第16話 盗賊の猪口座


 *


 江戸時代と聞いて、平穏な世を思い浮かべる人間は、後世にはいかほどいるだろう。


 乱世が集結し、江戸に移ったばかりの今世では、いまだ乱世の名残を残す坂東武者の数々が、そこら中にあふれていた。


 殺しを好むもの。

 争いを求めるもの。

 戦という仕事を失い、食うに困ったもの。

 侍の地位を剥奪されたもの。


 戦が終わったことで侍の役割も終わり、ついに、侍が大量解雇され、血気盛んな浪人どもが跳梁跋扈する時代がやってきた。


 かつては江戸の町にもそのような浪人どもが溢れ、そこら中に辻斬りや夜盗、はては火付けまでもが横行し、まさに凄まじい治安の悪さであったという。

 

 そしてまた、血を求める侍が、清州の町にもいる。


 名を『猪口座ちょこざ 伊十六いとろく』という。


「連中は出てきたか」


 手下に囁くと、首を横に振られた。


 伊十六は苛立つままに爪先を踏み鳴らすと、燃え盛る宿の二階を睨みつけた。


《腕っぷしの強い旅人が来る》


 ほんの二日ばかり前に聞いた、奇妙な旅人の話を思い出していた。


 ———侍から盗賊へと身を落とした伊十六は、仲間を引き連れて山狩りに走る毎日であった。数日前に捕まえた旅人が、この清州に来るという剛腕の若者について教えてくれた。まだ十六、十七ばかりの若造だが、背は高く精悍な顔立ちであるという。


 だが、そのことを教えた旅人は、ふと目を離したすきに消えてしまった。今思い出しても、まるで霞雲のような出来事だ。


(本当にいるのか)


 伊十六は半信半疑であった。


 そもそも、旅人ばかりを狙うのは、懐に金銭を抱えていることが多いからだ。そのうえ、相手に戦いの才覚があれば、伊十六の闘争心を満足させられる。


 時代に棄てられた侍の、行きついた末路だった。


 旅人の言葉どおり、長身で精悍な顔立ちの若者は見つけた。見つけ、泊っている宿に火を放ってみた。だが、肝心の若者が出てこない。


 腕っぷしが強いとは聞いたが、待てば待つほどに、旅人の証言に疑念を覚えた。


(死んでるんじゃないか)


 伊十六は半ば、諦めかけている。


 どうせ、金なら下の階にいた連中から奪い取った。若者の死が分かったら、さっさとこの火事場から立ち去るつもりだ。


「む」


 そのとき、燃え盛る障子窓が勢いよく大破した。

 火事による爆発ではない。大きな塊が、障子窓を突き破って落ちてきたのだ。


(あれは)


 黒煙をまとって落ちてきたのは、布団の塊だった。


 煙に耐えかねた若者が、布団をかぶって飛び出してきたのか———伊十六はそう判断した。


「出やがったぜ」


 下っ端たちを引き連れて、布団の塊へと駆け寄った。こぼれかけの刀を引っ提げて、意気揚々と接近した瞬間、


「あっ!」


 たまらず、声を上げた。


 布団をよく見てみれば、中にいるのは人ではない。襤褸の寝間着やら座布団やらが、人の背丈ぶんいっぱいに詰め込まれている。


 刹那、背後にいた手下が悲鳴を上げた。


「ぎゃっ」


 甲高い叫喚に、伊十六は振り返った。

 見れば、首を失った手下が血飛沫を上げ、自分めがけて倒れ込んでくる。


 手下の死骸を蹴り転がすと、その先には、小柄な女がいる。


「女……!?」


 唖然とした。


 まるで童女のような面立ちの女が、手下を次々に斬り伏せている。


「クソアマめッ」


 女ごときに手こずる手下と、女めがけて怒声を放つや、伊十六は抜刀する。


 刹那、大柄な影が伊十六の前を横切った。


(なに)


 振りかざしかけていた刀を下ろし、眼前の影に向かって正眼に構えた。

 六尺余りの長身に、穢れひとつない清き顔立ち———件の若者である。


「お前が大将かい」


 成熟した太い声で、若者がうなった。


 その手には、なんの得物も握られていない。


 *



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