第2話 B
B
「昨夜、クローン居住区から一体の人クローンが脱走しました。実験管理者の指揮の下、捜索が続けられています」
ニュース番組の無機質な声を聞きながら、私は朝食を取っていた。テレビ画面の左上には六時五分と表示されている。
「あらぁ、大変」
テーブルの向かいで私と同じ朝食――チョコレートを塗った食パンとコーヒー――を取るおばあちゃんが何の気なしに呟く。おばあちゃんはどんなニュースを見てもたいてい「あらぁ、大変」と言うのだ。
いつも通り、会話は弾まない。
「ごちそうさま」
そう言って席を立ち、食器を流しに持って行く。ぽつ、ぽつ、と妙な音が聞こえると思えば、蛇口から水滴が垂れていた。小気味いい音を奏でながら、同じような形をした水滴がいくつも流しに打ち付けられている。
それに気づいて蛇口を固くしめておいた。
「おばあちゃん、蛇口。少し開いてたよ」
「え? ああ、ごめんね。ありがとう」
「うん」
素っ気なく返事をして、洗面台へ向かう。歯を磨いて、顔を洗い、髪を整えて、制服に着替え、荷物をまとめる。この朝の流れはいつも変わらない。
「行ってきます」
一応リビングにいるおばあちゃんに声をかけてからドアノブを握る。するとおばあちゃんはドタバタとこちらへ駆けてきた。
「いってらっしゃい」
「……うん。行ってきます」
「あ!」
ドアノブをひねり扉が少し開いたところだった。その呼び止めるような声に、身体が反応する。
「……何?」
「良かったら、あの子の――お母さんのネックレスを」
「いらない」
即答して扉を大きく開く。そのまま外に出ようとすると、急に肩をつかまれた。
「――え?」
「お願い」
おばあちゃんがしわくちゃの顔を向けながら言う。
「持って行ってあげて」
半ば押し付けられるような形で母の形見、ネックレスを握らされた。怒りよりは、困惑の方が大きかった。なんで? なんでそんなに、思い出させようとするの? もう忘れたいのに。記憶を消し去ってしまいたいのに。
「やっほ! 翔子ちゃん!」
生暖かい風が吹く中、学校への道のりを歩いていると後ろから肩を叩かれる。うんざりする気持ちを抑えながら振り返るとソフトボール部の部長、陣内先輩がニコニコしながら私を見つめていた。
「……おはようございます。先輩」
「テンション低いなぁ」
「おかげさまで」
正直、いい加減にしてほしい。どうしてそこまで私をソフト部に入れることに固執するのだろうか?
「良いじゃーん。お願いだよぉ」
「甘ったるい声を出さないでください。私はもうソフトやめたんで」
頬を膨らませる陣内先輩を無視して学校へ急ぐ。しかし先輩もすぐに私の後を追ってくる。当然だ。同じ学校なのだから。ため息を吐きたい気分だった。
「あれ? ネックレス?」
目ざといな、この人。
「ええ、まあ」
「へー。似合ってるね!」
「……どうも」
そんな風に時折会話を続けて歩いていたが唐突に先輩の足が止まる。どうしたのかと思い振り返ると、先輩はある一点を見つめているようだった。先輩の視線の先に目を向ける。そこには一人の女の子が立っていた。
先輩は女の子の下へ駆け寄り、しゃがんで視線を合わせる。
「どうしたの?」
ああ、と思う。やはり私は先輩が嫌いだ。
「あそこ」
女の子が傍に立つ一本の樹木を指さした。桜の花も散りきったその枝に一匹の猫がしがみついている。きっと降りられなくなったのだろう。
「あー、あの猫。またか」
猫のいる場所はそれなりに高く、背の高い陣内先輩でも届きそうにない。
「死んじゃわない? 大丈夫?」
女の子が泣きそうな目をして尋ねる。それを見た先輩は「よし!」と立ち上がり女の子の頭を撫でた。
「助けてあげる」
「本当?」
女の子の顔が輝き、それを見た先輩も笑った。
なんて無責任な約束だろう。二人の顔を見て静かにそう思う。
そこら中に監視カメラがあるのだから、そのうち誰か来るだろうに。しかし言っても無駄な気がして、私は最近いっそう数を増やした監視カメラから視線を逸らした。
「どうやって助けるんですか?」
