第10話 夕立という女 ⑷


 ひょうと風を切るや、夕立の刃が飛んだ。


「っ」


 弧を描く一閃が走る前に、大きく一歩退く。

 外れた刃が凪の頬に届き、その表皮を切り裂いた。


「いたっ!」


 かっと頬が熱くなった。


 夕立の目が、慌てて逃げる夫婦をとらえるのが見える。

 とっさに、凪は夫婦に気を取られている夕立の胴へ抱き入った。


「!」


 大きな荷車でもぶつかったような衝撃で、驚愕の呼吸が夕立から聞こえる。


 瞬間、背中が鋭く冷える。真上に刀身の気配が迫っていた。


「うわ!」


 突き殺されかけて、凪はとっさに夕立を話して横へ飛びのいた。


 一寸たりともおくれていれば、せっかく桔梗が用意した心臓まで破壊されていただろう。


 体勢を崩しても、夕立の切り替えは早い。体当たりをされてもとっさに受け身を取り、すかさず上段から斬り込んだ。


(逃げてばかりじゃいられねえ)


 凪は夕立を止める覚悟を決めた。


 振りかざされた一撃めがけて両手を広げる。わずかな瞬間に見切った刃を、両手で挟み取った。


「うぐ」


 白刃取りができても、刃は体重を乗せている。このまま手をゆるめれば、きっと刃が凪の頭を二つにかち割るに違いない。


 力むあまり、手の甲に血の筋が浮かんだ。


「っ……」


 夕立の顔にも汗が伝う。


 体重を無理に乗せようとして、より一層顔が近づいた。


 命の危機が迫っているにもかかわらず、やはり、凪の頭には、


(やっぱり可愛いじゃないか)


 そう思いなおす心がある。


 桔梗は『印象の薄い顔』といっていたが、そんなことはない。こんな凶行に手を染めていなければ、ぜひお友達から始めたい素敵なお嬢さんだ。


「そんな顔をして……命乞いのセリフでも、考えてるんですかッ……?」


 みるみるうちに刃を重くして、夕立はせせら笑う。


 そのようなことは、考えてもいない。考えていたとしても、力んでいて声が出ない。


 ところが、どうしてかその時ばかりは口元が楽になって、


「いいや、あんたは綺麗だ!」


 勢いよく口が滑った。


「え……」


 刹那、夕立の刃から、ほんのわずかだけ力が抜ける。


 口が滑ったのに頭だけはさえていて、この瞬間を凪は見逃さない。すかさず、渾身の力で刃を横に押し、夕立の体ごと振り払った。


「きゃ!」


 とっさに体が横に払われ、夕立の手が刀を離す。すかさず刀を放り投げるや、凪は刀を取り返そうと走り出す夕立の襟をつかんだ。


 そのまま、体重をかけて上に覆いかぶさる。小さな手首を片手で縛り上げ、動きを封じた。


「っ……!!」


 夕立から、強く息を飲む音がする。重い打刀を軽々と扱う割に、腕っぷしでは凪の片腕さえ動かすことはできないらしい。


 凪はこのまま、夕立の体力が尽きるのを待った。


 が、


「いたたた!痛い!」


 凪はたまらず悲鳴を上げた。


 夕立が渾身の力で、凪の二の腕に噛みついている。肉を噛みちぎらんばかりの痛みに、涙が滲んだ。


(持っていかれる!)


 凪は二の腕の危機を案じて、より強く、腕に力を込めた。力んだ二の腕は筋肉が膨らみ、より頑強になる。


 それでも、夕立の歯が食い込むのが分かって、凪は呼吸が荒くなった。


(こうなったら)


 夕立の頭を引きはがすには、開いた手で後ろの髪をおもいきり引っ張るしかない。


 凪は追い詰められて、とっさに、夕立の後ろ髪へと手を伸ばした。




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