第3話 否定と肯定
ある泥棒の話
そこには何もなかった。白い。ただ白い空間が広がっていた。
「ここは」
周囲を見渡して、身体が硬直する。
「は?」
そこにいたのは黒猫だった。意識を失うまで見ていたしゃべる黒猫――泥棒猫と佐々木が呼んでいたもの。けれど、明らかに先程までとは違うところが一つ。……大きかった。俺なんかよりもはるかに。まるで映画に出て来る巨大生物みたいな猫がそこにはいた。
「寄こせよ」
その猫が口を開け、人間の言葉を口にした。瞬間、猫の前足はすでに俺の頭上。そのまま俺を踏みつぶさんばかりに前足が振り下ろされる。
「あっぶね」
反射的に避ける。しかしバランスを崩して身体は地面に倒れた。猫はすでに俺に狙いを定めていた。猫の爪が光る。
――死ぬ。
その単純な予感が脳裏をよぎった。潰される肉体、飛び散る臓器、広がる赤い液体。そんな想像が頭の中を一瞬で駆け巡り、反射的に目をつむった。
……痛みはない。天国にでも来たのだろうか。……ほんのわずかでもそんな想像をしたことに笑いが出る。まさか自分が天国に行けるとでも思っていたのだろうか? あり得ないだろ。
カチ、カチと機械的な音が聞こえる。少しして音の正体に思い当った。これは、時計の音か?
恐る恐る目を開ける。そこには見覚えのある景色が広がっていた。少し背の高いダイニングテーブル、クッションの置かれた黒いソファー、それなりに大きなテレビ。俺の家だ。いや、正確に言えば俺が子供の頃を過ごした家だ。
洗濯機の音と時計の針が進む音だけが聞こえる。二音が混ざり合い不協和音じみている。視界には猫はいない。どこにいった?
猫を探そうと振り返る。しかし見つかったのは猫ではなかった。
「なんで」
そこには両親が立っていた。どちらも無表情で虚空を見つめている。
「二人とも、どうして」
「ミンナニ評価サレル人間ニ」
「え?」
父が口を開く。すると母も続けて言葉を発した。
「ミンナ、デキテイル事ヨ」
無機質な声だった。ロボットがしゃべってるみたいで、不気味だ。思わず後ずさる。けれど、すぐに父が間合いを詰めてきた。胸ぐらをつかまれる。
「シッパイ作」
「……くっ」
気付けば隣に母がいる。
「出来損ナイ」
「なん、だよ」
「ミンナカラ、評価ヲ、受ケナケレバ」
「評価サレナケレバ」
頭が痛い。割れるみたいに、痛い。
「ミンナ見テイル」
「ミンナ聞イテイル」
うるさい。うるさい!
「ミンナガ評価スレバ」
「良イ人間」
「ミンナガ評価シナケレバ」
「悪イ人間」
「ダカラ」
「オ前ハ」
「シッパイ作」
「出来損ナイ」
……そうだ。そうだった。俺は誰にも勝るものを持っていなくて、誰からも評価されなくて。だから、価値のない人間だった。テストでは平均点を下回ってばかりだった。体育では足を引っ張ってしかいなかった。俺の思春期は、自分の価値を突きつける拳銃だった。
「なんで」
なんで俺は、そんな人間なのだろう。失敗作で、出来損ないなのだろう。嫌だ。こんなの、あんまりだ。どうして俺みたいな人間を神様は造ったのだ。
……何にもない。俺には何もない。空っぽだ。人に誇れるもの一つ持っていない。
「ミンナカラ評価サレナケレバ、人間ニ価値ハナイ」
父が言う。
そう言えば、昔もそんなことを言われた気がする。初めて言われた時は反抗していた気がする。……あれ? 何て言って反抗した? 思い出せない。何だっけ。頭の中で父の言葉を繰り返す。「みんなから評価されなければ、人間に価値はない」。みんなから評価されなければ。みんなから……みんな?
「あ」
そうだ。思い出した。
――みんなって誰?