それを聞いた先輩は「ふっふっふ」とわざとらしい笑い声を出しながら通学用のカバンをまさぐる。
「じゃじゃーん」
先輩の手に握られていたのはボールだった。ソフト用の、何度も投げたことのあるボール。嫌な予感がする。
「まさか」
「そう! これで枝をへし折っちゃうんだよ!」
「だから! 私はもうソフトはやってないんです!」
「またまたぁ」
先輩のにやけ顔が非常に鬱陶しい。
「絶対やりません」
もしボールが猫に当たったらどうするつもりなんだ。
「わかったよ」
先輩が肩を落とす。
「……本当ですか?」
「うん。だから、肩車で助けよう」
ため息を吐く。
「嫌です」
「肩車しないなら、ボール投げてもらうからね」
先輩の決意は固いようだった。勘弁してほしい。肩車か、ボールを投げるか。この年になって肩車はどうかと思うが、まあボールを投げるよりはましか。
「わかりましたよ」
そう言うと先輩は「よーし」と言いながらしゃがむ。小柄な私の方が、当然上に乗る役なのだ。先輩の肩に足をのせ、頭をつかんでバランスを取る。
「いっせーの!」
その合図にあわせて視線が高くなる。震える猫は目の前だった。手を伸ばし、野良猫をつかむ。生暖かい感触と、ずっしりとした重さが手に伝わる。
「捕まえました!」
「オッケー」
先輩はゆっくりと後退し、バランスをとりながらしゃがむ。先輩の前に飛び出す形で、ようやく肩車から解放された。
「ほら、行きなよ」
野良猫を地面に下ろす。こちらの苦労も知らずに猫は飄々と走り去った。
「ありがとう!」
心配そうに見ていた女の子が明るい顔で言う。
「お礼は、この人に言って」
陣内先輩に視線を送る。
「何言ってるの! 翔子ちゃんのおかげでしょ?」
「私一人なら無視してます」
「そんなこと言ってぇ」
「はあ、遅刻しますよ」
「大丈夫、まだ時間あるし」
先輩がしゃがみ、女の子と視線を合わせる。
「君、藤崎小だよね。途中まで一緒に行こっか」
「うん!」
……なんで?
先輩の考えは理解できない。しかしそれも今さらだった。すでに私たちは一緒に歩き始めている。道中、先輩が女の子に話しかけた。
「猫好きなの?」
「うん。飼ってるの!」
「そうなんだ。名前は?」
「猫助!」
「か、かわいい名前だね」
「え? かっこいいでしょ?」
「……そ、そうだね。かっこいいね!」
そんなやり取りをしつつ学校へ向かう。
女の子の通う小学校――藤崎小の近くまで来た時だ。私たちの横を一人の男子が通り過ぎた。背の高い男子だ。
男子の着ている制服は見覚えのあるものだった。
その男子が私たちの少し先で足を止めて振り返る。すると、ただじっと私たちを見つめてきた。
……誰?
制服の胸にはネームプレートが縫い付けられており「多賀」という苗字なのだと分かる。ネームプレートには黄色の横線がひかれており、彼が中学一年生であることを示していた。
女の子も少し怯えている。陣内先輩は「行こ」と彼女を引っ張った。息を飲んで私もその後に続く。多賀の隣を通り過ぎる直前、背筋が凍った。
「――お前らもか」
彼が、そう呟いたのだ。
それは一瞬のことだった。多賀は女の子を引っつかみ、私たちから距離を取る。
「ちょっと!」
陣内先輩もそう声をあげることしかできなかった。多賀は近くの壁に背を向けて泣き叫ぶ女の子の首を後ろからつかむ。彼の右手には……ナイフが握られていた。
「動くな!」
それはとても非日常的な叫びだった。通行人すべての視線が、一人の男子に注がれる。
時間が止まったみたいだった。身体が硬直する。誰もが足を止めていた。女の子の泣き声だけがそこに木霊している。
――同じだ。
三年前と全く同じだった。なんだ、この状況は。中学生が女の子を人質にして、この場を支配している。
「出てこい!」
多賀が叫ぶ。言葉の意味が分からない。出てこい? 何が?
「見てるんだろ!」
誰に、言っている?
多賀の目は私たちに向けられてはいない。どこを見ている? 多賀の視線を追う。……もしかして、監視カメラ? でも何のために?
