第4話:生還まで



『万晴』


 そういえば、まだ母が生きていた日に、その名を聞いたことがあった。


「いいこと、凪。万晴という男に会ってはなりませんよ。その男は、お前を見つければ必ず殺すでしょう」


 それは、死に際の母の口癖でもあった。


 母の話に聞く万晴という男の素性は、凄惨そのものだ。生まれた時から犬のように鋭い歯が生え、母の乳首を噛みちぎったという。そのせいか、母の右胸には乳首がついていなかった。


 必要以上の残虐を好み、自分を軽く噛んだ犬を、めった刺しにして殺したことがあるという。


 そんな万晴を恐れた母は、赤ん坊だった凪を護るために家を出た。


 母の口から、そう伝えられていたことを、死してようやく思い出した。


「凪にいちゃん」


 子供の声がした。


 眼を開けてみると、凪は川のなかに足を突っ込んでいる。周りは濃霧ばかりで何も見えない。だが、対岸では死んだはずの子供らが、そろって凪を見つめているのが視認できた。


「み、みんな……」


 そのとき初めて、凪の目に涙がたまった。


 みんなが生きていないことなど分かっている。対岸にいる子供たちのなかには、あの長屋の瓦礫の下で、生首になっているものもいた。ここは黄泉にちがいない。だから、子供たちが生きて立っているのだ。


 だが、同時に、対岸に彼らがいるという事実が、凪に誰も生き残っていないことを実感させた。


 きっと、死ぬ間際は怖かったことだろう。


 四肢が散らばっていたから、手足から先に斬られて、泣き叫んだ子もいるはずだ。


 対岸に立つ子供らの、血飛沫に濡れた着物を目の当たりにして、その凄惨ぶりに声も出なかった。


———助けてやれなくて、ごめんな。


 そう子供たちに詫びたかったのに、声が出なかった。


「にいちゃん」


 子供たちの口は開いていなかったが、温かい声が耳に滑り込んできた。


「生きて。あいつをやっつけて」


 ああ、やっつけてやる。


 凪は話せぬ代わりに、心で返した。


 あの男の魂が黄泉へ来るか……否、凪がもういちど蘇ることが叶うのなら、きっと、あの万晴という男を打倒してみせる。



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