第12話 眠れない君へ
*
岐阜から江戸に続く道のりは、思いのほか整っている。東海道を通っていけば、おのずと江戸につくであろう。
だが、それであっても、二日や三日程度でつくような道のりではなかった。
夕立の目の下には、浅いクマがある。
おとといの晩では暗くてわからなかったが、夕立は寝不足気味のようで、常に目を細めてはこすっている。
(眠れないのか)
凪は夕立の顔を覗き込みながら案ずる。
夕立は異様に警戒心が強い。
昨晩も、そのまた昨晩も、凪が眠る限界まで、一定の距離を取って様子をうかがっていた。そのうえ、凪が目を閉じると、わざわざ腕をつねってみて、睡眠の確認までしに来る。
そんな調子なら、寝不足になっても仕方あるまい。
「なあ、お夕さん。眠いなら言ってくれよ。おんぶするからさ」
「馬鹿にしてます?」
夕立は当然、家畜と同等の凪に甘えはしない。
「私は十五の時に死んでいます。体は当時のままですけど、天正時代の生まれですからね。少なくとも、あなたよりは年上ですよ」
天正といえば、戦乱時代のど真ん中ではないか。
なるほど、戦乱生まれであり年上の威信にかけて、十六前後の青臭い小僧には甘えないというわけだ。
(ずいぶんと、若く死んだな)
凪は前を歩く夕立の背中に、眉根をひそめた。
学のない凪でも、戦の世の恐ろしさは知っている。とくに、太閤秀吉が国の多くを取りまとめるまでは、そこかしこで侍が国を奪いあい、そのたびに多くの命が犠牲になった。
そんな時代に生まれれば、若くして死んだ命もあったことだろう。
「じゃあ、お夕さんは俺よりも、ずっと大変な時代で生きていたわけか。あんたはそんなに小さいのに、偉いな」
褒めたが、夕立は当然、なんの反応も示さない。
それどころか、
「私を褒めたってなにも出ませんよ」
皮肉ったらしく言ってのけた。
凪にしてみれば、何の見返りも求めていない。なぜなら、人を褒めるのは日常的なことだからだ。
目を開ければ物が見えるように、凪には人のいいところが見える。
だが、夕立にとっては、それを下心と取られたらしい。
「べつに、何もほしくはないぜ。思ったことを言っただけで」
「嘘をおっしゃい」
夕立は聞き入れない。
そっぽを向くと、勇み足で凪の前を歩いて行ってしまった。
(性格がねじくれ曲がってやがる)
凪は下唇を剥いて、夕立の背中を批判する。
疑り深いまではよいとして、物言いがよくない。どんな時であっても、夕立はまるで喧嘩腰だ。
いかに夕立が、凪の好みによくあっていて、その湾曲した性格さえ覆い隠すほどに可愛いと思われていても、限度がある。
「なあ、お夕さんよ。あんたはあんたで、相当につらい人生があったのかもしれんが、ちと棘を出しすぎだぜ。少しくらい、信じてくれたっていいじゃねえか」
「あなたを信じていい証拠がないので」
夕立は相も変わらず、つっぱっている。
凪の信用を証明するものはない。
だが、信用できないのに、夕立は凪の目的地へ同行してくれる。
これは奇妙な話だ。
「じゃあ、お夕さんはなぜ、信用できない俺についてくれるんだい」
聞いてみると、夕立が立ち止まった。
ほのかにクマの滲んだ眼で凪を睨みつけ、ふと、力なく息をついた。
「私があなたに噛みついたとき、髪を引っ張ってはがせば早かったでしょう。でも、あなたはそれをしなかった。だから、あなたはまだ無害なほうだと思っているんです」
「じゃあ、べつにそれほど警戒することないじゃねえか」
「あなたは、現時点で無害、といっているんです。いつかは害になるかもしれませんし、その時は殺すって、私言いましたよね?」
たしかに、言った。
凪だって鮮明に覚えている。
だが、このまま夕立の言うなりにしていれば、かえって夕立自身の寝不足がひどくなるのは、火を見るより明らかなことだ。
「仕方ねえな」
凪は夕立より一歩前へ躍り出ると、座り込んで腕を広げた。
「おいで」
誠意をもって声をかける。
「ふざけてます?」
夕立にはしかるに、断られた。
「私、さっきあなたのことを信用してない、といったばかりなんですけど」
「信用はしなくていい。でも、寝不足だけはだめだ。抱っこしてやるから、今のうちに寝てな」
凪は言うなり、桔梗が護身用に持たせてくれた小刀を、夕立に手渡した。
「俺が悪さをしようとしたら、これで刺してくれたって構わないぜ。あんたにとっちゃ十分にいい条件だろ」
夕立ひとりを寝かしつけるために、命を懸けた。
当の夕立はといえば、小刀の柄を握ったまま、静止している。陽光を孕む銀の刃をまじまじと眺め、凪の顔を交互に見やった。
『どうしようかな』
夕立の眼差しは、こう言っている。
疑わしげに視線を上下させると、柄を握った。
「———言っておきますけど、私は本気になったら容赦しませんからね」
「ああ、肝に銘じておくよ」
誠心誠意で頷くと、両腕を広げた。
おずおずと歩み寄った夕立の膝に手を回すと、そのまま子供を抱くように持ち上げる。
小柄とはいえ、成熟した少女の体は、子供のそれより重い。
だが、力持ちの凪にしてみれば微々たる変化でしかなく、
(女の子は軽いな)
命がかかっていてなお、愛しげな心持になった。
夕立はかつて死んだ身だったというが、いまは体に血が通っている。着物越しにも、暖かな少女の体温が伝わってきた。
まるで、大阪が火の海になる以前の———平穏に過ごしていた日の、子供らの体温に似ている。まだ幼い子らばかりで、凪がひとり抱き上げると、次から次にせがまれた。
「———」
遊女に教えてもらって、子供らに聞かせていた子守唄の曲調が、閉ざした口からこぼれる。
とんとんと肩を叩き、心音に合わせると、緊迫して早まる夕立の鼓動が穏やかになっていく。いぶかしげに睨み上げていた眼は、露骨に眠気を帯びた。
いくらか肩を叩くと、夕立は容易く眠りに落ちた。三日三晩も眠っていないのだから、疲弊がたまるのは当然である。
ようやく眠った少女に安堵の息をつくと、凪は夕立を背負い、軽い足取りで歩み進んでいった。
夏の盛る山道には、木漏れ日の柱が差し込んで行く先を示している。
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