を見て逃げるんだ」


「ふむ、奴隷を背に庇ってどこまで戦える」


 凪のやりとりを聞いていた小狂が挑んだ。


 かけられた言葉に対して、凪は返答しない。


 挑戦的な奴隷屋敷の主に向かって、ゆっくりと拳を構えた。


「猫足立ちか」


 猫足立ち———。


 かかとを地面から離し、つま先の身に重心をかける立ち構えをいう。


 蹴りやすく退きやすい。さらに言えば、軽く身を弾ませることで素早く敵の間合いに踏み込める、攻めと守りを兼ねた立ち姿だ。


「あんたをぶちのめす、心の準備は整っているぜ」


「面白い」


 小狂の口が三日月に吊り上がる。その醜悪な目より放たれる指令を受けて、横に控える浪人どもが抜刀した。



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