第3話:大坂夏の陣 (※残酷描写あり)



 侍の手に握られた短刀が、そのまま凪の胸を下一文字に切り下げると、瞬く間に血が堰を切った。


「あ゛あっ!」


 たまらず、凪が悲鳴を上げて崩れ落ちた。


 六尺に届く長身が崩れると、侍の足先が懐に蹴りを入れる。


「凪よおー。さっきのは痛かったぞ。俺、けっこう貧弱なんだからさ、殴るにしたって手加減してほしいんだわ」


 侍は若者の声で言うなり、


「ええ!?」


 急に憤怒の声を上げ、凪のみぞおちへ爪先を沈めた。


「げほっ」


 咳き込む凪をそっちのけで、侍は乱れ打つように足を突き出してくる。


「このッ、図体だけのッ、デカブツがッ!よくもッ、よくもこの俺をッ!実の兄を殴ったなッ!取るに足らない弟の分際でッ!」


 蹴り続ける侍の顔が、下にいる凪からは鮮明に見えた。


(母さん!)


 一瞬、凪は驚愕のあまり、蹴られる痛みを忘れた。


 立っているときは、侍のかぶっている笠で顔がよく見えなかった。


 だが、下から見上げた先には、母と瓜二つの顔が怒り狂っている。


 その面立ちが、先ほどからこの男が口走っている、兄だ弟だという意味の分からない言葉に真実味を持たせた。


 だが、それを聞くことが敵わない。胸を斬られた時に、血を大量に失った。殴りつけたくても、腕が動かない。


 みるみるうちに四肢が冷たくなっていくのが分かって、心底から震え上がった。


「はあ、はあ……」


 存分に凪を蹴り終えると、男はいまいちど凪の胸に刃を入れた。


「っ……」


 失血のあまり痛みを感じない。


 だが、冷たい刃が心の蔵の傍らまで滑り込んでくるのが分かる。


 気持ちが悪い。


 胸を裂く刃は、そのまま心の蔵の付根を絶った。男が血の零れる胸に手を突っ込み、その心の蔵を掴み上げる。


「俺さあ、生まれた時から心臓が弱かったんだよな。武家の生まれなのに、満足に走れもしなくてさ。ははっ、そりゃ苦しかったよ。おかしいよな。俺は長男で、一番偉いのに」


 男は人が変わったように、暖かで軽快な語調になった。


「ところがどうだ。丈夫に生まれたのは弟のお前。体がデカいのも、犬に鳴かれないのも、母親が家から逃げるときに連れて行ったのも、弟のお前」


 男は母に似て優しげな面立ちのまま告げると、凪の心臓に噛みついた。


「っ……!!」


 すでに絶命していてもおかしくないのに、凪にはまだ意識がある。


 その視線の先で、男が凪の心臓にかぶりつき、血をすすり、咀嚼している。


 筆舌しがたい壮絶な光景であった。


「だから俺さ、ずっとほしかったんだわ。お前の丈夫な心臓が」


 血の滴る口を吊り上げて、男は言う。


「ありがとう!お兄ちゃん、お前の分まで精いっぱい生きるわ!」


 男の笑顔は、まるで絵にかいた青少年だ。


 晴天の下で、仲間たちと元気に野を駆け回る、心の澄み渡った青少年の模範そのものだ。


 これほどの邪悪な魂を持っていながら、なんとまぶしい笑顔なのだろう。


 その心と顔の矛盾ぶりに、凪の意識は遠のいた。


 これほどに恐ろしい兄など、凪の記憶にはいない。


「お、まえ、誰だ……」


 最後の力を振り絞って、凪が問うた。


 男は快活な微笑みとともに、


万晴ばんじょう


 と、なんのためらいもなく名乗った。


(万、晴……)


 その名を唱え、心に刻んだまま、凪は息絶える。


 業火の風に乗り、大阪じゅうに響き渡る阿鼻叫喚が天へと昇っていった。



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