第11話 夕立という女 ⑸
凪は追い詰められて、とっさに、夕立の後ろ髪へと手を伸ばした。
———が、髪に軽く触れたまま、静止した。
「……」
思い直す。
(女の子の髪を引っ張っていいのか)
いいや、いけない。
それだけは、男だからこそやってはならない。
髪は女の子の命だ。
それに、引っ張られれば痛い。
何より、髪に触れた時、夕立の体が大きく反応した。これは、怖いものが近づいた時の、獣の反応に似ている。
この手を怖がっているのは一目でわかった。
考えた末、凪は夕立の頭を優しくなでた。
「ごめん、怖いよな。こんな、デカい男にのしかかられて……。怖くないほうがおかしいよな……。でも、あの夫婦を殺さないでほしいんだ。頼むよ……」
懇願する。
夕立の気持ちになって、そのうえで穏やかな語調で頼みこんだ。
返事はない。
だが、体の震えは徐々に落ち着きを取り戻し、やがて、凪の腕を襲う歯圧が弱くなっていった。
「———あなたはどうしても、私の邪魔をしたいのですね……」
力尽きた声で、夕立が言った。
「私、お金ないんですよ。旅をするだけで、生きているだけで無一文になってしまうんです」
「仕事もなかったのかい」
「……お金を恵んでくれると言った男の人は、何人かおりましたけど」
「けど……?」
「みんな、私に体を売れと言いました」
それはこの世におけるごくありふれたことで、それでいて、残酷な回答が、凪の胸に突きささる。
凪ほど体格がよく、男であれば、その日の力仕事でも任せてもらえる。だが、こんな小さな女の子に、世間の人間はどんな仕事を任せるだろうか。
凪自身が、周囲を温かな人物に恵まれていただけあって、この少女を取り巻く、世の冷徹さに気が付いた。世界は自分が考えている以上に、『女の子』に厳しいのかもしない。
「なんでですかね。私、そんなに尻軽そうに見えますか?」
腕の下に包まれた、少女の声は力ない。
どんな女の子だって、金のために娼婦になれと言われたら、辛くて恥ずかしいだろう。凪の周囲に住んでいた遊女らも、かつてはそんな思いを抱えた少女だったかもしれない。
「いいや」
凪はすみやかに夕立の上から退くと、非暴力の意をもって膝をついた。
「俺はただ、あの夫婦を殺さないでほしいだけだ」
「なんでそこまで、あの夫婦にこだわるんですか」
「良心に誓って、当然のことだと判断したからだ」
強くて大きいものが、小さくて弱い、罪なきものを護るのは、人の世のもっとも正しいこと。それが通用しないのは、武士と獣だけだ。
もっとも、それができない人間も山ほどいるだろう。だが、せめて凪自身だけは、そのこの世の正しきことを守り抜きたいのだった。
「正義の味方にでもなったつもりですか。そういうことなら、大衆演劇の舞台にでも上がって、どうぞ好き勝手やってればいいでしょ」
夕立は立ち上がったが、刀を拾わぬまま吐き捨てた。
「私は自分の尊厳を守ることのできる範囲で、生き延び、なすべきことを成し遂げるのみ。そのためなら、何百人の妊婦でも、腹の子もろとも殺します。たとえ、あなたがいま止めようと、私を殺さない限りは止められませんよ」
夕立の思考は、なにひとつ変わらない。
そのまま静々と歩み進めると、落ちた刀を音もなく拾い上げた。
「じゃあ、さようなら。野盗の金銭は手に入ったので、今日のところはもういいです。あなたがしつこいので、あの夫婦は見逃してあげます」
「あ、待ってくれ!」
「なんですか」
しつこくつきまとう大男に、夕立が嫌悪の表情を滲ませる。
夕立を連れてゆかねば、万晴を倒せないと言われたことを、いま思い出した。
「俺と友達になってください」
夕立をどう誘うべきか、言葉に迷った末そう言った。
「は?」
案の定、嫌悪的な疑問の声が返ってきた。