ムカついた俺は、父にそう言ったのだ。みんなって誰だよ。誰が見ている? 誰が評価する? そう言って父にたて突いた。ずっと、ずっと忘れていた。
両親の形をした何かを突き飛ばす。
「『みんな』なんて人間、俺は知らない」
その瞬間、見慣れた景色はガラスみたいに割れた。そして見えるのは、あの白い空間。巨大な猫がいる場所。
そう言えば佐々木は何と言っていた? 確か「欲望と向き合う」だったか。……そうか、やっと意味が分かった。そういうことか。
俺は泥棒猫に向かって走った。猫の前足が飛び掛かってくる。それを避けながら猫に近づいた。
「寄こせ! 俺に寄こせ!」
猫がそう叫びながら俺を襲ってくる。
「何がそんなに欲しいんだ?」
俺の声が届く範囲まで来て、猫にそう言い放った。泥棒猫の動きが止まる。
「何?」
「だから、何が欲しいんだよ」
猫は沈黙している。
「分からないなら、俺は何もあげれないぞ」
「う、うるさい!」
また前足で攻撃される。来るのが分かっていれば、案外簡単に避けられる。
「と言うか、たぶん俺はお前が欲しいもの、持ってないぞ?」
「何だと?」
「お前さあ、みんなから評価されるものが欲しいんだよな?」
そう、それが俺の欲望の根源。みんなに評価される何か。それを持たない俺は、持つ人間がうらやましくて仕方なかった。欲しかった。俺もそんな何かが。そしてその欲望は物理的に何かを盗むことに転化した。
「でも俺は、何もない。みんなから評価されるものなんて一つも持ってない」
みんなに評価されたかった。そうでなければ無価値だと思っていたから。
「なあ、みんなって誰だろうな?」
そんな人間、存在しているのか?
「わからない」
猫の声は、消え入りそうだった。
「そうだよ、わかんねえよ。だって初めから存在しないからな、そんな奴」
「はあ?」
「誰に評価されたいんだ? お前は」
「……みんな」
「だから、そんな奴はいない」
「じゃあ! 誰が俺の価値を決めるんだ!」
「知らん!」
「何だよ、それ」
「自分の価値なんて誰に決められるものでもないだろ」
みんなに評価されたかった。みんなが自分の価値を決めると思っていたから。でも、違った。
「自分の価値くらい、自分で決めろ。そうするしかないんだよ。誰に勝るもの一つ持ってなくても、誇れるものがなくても、空っぽな人間でも、どんなに無価値な自分でも、それでも価値はあるんだって言ってみろよ!」
だからもう、何かを欲しがる必要なんてない。
「俺はお前を――否定する!」
猫が目を見開く。一瞬だった。その一瞬で猫は形をなくして、灰になって、その灰すらどこかへ消える。
「これで……良いのか?」
わからない。しかしそんなことを考えている暇はなかった。足元がグラつく。バランスを保とうとしている間に床が崩れ始めた。下に見えるのは虚空。このままでは落ちる。
どうすれば良い? 周囲を探る。何か、何かないか。
「……扉?」
何もない場所に、扉だけが立っている。正解かどうかなんて考える時間はない。
走った。ひたすらに走る。どんどん床は崩れ去り、虚空が背後に迫ってくる。焦って足がふらついた。……このままだと、追いつかれる!
