第17話 棄てられた侍



 時は、二階から飛び出すわずかな瞬間へとさかのぼる。


「陽動作戦というわけですね」


 もうもうと立ち込める煙から口を護りながら、夕立が言った。


「その通り。人間大の塊が落ちてきたら、少なからず気はそれるだろ。その一瞬に飛び降りるってのはどうだい」


「じゃあ、布団を外に投げたら、私が先に降りましょう」


 夕立は自ら先陣を切るつもりだった。


「出てきた連中を、私がかたっぱしから殺していくので、凪くんはそのうちに降りてください」


「おいおい……皆殺しにする気かよ。しかも、大勢相手に女の子がひとりで……」


 気おくれした凪だったが、直後、左頬が鋭くはじけた。


 夕立が凪の頬を、平手でたたいたのである。


「痛っ」


 晴れた頬を押さえる凪に、夕立は冷え切った視線を落とした。


「嫌なら、ここで焼け死ねばよろしい」


 夕立の辞書に、情けとか容赦とかいう言葉はない。


 だが、正論だ。


 下の階にいる連中を殺し、火まで放つような相手なのだから、こちらが容赦したところで、相手がお情けをかけることはなかろう。かといって、二階に籠っていれば夕立の言葉通り、焼け死ぬしかない。


(やるしかないのか)


 凪はしぶしぶ、腹を決める。


 布団いっぱいに詰め込んだ塊を持ち上げるや、勢いよく障子窓の外へと放り投げた。



 *


「お前が大将かい」


 賊の中でも図抜けて大きい男と対峙する。


 筋骨隆々な肉体と、刻まれた傷の数が、その歴戦ぶりを物語っていた。


「ふ、ふ」


 暫時、目を剥いていた男が、ひそやかに笑声をしぼりだした。


「俺も落ちたものよ……斯様な幼稚な手に、まんまと掛かるとは」


 伏し目がちに笑っていた男が、瞼を上げた。


 瞳の奥では、爛々と殺気が煮えたぎっている。だが、憎悪ではない。どちらかといえば喜びに近い、奇怪な殺気だった。


「ただのガキじゃねえかと思っていたが、こいつは期待できる———なにしろ、最近の旅人は弱いのしかおらんのでなあ」


 悠々と語る男に、凪は背筋が痺れた。


 この男は、金品が目当て出たのではなく、やりがいのある戦いを求めている。どうやって凪を見つけたのかはさておき、この男は凪をあぶりだすために、一階にいた客や女将を殺したのだ。


「……!」


 男の背後で燃え盛る炎の中から、倒れ伏した女将の遺体が見える。


 危機感とともに、怒りも覚えた。


(なんてことをしやがる)


 炎の中で燃える遺体が、大阪で見た犠牲者の姿と重なった。その痛々しい、無残なさまが、凪の闘争心に怒りの火を灯した。


「……いいねえ、その眼差し。その彫り物のような体格。武者の出自か……お前のような男を待っていたのよ」


 夕立に斬られてゆく手下には目もくれず、男は下段に刀を構えている。


 応じて、凪も体を斜めに構えた。


 拳を強く握り、右を体の前へ、左を胸に寄せる。


「あいにく、刀は握ったことはないな。だが斬らねえ代わりに……いまからアンタを、この拳で殴るぜ」


「ほう、刀を相手に拳術か———」


 男が、素手の凪を侮る様子はない。


 それどころか、戦ったこともない相手に高揚しているふうでもあった。


「ならば来い。刀を相手にどこまで戦うかを、見せてみ……」


 言い終える前に、凪の小岩のような拳が、落ちていた丸太瓦礫を拾い上げた。


 男の脳天めがけて、横殴りに丸太を振りかぶる。


「拳しか使わないとは言ってないぜッ!」


 凪でさえ、生身の肉体では刀に不利だと分かっている。


 拳の使い時は、男の手から刀が離れた時だ。


「むんッ」


 男の刀が弧を描き、振りかざされた丸太を断ち切った。


「うお」


 上に振り上げられたはずの刃が、いつの間にか凪のほうへ矛先を変えている。


 銃弾のごとく突き出した刃先を、下にかがんでよける。だが、かがんだその瞬間には、刃の風が凪の足元へ下がっていた。


「わっ」


 たまらず跳躍して回避すると、宙で体をひねりながら後方へ下がった。


(あぶねえ……足がなくなるところだった)


