第19話 残虐の気配


 *


 岡崎の宿場町からわずか離れた場所に、破れた屋敷がある。もとは豪商か何かが住んでいたのであろうが、いまや持ち主はおらず、荒れ果てた屋敷には落ちぶれた浪人や賊どもがねぐらにしていた。


「あの男はどこにいる」


 屋敷の連中をしきる小柄な男が、忌々しげに手下へと声をかけた。


 小柄な男を小狂こぎょうという。いまやそこら中にいる浪人のように、御家の断絶によって雇い主を失い、侍の地位すら奪われたものの一角だった。


 だが、地位を持たないおかげで、できることもある。かつては侍の誇りだの、美学だのとうるさく言う連中が消え失せたために、賊として存分に乱捕ができている。


 屋敷のそこら中には、大坂夏の陣をはじめとした数々の戦で、捕らえた奴隷どもを幽閉していた。


「ぎゃっ」


 肉を叩きつける音とともに、屋敷の隅から女の悲鳴が上がった。


「そこにいたのか」


 呆れ果てながら、小狂は隅の部屋の襖を開けた。


 部屋に増設された牢は、扉が開いている。その闇の奥には、裸体の男女の姿が浮かび上がっていた。


「まったく……すぐに静かになりやがる。面白みのない女よ」


 舌打ちとともに袴を腰にまとう男は、形のいい口から女のそばへと唾を吐き捨てた。


 女は幾度と殴られたためか、顔が血にまみれている。泣き声さえ上げることなく、その場にぐったりと横たわっていた。


「あまり殴るな、去時化さるしげ。その女も売り物だぞ」


「殺さんだけマシだと思え。だが、この女はあまり期待できんがな」


「たいていの男は、お前ほど高望みはせん。抱ければ十分だろうよ」


「ふん……」


 男———去時化は冷笑をもって、女に背を向けた。


 まだ三十路に達するか達せぬかの男前であるのに、その容貌には、この世のどのような悪さえ蹴落とさんばかりの残虐な心がにじみ出ている。


「俺が初めて男になったのは、まだ十六、十七ばかりの頃か———。男というのは、最初の女を忘れられんものだな」


「ふん、絶世の美女だったのか」


「いいや、どこにでもいる取るに足らない小娘だった。だが、しくしくと可哀そうに泣くさまはどうにもそそってな……考え付く限りの方法で、その娘を傷つけ辱めた。俺の人生において最も美しい記憶だ」


 もともと顔の作りがいいだけに、感傷に浸る去時化の横顔は醜いとは言えない。


 だが、大坂から何人もの人をさらってきた小狂でさえ、その残忍な経歴には、


(クズめ)


 さげすんだ。


「だが、ほかの女ときたらどうだ。少し殴ればすぐに諦めて、泣くのをやめる。面白くないことだ」


「なら、その娘を連れ戻して犯せばいい。商品に余計な傷はつけるな」


「それができるなら苦労はしない」


 去時化は悲しげな息をついてみせ、鍛えられた上裸のうえへ小袖の衣を羽織った。


「小手先の猪口座がやられたらしい。おそらく、あの万晴の弟だろう」


「東海道を通ってきているのか。ならば、ここも通るな」


「俺は駿河で待っている。殺したら、俺にもその面を見せてくれよ」


「どうせ万晴によく似て、ガキのような無垢な面だろうよ」


「はは、違いない」


 去時化は小狂とのすれ違いざまに、高らかに一笑する。


 その笑声はどことなく、最初に見知ったころの去時化の声と異なる。


 人は成長過程で声が変わるというが、すでに成人していた去時化の声が、渋い男の声になっているのには違和感があった。


「去時化よ……まさかその声は」


 小狂の言葉に、去時化がゆらりとふりかえった。


「万晴の《やること》はどうせ迷信だと思っていたが……そうか、どうやら真のことだったらしいな」


 以前とは別の男の声で微笑むと、壁に立てかけていた刀を腰に納める。


 去時化は音もなく、その部屋を立ち去って行った。


 *


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