第2話:大坂夏の陣 (※残酷描写あり)





 天泣てんきゅう———。


 それはまさしく、空の泣くが如き悲鳴の嵐だった。


 昨日までにぎわっていた大阪の町は、たちまち侍の草鞋に踏み荒らされ、そこかしこで殺し、犯しの陰惨な宴が繰り広げられた。


 大坂夏の陣———。


 徳川対豊臣による冬からの戦が長引き、ついには翌年の夏まで続いた。ほとんど敗北も同然で追い詰められた豊臣軍が、大阪城まで退却したことによって、徳川軍の軍兵も大阪へと招かれる結果となった。


 城を攻め落とすために攻め込んだ軍兵のなかには当然、目先の利ばかりを狙う悪党どももいる。城下では殺しから強姦、果ては強盗に人さらいと、まさに地獄の如き凄惨ぶりであったという。


 男女のへだてなく

 老いたる(老人)もみどりご(赤子)も

 目のあたりにて刺し殺し


 その光景を目の当たりにした者が書き残した手記には、そうある。男女どころか、年寄りや赤子まで高笑いとともに殺してゆくさまの、なんと無慈悲なことか。


 大坂夏の陣の直後に、人身売買における奴隷の相場が数千円程度に落ち、そこかしこに奴隷が溢れたことから、いかに多くの人が、この戦で奪われていったかが容易に想像できる。


 多くの民が大阪の外へと逃げ散ってゆくなか、凪だけは町の中をひたすらに突き進んでいく。目の合った兵士を殴り倒し、倒れた兵どもを踏みつけながら、育った長屋へと一目散に駆け抜けていった。


「あっ!」


 ようやっとたどり着いた凪は、悲鳴混じりの声をあげた。


「なぎ……」


 まさしくその瞬間、凪へ駆け寄ろうとした子供が、背中からざっくりと斬り下げられた。そこかしこに人の四肢や臓物の散る長屋小路に、最後まで生き残っていた子供の死体が倒れる。


 否、その長屋小路でさえ、打ち壊されて見る影もない。瓦礫となった平地のあちこちが血に濡れ、その光景が、もう住人の誰ひとり生き残っていないことを物語っている。


———ああ、これは生きていない……。


 凪でさえ、一切の希望も見いだせなくなるまでに、瓦礫とともに散らばる肉片の量は異様に多かった。


 そして、凪の腹の底には、爆発のような憎悪が次々と湧き上がってきた。


「まだ生き残りがいやがったぞ」


 長屋のあった瓦礫の上へ、ぞろぞろと侍が集まってくる。侍の影が、怨嗟に燃える凪の周りを囲んだ。


「そうか、てめえら……」


 凪の怒りは、とうに殺意へと変わっている。だが、それは異様に静かな殺意であった。まるでタカが、低い位置を滑空する鳥を狙うように、ゆっくりと確実に侍の数を数えた。


 そして、


「八人……ちょうど、全員で八人だ」


 呟いた。


 この小僧は何を数えているのか———怪訝な顔をしたその瞬間にも、侍の脳天には、鋼の拳が食い込んでいた。


「ぎゃっ!!」


 侍の一角が悲鳴を上げた。


 鎧の亀裂から脳漿をまき散らし、頭が砕けたのを実感するまでもなく倒れ伏した。


 侍どもには何が起こったのかが理解できない。鉄鋼も付けていない拳が、甲冑を突き破って頭蓋を砕くなど夢にも思わなかったからだ。


 凪の拳から滴る脳の汁を目の前にして、ようやく、その殺意の矛先に自身らがいることを悟った。


「き、斬れ!斬れッ!」


 怒号が上がる。


 子供らの着物や、女の髪の絡まった凶刃が襲い掛かった。


 だが、縦横無尽に襲い来る斬撃が、凪には当たらない。凪自身でさえ驚くほどに、雑兵の動くさまが見えていた。次の動きから、その隙まで。


 丈の外れた殺意は、本人でさえ気が付かないうちに、潜在的な、大柄であるがゆえの戦闘の才覚を引き出しているのだった。


 侍の首を軽くひねると、簡単に骨が折れた。腕を殴ると、まるで枯れ木のように腕がへしまがった。捨てられていた斧を持ち上げてみると、それは羽のように軽く、振りかざせばまるで脂のように、侍の胴がいともたやすく泣き別れた。


「ひっ」


 残っていた侍の口が、悲鳴をかみ殺した。


 あれほど威勢よく襲い掛かった侍のほとんどが、瓦礫の上で肉片となっている。


 凪と対峙したその瞳に、鮮烈な恐怖が浮かんだ。


「た、たすッ、助けてくれッ!」


 ありきたりな命乞いを吐いて、貧乏人の前に深々と頭を垂れた。


「む、無理やり、あの連中に強いられてやったことなのだ!どうかッ、どうかッ……!」


 涙汗の混ざった顔は、平伏していて見えない。ただ、まるで仏にでも乞うように、侍が手を合わせているのが見えた。


「命をもって詫びる……だからどうか……一瞬で死を、どうか……」


 この侍たちに、何の罪もない家族が殺されていてなお、凪はその平伏した姿に胸を打たれた。凪は性根が甘くできた男であった。


 思い直して、殺した侍の首数を数えてみると、死んだ子供らの人数と一致していた。凪はたったそれだけでも納得し、急に心の余裕が生まれて、


(仇は討った。もう十分じゃないか)


 あろうことか、男に憐れみを覚えた。


「おっかあ……」


 侍が涙ながらに呟いた、神にもすがるような弱者の言葉に、凪の心は変わった。


 この男にも、きっと凪と同じように、心に想う家族がいるに違いない。母を、家族を愛しているのは、この男とて変わらないはずだ。本当に無理強いされていたなら、ここで殺すのは間違いではないか。


 だが、同時に、


(無抵抗なガキを殺して命乞いかよ)


 ふつふつと、思い出したように憎しみが湧いてきた。家族を殺されたからではない。誰であろうと、自分より圧倒的に弱く、戦う意思のないものを虐げることは許せないのだ。


「立ちな」


 凪は侍を立たせると、その頬めがけて平手打ちをした。二度、三度と殴りつけて、そのまま瓦礫の上へと放り投げた。


「今のは……俺の怒りの分だぜ」


 言い捨てるや、凪は侍に背中を向けた。これ以上、憎しみに身をゆだねないよう、侍を追いかけないで済むように、侍の逃げ去る姿は見たくなかったからだ。


「俺はこれ以上、あんたを追いかけない……。分かったら、さっさと行っちまえ」


 良心と憎悪の葛藤のなかで、凪は鋭く言葉を放つ。


 侍からの言葉はなかったが、しばらくすると嗚咽が混ざってきて、


「ありがとう、ありがとう……」


 と、足音が近づいてきた。


「俺はこんなにひどいことをしたのに、助けてもらえるなんて申し訳ない……せめてもの詫びとして、これを受け取ってほしい……」


「だから、そんなのいいって———」


 急にうっとうしくなった侍に、文句のひとつでも言ってやろうとして、凪は絶句した。


「か……はっ……!」


 うまく息が吸えない。


 胸が熱い。まるで焼け炭を押し当てられているようだ。


「おっと、ごめん!手が滑ったわ!」


 侍の声がまるで別人の、役者が演じていたように、急に快活で軽やかになった。


 凪の胸から侍の手にかけて、刀身を伝った血が流れ出てくる。



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