そして虚空は、すべてを飲み込んだ。
ある女子高生の話
「なんで、あんた」
目の前にかつての親友が立っている。蓑崎美冬。暗くて、どこにでもいそうな、でも圧倒的な才能を有した女の子。
「そりゃあ、これは君の世界だし」
そうか。これは夢だった。だったら美冬がいてもおかしくない。
「じゃあなんで、他の奴らみたいに襲ってこないの?」
「知らないわよ。君がそうして欲しいならするけど?」
「いや、欲しくない欲しくない。絶対ヤダ」
「そ」
すると美冬は机に向き直り、本を開いて読書を始めた。沈黙が教室に降りる。不思議な沈黙だった。さっきまで追われていたとは思えないほどの静寂。でも不思議と嫌ではない。そう言えば、昔も美冬と何をすることなく時間を無駄にしていた。美冬は本を読んで、私はスマホを見て。全く別々のことをしていたけど。それでも時間だけは共有していた。
「いつまでそこにいるの?」
美冬の声で思考が途切れる。
「鬱陶しいんだけど」
そうだった。蓑崎美冬はそういう人間だった。周りを顧みず、自分のことばかり優先する。だから周囲の人間からは評価されない。
「別に、良いじゃない」
すると美冬がいたずらっぽく笑った。
「君、私に言いたいことがあるんだろ?」
「はあ?」
「あるんだろ? 私にはわかる」
なんだ、その物言いは。無性に腹が立った。
「別に」
「本当に? 何でも良いよ。言ってごらん」
……ああ、そこまで言うなら言ってやろう。昔から言いたいことは山ほどあった。
息を大きく吸い込む。
「美冬は何でそんななの?」
「そんな?」
「周りの目を気にしないの?」
すると彼女は「うーん」と首をひねる。
「気にしてないかな?」
「気にしてないよ!」
嘘でしょ? 自覚がないの?
「例えば?」
「カラオケに誘われても行かないし」
「歌苦手なんだよ」
「ハンバーガー屋にも行かない」
「健康に悪いじゃん」
「陰口にも参加しないし」
「陰口は良くないよ。陰口は」
「文化祭の打ち上げも」
「みんなで何かするの苦手なんだよね」
……いやいや。
「気にしてないじゃん!」
「そうなのかな?」
「そうだよ!」
「そうか。そうだったのか」
あれ? この会話、前にもしたことあるような。
「どうして、そんなことができるの?」
「知らないよ。私は好きなように生きているだけ。むしろ私が聞きたいね。どうして君はそんなに周りのことを気にできるんだい?」
……考えたことがなかった。でも、答えは明白だろう。
「みんなから評価されないじゃん」
「評価?」
どこか馬鹿にしたような、上ずった美冬の声。腹が立つ。
「そうだよ。だから美冬は県大会行けなかったんじゃん!」
「でも私は市の楽団に入って良いところまで行ったよ?」
「……は?」
市の、楽団?
「なかなか居心地が良い場所だったよ。不干渉って感じで」
いやいや。
「し、知らないわよ! そんなこと! ここは私の世界なんでしょ? なんで知らない情報が出てくるのよ!」
「さあ? 小耳にでも挟んでたんじゃない? 覚えてないだけで」
なんでこいつは、蓑崎美冬はそんな態度でいられるのだ。私は耐えられない。
「でも、ハブられるじゃん。みんなのこと蔑ろにしたら」
「ハブられたくないの?」
「当たり前でしょ?」
「そんなにその人のことが好きなの?」
言われて、考える。パッと思いつく人物を羅列する。……うん、別に好きじゃない。
「でも、ハブられたらみじめだよ」
「私はみじめだった?」
美冬が両手を広げて肩をすくめた。まさか、みじめなわけがない。こんな飄々としている人間がみじめなものか。
「みじめでは、ないけど」
「じゃあ良いじゃん」
軽い。美冬の言葉はあまりにも軽い。何だか馬鹿らしくなってくる。
「でも、みんなは勝手に評価するじゃん。怖いよ」
「あー、わかる。怖いし逃げちゃおう」
ぽつ、ぽつ、と口から勝手に言葉が漏れる。いつかしたはずの会話は、気付くと全く別のものになっていた。ずっとひた隠しにしてきた本心がこぼれる。
「私がいないところで、私の話をしてるかも」
「あ、してたしてた。でも君には聞こえないし、気にしなければ?」
「勝手にレッテルを張ってくるし」
「張られないように、関わらないが吉だね」
「みんな私を値踏みしてる」
「そりゃあ関わる相手は有益な方が良いからね。君もそうしたら?」
そうやって、美冬はすべてを否定した。私が周りを気にする理由の、そのすべてを。