「俺には、倒さなくちゃいけない男がいる。名前は万晴。だが、俺一人では勝てないと言われた。あんたに、一緒に来てほしいんだ」
「万晴……?」
夕立の目の色が変わる。
嫌悪から、すでに標的を定めた獣の眼差しとなった。
「あの男を知っているのですか」
やはり、瓜百姓の言っていた通り、万晴を探していることに違いはないらしい。
「俺の兄だ。———いや、ほとんど他人というか、兄に心臓を抜き取られて」
「だとすれば、あなた死んでるじゃないですか」
「だよな、そういうと思った……京にいる陰陽師に助けてもらって、今は生きてる。だが、ひと月の内に取り返さないと、俺は死ぬ」
「陰陽師……」
夕立の表情に、陰影が差した。同時に、水底の重圧にも似た、深く重苦しい殺気が沈む。
「その……《陰陽師の女》からは、何を聞いたのですか」
桔梗のことを言っているらしい。
いまにも抜刀せんばかりに、刀柄に手を置いている。それほどに、桔梗から聞かれては困ることがあるのか。
(いいや……聞かれちゃ困ることがあるんだろうな)
凪は夕立の立場に身を置いて考える。
『夕立も、あなたと同じように、蘇生に際して私が記憶を読み取りました。おそらく、彼女が怒ったのはそれが原因でしょう。……可哀想なことをしてしまいました』
凪を送り出す前に、桔梗が気まずそうに語っていた。
誰だって、自分の素性や過去を、奇怪な術で掘り起こされ、知られるのは気分が悪いものだ。凪には隠すべき恥も、秘め事もないからよいが、繊細な女の子にはそれがあるのだろう。
「何も聞いていない」
夕立の目をまっすぐに見つめて、心のままに即答した。
「桔梗さんは、あんたの過去を見て申し訳なかったと言っていた。そりゃあ、誰だって自分のことを知られるのは嫌なもんだ」
「……何が言いたいんですか」
「その話を聞いたからこそ、俺はあんたについて何も聞かなかった。なぜなら、許可なくあんたのすべてを知ろうとするのは、よくない事だからだ。俺だって、五つになるまで指をしゃぶってたことは、できるだけ人には知られたくないぜ」
「……」
「俺が聞いたことは、あんたがすごく頼りになるってことと、万晴を倒さなくちゃいけないことだけだ。だから、あんたを探しに来た」
本音を言ってしまえば、このような可憐な少女に、野蛮な旅の動向を頼むなどどうかしている。だが、凪には生き延びたい心があるし、そのためには夕立の協力が欠かせないと見た。
夕立からは、文句のひとつも飛んでこない。
その代わりに、
「ふう……」
と、安堵したように長大息をつくと、その場に座り込んだ。
「よかった……」
そう聞こえたような気がした。
顔を伏せていて夕立の顔は見えない。だが、その息遣いには底のない焦燥が滲み、その過去とやらがよほど人に露見したくないものであることを証明している。
「……あの女が私にしたことは許せません。でも、あなたはきっと本当のことを言っているでしょうから、信じます。私もちょうど、あなたの兄には野暮用がありますし」
「!……ということは」
「あなたについていってあげます。けれど、お友達にはなりません。私にとって害だと思えば、すぐに殺しますからね。その辺で飼われてる鳥のように」
夕立はあくまで、凪を家畜程度の生き物としか見ないつもりらしい。
だが、凪にはそれほど悲壮な心がなかった。夕立という心強い仲間ができたのだ。自分の生存に、また一歩近づいたと考えていいだろう。
「ありがとう!あの、夕立さん、でいいかな」
心より感謝した。
親愛のしるしに握手を求めたが、それは冷たく跳ねのけられてしまった。
「お夕、でいいですよ。でも『さん』はつけてくださいね」
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