第18話 先生


 *


 凪の胸に残っていた後味の悪さも、一晩眠って翌朝の飯を食うころには綺麗に消えた。自身でも驚くほどの立ち直りの早さであった。


「うん、うまい」


 わずかに川魚の出汁が染みた粥を口にしながら、凪は山道に立つしけた飯屋で満足に頷いた。


 清州を抜けた後、名古屋を通じて岡崎へとたどり着いた。岡崎を抜ければ駿河に出る。駿河には海もあるというし、凪は魚屋の親父がよく口にしていた『青い海』とやらが見られるのを心待ちにしてさえいる。


「案外、引きずらないのですね」


 凪の隣で同じ釜の飯を食いながら、夕立がふと、そんなことを言った。


「引きずらないって……ん?なにをだ?」


「清州で戦った男のことです。あなたはずいぶんとしょんぼりしていましたから」


「そりゃあ、ここ三日三晩中、引きずっているわけがないぜ」


 防衛のためなら殺しも厭わないくせに、らしくないことを言う夕立に、凪は声高になった。


「あの男の自決は、どうすることもできなかった。俺があの事件を忘れることは決してないだろうが、あの男を悔やんで心を病むのは違うと思う」


 凪は言った。


 犠牲者の遺体は土に埋めて弔っている。凪なりに、人としてできる最善の施しはおこなった。たしかに、自分は言葉がけを間違えたかもしれないが、過ぎたことでいつまでも気を病んではいられない。


 何より、弔ったことによって、先日の事件については自己完結している。そうしなければ、いつまでも悲しいことばかりを思い出してしまうからだ。


「人がいいかと思いましたけれど、意外と冷淡なんですね」


「冷淡って……お口が悪いぜ」


 言い方がいまいち不適切な夕立に、凪は肩を落とした。


 貧乏生活では、身内の病気や飢え死にはつきものだ。近所ではしょっちゅう物乞いが死んでいたし、母を含め、遊女たちが梅毒で命を落とすこともあった。子供たちのなかにも、病で死んだ者はいる。


 何度も胸を痛めるたびに、最小限の弔いで自信を満足させ、深い悲しみをなるべく受け流すようにしてきた。


「悲しみすぎて死なないようにしてるんだ」


「なんですかそれは」


 心の強い夕立には、到底理解ができないのだろう。夕立は呆れたふうに短い息をつくばかりだった。


 それから一行は岡崎の山中を抜けると、駿河の一歩手前まで到達した。京から江戸に通じる東海道だけあって、道に沿えばどこかしら宿場町に抜ける。


 山際に日が沈んでゆくのを目の当たりにしながら、その日は町の中で野宿をすることにした。


 建物と建物の隙間に入り、夕立が手入れする刀の刀身が暮れ陽を受けた。


(思い出しても、ぞくりとする)


 死の悲しみを克服した凪ではあったが、人を殺す凶刃への恐怖は、いまだ克服しきれないところがあった。


 目の前で助けを求めた子供が、ばさりと、刀で真っ二つにされた光景が忘れられない。


「あなたは、貧困なところの生まれだと言いましたね」


 まるで、悲劇の回想に思考を奪われていた、凪の心を読んだように、夕立が沈黙を破った。


「あなたが刀を使って戦わないのは、そのせいですか」


「いまさら聞くのかい」


「あなたがなんにも言わないので、こっちから聞いただけです。刀を相手に素手で戦うのは、どう考えても不利ではないですか」


 夕立の言う通りだ。


 素手でなくても、木の棒や鍋などでは鍛錬された刀に太刀打ちできない。同じ刀を持っていたほうがよっぽどいいというものだろう。


 だが、


「刀だけは持てないんだ。どうしても」


 大坂夏の陣で見た、燃え盛る炎を宿した刃。人路切り刻んだ刃に、まとわりつく髪や血。筆舌しがたい地獄の光景が忘れられなくて、刀を握れなかった。


「嫌なことを思い出すし———それに、俺は刀なんぞ握ったことがないからな。まだ、貧困街の喧嘩のほうが慣れているんだ」


 あたかも、経験がないから剣を持たなかったとばかりに、笑い話に変えてみた。


 もちろん、夕立は笑わなかった。


「そうですか」


「そういうお夕さんは、どこかで修業をしていたのかい。大阪にもいくつか道場があったから、もしかすると、名前知ってる流派だったりして」


「そんな大きなところにはいませんでしたよ。京の山奥で、先生からひっそり習っていただけです」


「先生?」


 問い返すと、途端に夕立が口をつぐんだ。


 刀に綿のようなものを押し付けながら、ぐっと唇をかみしめているのが見える。どうやら、夕立の腫れものに触れてしまったらしい。


「———すまない、いけないことを聞いちまったようだ」


「……いいえ」


 珍しく、夕立が怒らなかった。


「先生は、流れ者の剣士でした。とても強いお方で、私も尊敬しています。けれど、彼は私を護って、あの男の餌食に……」


 夕立が誰のことを差しているのかは、一言で察しがついた。


(万晴だ)


 濃厚な西日を受けながら、凪は固唾を飲んだ。


 かつて夕立が語っていた、声を奪われた男というのは、恩師のことであるらしい。


(生き別れた兄の所業とはいえ、肩身が狭いぜ)


 凪はおそるおそる、夕立の顔を見た。


 夕立は仄かに眉をひそめてこそいたが、冷淡な無表情は変わらない。

 涙ひとつ流さないまま、


「そんなに気張った顔をしなくてもいいです。別に、凪くんを責めてるわけじゃないので」


 言って捨てた。


 それはもう、本当に師を慕っていたのかと疑わずにはいられないばかりの、冷たい落ち着きようだった。


「悲しくないのかい」


「悲しいですよ。でも、何があっても涙は流すなと、先生に教わってきたので」


 夕立は手入れを終えた刀を鞘に納めると、


「だから泣かないんです」


 と、鼻を鳴らした。


 なぜ、泣いてはならぬと師が教えたのかは、凪は聞かなかった。夕立のまとう陰鬱な雰囲気が、聞いてはならぬと脅していたからだ。



 *


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