「むしろ私は感心したよ。君がそんなに気配りできる人間だなんて。私は息苦しくて絶対無理」
「美冬は、自由だね」
「そう? まあ君に比べればね。でも楽だよ? 自分を押し殺すよりはさ」
私は自分を押し殺していたのだろうか。そんな自覚はなかった。けれど、美冬にはそう見えていたのだろうか。
「でも、みんなから逃げて良いのかな?」
これがきっと、最後の疑問だった。美冬は本から完全に手を放し、椅子から立ち上がる。
「逃げるのが良い事か悪い事かなんて、場合によるでしょ」
「場合?」
「わからないってことだよ。わからないから、考えても仕方がない」
「無責任だよ」
「誰に対しての責任? 無責任かどうかは知らないけど、わからないことに直面したとき私たちにできることは限られている。……信じた方向に進むこと。そうすれば少なくとも自分に対しては、責任を持てるんじゃない?」
ああ、美冬が言いそうなことだ。彼女はよくわからない理屈をこねて私を煙に巻くのが好きだった。
「君はどうしたいの?」
美冬が尋ねる。
私は。
「見られたくない。レッテルを貼られたくない。私は……私を殺したくない!」
「良いんじゃない? ……知らないけどさ」
最後まで美冬は彼女らしく、皮肉めいた表情で消えて行った。
崩れ去る。すべてが崩れ去っていく。黒板も、教卓も、机も椅子も。そして残ったのはただの黒い空間だった。あのカメレオンがいる場所だった。
「見るな」
カメレオンは私を見ていた。
「わかるよ」
だって、それは私だから。その欲望は私のものだから。だから、私は否定しない。その欲望を殺さない。私はもう、私を殺したりしない。
「見られたくなんてないよ。それは社会では通用しない感情かもしれない。隠さないといけないのかもしれない。どうしようもない事なのかもしれない。でも、だから何? だから捨てるの? 無理だよ。その感情は私のものだもん」
カメレオンは返事をしない。
「返して。……それは、私のもの。私は君を――否定しない!」
カメレオンが溶けていく。爬虫類の形を捨てて、そして光になって私の胸にまっすぐ向かってきた。……暖かい。暖かい何かが身体を包む。そして意識は、ゆっくりと消えていった。
「まさか自分のものにするとは思わなかったわ」
目を開けるやいなや、佐々木さんがそう語りかけてきた。
「え?」
「とても、とても危険な方法よ。だから、否定するように言ったのに……」
「ご、ごめんなさい」
何を言っているのかわからなかったが、とりあえず頭を下げた。
「……ううん。謝ることじゃないの。それより」
佐々木さんが顔を近づける。何事かと思うと「うごかないで」と私の目を覗き込んだ。
「……怪異の残滓があるわね。まあ、ある意味メリットだけど」
「あの、すみません。どういうことですか?」
佐々木さんはソファーに腰かけ、優しく微笑んだ。
「あなたは今後、自分の意思で姿を消せるかもしれない。……初めてのケースよ。あなたは……変わらないことを決めたのね」
「はあ」
「まあ、とりあえず安心して。あなたはもう、透明じゃない」
じゃあ、治ったんだ! これで帰れるんだ!
「あ、ありがとうございます!」
「良いのよ。ほら、私も怪異現象研究家とかやってたら白い眼で見られるからさ。あなたみたいな子を見るとついおせっかい焼きたくなるの。だから気にしないで? 早く帰りなさい。お家の方が心配するわ」
窓を見るとすでに空は赤く染まっていた。急いで立ち上がり、また佐々木さんにお礼を言う。
「本当に、ありがとうございました」
玄関扉を開けて、ふと手を止める。
「あの」
「何?」
「またここに、来ても良いですか?」
なんで、こんなことを言ったのだろう。わからない。でも――
「もちろんよ」
佐々木さんがそう言ってくれたことで、そんな疑問はどこかに行った。
外に出る。
妙な解放感が胸にあった。もう良いや、と笑いそうだった。使い走りになるのはもうやめよう。猫ちゃん呼ばわりもやめてもらおう。面倒な関係は断ち切ろう。
きっと私はクラスでの立ち位置を失ってしまうのだろう。でも、良い。もうそんなことはどうでも良い。とりあえず、コンタクトはやめて眼鏡にしよう。コンタクトを付けるの、一々面倒だったんだよね。
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