第5話:かりそめの心臓(1)
*
「目覚めましたか」
その声で、凪は目を覚ました。
「はあっ」
ようやく喉を通った息に、凪はたまらず目を剥く。
息を吸うたび、貧乏生活とは無縁の上品な香りが鼻を突く。金持ちの屋敷を通りかかると、たまに香ってくる臭いだ。
嗅ぎ慣れていない凪の鼻には合わず、考えるより先に鼻をつまんでしまった。
「おや。大阪の民は、香がお好きではありませんか」
凪の隣に座っている、上等な身なりの女が言った。
「すみません……俺、こういうの慣れていないんです」
「では、消しましょう」
女は優しい声で応えて香を折り、煙を放つ燃部に灰をかけてくれた。
「ありがとうございます」
反射的に礼を言った。
頭を下げた際、上裸になっている自分の胸が見えた。
万晴に引き裂かれ、心臓を抜かれたはずの傷口が、いつの間にか塞がっている。傷跡こそ残っているが、そこには糸で縫合した痕跡もなかった。
「あの、俺……これ、生きてるんですか」
「ええ、生きておりますとも」
絵物語の紳士のような狩衣をまとう女は、凪の傍らで慇懃に正座をしている。身なり、話し方、ともに高貴な身分の持ち主に見えた。
(誰なんだろう)
心に余裕が生まれて、ようやく、そのような疑問を考えつけるようになった。
「ここは、京の都ですか。だとすると、あなたは貴族のお姫様か……」
「ふふ」
凪が言い終える前に、狩衣の女が破顔した。
「まだ外も見ていないのに、ようお気づきになりましたね」
「———大阪の町は、きっともう焼け野原だ。でも、外からは煙の臭いがしないし、人の笑い声もする。だから、京の都だと思いました」
「おっしゃる通り、ここは京の都。そしてここは、わたくし
女は涼やかに言い滑ると、その手に包んだ桔梗の花を、ふう———と吹いた。
すると、たちまち桔梗の花弁が凪の身を包み、雑兵のような軽装に変わった。
「うわっ」
まるで夢幻のような奇術に、凪はたまらず布団から飛び上がる。
「こ、こりゃあ……」
「あなたの着物は、残念ながら戦火でぼろぼろになっておりましたので、新しく用意をいたしました。それとも、その恰好は気に入りません?」
「い、いやっ、贅沢は言わない。けど……」
凪は、紐のほどけた髪を触って、
「俺の髪を結んでた紐も、その……残ってないですかね」
おそるおそる聞いた。
「ございます」
女・桔梗からは嬉しい返事が返ってきた。
「ほ、本当ですか!」
「ええ。けれど、それも焼けてボロになっております」
「構いません。俺にください」
凪が訴えると、女は狩衣の袂から、焼け焦げた紐を取り出した。
女の白い手がなぞると、紐をむしばんでいた焦げ跡が消え、みるみるうちに元の姿を取り戻してゆく。
間違いない、凪の髪を結っていたものだ。
「っ……!」
凪は女から紐をもぎ取ると、強く強く、胸の中に抱きとめた。
『———兄ちゃん、髪が邪魔だろ。俺たちが紐作ってやるから』
貧しさゆえに、髪を結う紐さえ買えなかった。
それを知った子供たちが、互いの着物から糸を取り集め、より合わせて組み紐を作ってくれた。紐を組んで編めば、簡単には切れない強い紐になると。
(ちゃんと残った———着物も家も焼けたが、これだけは……)
せっかく桔梗がこしらえてくれた袴の上に、水紋が落ちた。
もう子供たちの命も、生前の面影も残らぬようになったのに、その心だけは紐の中にあるようで。
凪の胸には憎しみや悲しみをも凌駕する、深い慈愛が広がっていった。
「ふ……う、ぐっ……」
ようやく、口から嗚咽がこぼれる。
貧乏人でも、子供だけでも、生きていこうと決めていた。
兄の代わりとして、毎日伸びてゆく子供たちの成長が楽しみにしていた。
母はいなくても、近くの物乞いや娼婦たちが、母であり父だった。
それがみんな、戦火に焼けてしまったのに、まだ近くに彼らがいるようで、忘れられない。
「大切なものだったのですね」
見かねた桔梗が声をかけてくれた。
「……う」
「なんです?」
聞き取れなかった言葉に、桔梗がもういちど耳を傾ける。
凪は肩を震わせながら、唇をかみしめ、重い枷のかかった喉から声を絞り出した。
「……あり、が、とう……っ」
下を向いて泣いているから、女の顔は見えない。
だが、背中を優しく叩いた手から、人の熱が伝わってきた。
「なんと悲しく、それでいて温かな鼓動———かりそめの心臓でも、あなたの心が入れば、まるで本物のように動くのですね」
かりそめ。
その言葉に、凪は泣きっ面を上げた。
「かり、そめ……?」
問い返した凪には答えず、桔梗は穏やかな面差しのまま白湯を入れている。
「まずは体を温めてくださいませ。あなたは先ほどまで熱のない死体でございましたから……。まずはこれを飲んで、落ち着いてから全てをお話しします」
まだ立ち直れていない、凪の心境を案じてくれたのだろう。
桔梗の言うことに従って、凪は震える手で白湯を口に含む。温かい白湯が、じわりと体に染み込んでいった。
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