 姿勢を低く構えながら、男とにらみ合った。


 男のほうはといえば、これっぽちも息を上げることなく、凪が襲い掛かってくるのを待っている。


「逃げるばかりだな……その体についてる筋肉は、ただの御飾りか?」


 男が揶揄する。


 だが、凪は攻めない。刃圏に入ればたちまち、あの素早い刀身に襲われるからだ。ゆえに、じっと距離を取って様子をうかがっていた。


「———笑止な」


 受けの姿勢を見せる凪に、男は吐き捨てるや、一糸乱れぬ動きで斬りかかった。


 縦横無尽に走る剣は、やはり早い。剣術を目の当たりにしたことのない凪にとっては、電光石火も同然の早業だ。


 これでは攻めるどころではない。よけるだけでも精いっぱいなのだ。


(待てよ)


 だが、守りに徹しているうちに、男の重心が右にばかり偏っているのが分かった。刀を振るときも、なるたけ左足に体重が乗らないよう動いている。


 よく見れば、左足にはひざの関節から足裏にかけて、棒と布で固定されている。足の腱が傷ついているのか、左足には不自由があると見えた。


(そこだ!)


 男の刃が下段から斬り上げられた刹那、凪の健全な足が、男の左足を払った。


「うぐ」


 うまく力が入らないのか、男が左足から崩れ落ちる。


 体勢を崩した男の手を思い切り蹴り上げると、刃こぼれの目立つ刀が宙を舞った。


「おのれ……」


 再び立ち上がろうとする男を見下ろし、凪は近くに突き刺さった刀を奪う。


「もう刀は握れない。諦めな」


 凪は言ってやる。


 殺す覚悟はできていたが、身体的に負傷があることを知ってしまうと、一方的に命を奪うのは気が引けた。


 相手に更生の余地があるならば———凪の頭には、いまだそのような甘い考えがある。


「これからは悪事を控えて生きるんだ。あんたは腕が立つから、きっとどこでも歓迎される」


「笑わせる!」


 絵にかいたような世迷言をほざく凪に、男は呵々と大笑した。


「もう侍など不要の時代よ———商才、農才、ツテのないものは賊に落ちるのみ……お前は考えが甘い」


「……」


「だが、金などどうでもよい……足の腱を失って幾数年ぶりか、激しく命を燃やせた……もう満足よ」


 刹那、安らかな笑顔とともに、男が刮目した。


「あっ!」


 凪はたまらず駆け寄った。


 男の口からは血が溢れている。半開きになった口腔より、根を絶たれた舌肉が滑り落ちた。


「……ッ」


 凪は絶句した。 


 男は舌を噛み切って死んだのだ。


 無関係の人間を殺し、自らの満足できる戦いのために仲間さえ捨てる男に違いはない。だが、戦なき世が、侍をここまで追い詰めるなど、考えもしなかった。


『これからは悪事を控えて———』


 自分で口にした言葉を、凪は後悔していた。


 悪事を働かないのも、人を殺さないのも、当たり前の正義だ。だが、悪事を働かなくては、生きられない人間がいるなど、考えたこともなかった。


 男は満足して死を選んだようだが、自害させたことが、凪の心に深い後味の悪さを残した。


「……」


 賊の手下をすべて斬り伏せた夕立が、すぐわきに立つのが見えた。


 凪は夕立の無事を確認すると、宿の犠牲者、そしてこの侍の無念を悼んで、そっと手を合わせた。



 *



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