わからなかった。しかし、これはチャンスではないか? 今なら女の子を助けられるのではないか? 陣内先輩なら――
そう思って、視線を移す。
「う……嘘。なんで、また」
先輩は震えていた。今日助けた猫みたいにぶるぶると身体を揺らしている。
ああ、そうだった。先輩はそういう人だった。優しくて、強くて、自分の力を無邪気に信じている。それは全部偽物で、演技で、結局自分は何もできないって知っている。私と同類の先輩。私が嫌いな、先輩だった。
「クソ! やっぱりここも……!」
多賀が何か叫んでいる。でも、知らない。どうせ私は何もできない。
うん、下を見ていよう。三年前と同じように、ただうつむいて、嵐が過ぎ去るのを待っておこう。そしたらまた、誰かが解決してくれる。
「う、う、うわああああ!」
うつむきかけた顔がその奇声の方を向く。発生源は私のすぐ隣。陣内先輩だった。先輩は取り乱していた。きっと三年前のあの日のことがトラウマになっていたのだろう。それと全く同じ状況を目前にして、パニックになってしまったのだ。
「な、なんだよ! 動くな!」
多賀の右手に力が入る。女の子の首から一筋の赤が滴り、泣き叫ぶ声は一層大きくなった。それでも陣内先輩のパニックは収まらない。
まずい、まずい、まずい。このままだと、あの女の子は。
でも私に何ができるの? 無理だよ。何もできない。どうせ、助けられない。
――翔子がソフトを頑張ってたら、私の病気もきっと良くなるわ。
母の言葉が、呪いの言葉がフラッシュバックする。
あの言葉は、嘘だったじゃない。良くならなかったじゃない。私には何もできなかったじゃない。ボールをあの多賀って子に投げたら助けられるかもしれない? 無理だよ。……怖いよ。嫌だ。嫌。
あの時のことは鮮明に覚えている。全国大会三回戦。私のしょうもないミスでチームが負けた日。私は、暴投をしたのだ。ロボット真田翔子? 正確無比のコントロール? そんなのは、誰かが勝手に言っただけだよ。
私はまた下を向く。無力感に押しつぶされるように、下を向く。視界の端で、何かがキラリと光った。それは首元にある母の形見のネックレス。
――空を翔けてしまえるほど自分を信じて進んで欲しい。そう思ったから、翔子って名前にしたの。
ふと、そんなセリフを思い出した。いつ聞いたかも覚えていない、お母さんのセリフ。
……。
……。
……。
私はずっと、無邪気に自分の力を信じていた。神童なんて呼ばれて、ロボットともてはやされて、そして失敗した。でも。でも――もし、もう一度だけ自分のことを、信じてられたなら。今だけで良い。今だけでも信じられたら。――お母さんの願った私に、なれるかな?
本当はずっと後悔していた。未練がましく一人で練習していた。
今だ。今、やるんだ。
先輩のカバンからボールを取り出す。多賀が何かを言っているけれど、不思議と何も聞こえなかった。女の子の泣き声すら聞こえない。わかるのは握っているボールの感触だけ。
大きく振りかぶる。今度は外さない。絶対に外さない。腕を回して勢いをつける。……ボールが、手から離れる。決して速くはない。けれど確実に、ボールは多賀に吸い込まれていく。
鈍い音が響いた。
ボールは狙い通り肩に当たり、体勢を崩した多賀はそのまま倒れてしまった。
「え?」
そんな呟きを漏らして陣内先輩が私を見ていた。私はすぐに女の子に駆け寄って、その華奢な体躯を無理矢理背負う。私だって小柄なのだ。正直きつい。でも、こうするしかない。
走った。がむしゃらに走った。多分女の子も泣いていた。でもそれにかまわず走っていた。後ろから陣内先輩が追いかけて来る。しばらくしてから私たちは足を止めた。
「……はあ、はあ」
息を切らしながら、女の子を背中から下ろす。
「大丈夫……じゃないよね」
ど、どうしよう。どうするのが正解だ? 頭が回らない。私は何をすれば――
「すみません! 救急車! 救急車を呼んでくれませんか!」
声の主は陣内先輩だった。近くの人に声をかけている。状況を察した大人が駆け寄ってきた。
「ひどいな。応急手当をしないと。君たちは下がってくれ」
「お願いします!」
彼は医者なのだろうか。非常に手際よく処置をし、やがて救急車がやってきて女の子は運ばれていった。
気が抜けて、その場で二人ともしゃがみ込んでしまう。
「……ありがとうございます。先輩」
「え?」
何を言っているのかわからない、みたいな顔をされる。
「いや、だから、その。……私だけだったら、何もできませんでした。何をすればいいのか、わからなかったんで」
「あ、あーね。そ、そうかな? あっはは」
先輩が渇いた笑いを浮かべる。
「でも、私も翔子ちゃんがいなかったら何もできなかったよ」
「え?」
「私、びっくりしちゃった。まさかボールを投げるなんて思ってなかったし。でも、すごいなって。私も叫んでるだけじゃダメだって、気付いたから」
「そ、そうですか」
「い、いやーホントすごいよ、翔子ちゃん。さすがロボット真田翔子! ……あ」
「別に、良いですよ。ロボットで」
まさか、ロボットのあだ名はやめてくれと言ったのを律義に覚えているとは。
「……そっか。あっはは。それにしても、変なこともあるよね? 前も同じようなことなかった?」
「ええ、まあ。あの時は中二だったんで、ちょうど三年前ですね」
「そうだね。うん、そうだった」
「それに――」
先程はそれどころではなかったが、今になって疑問が浮かぶ。多賀。その名前には聞き覚えが、いや見覚えがあった。よく覚えている。三年前の事件を起こした中学生も、多賀と書かれたネームプレートをしていた。それどころか。
「うん。あの子、三年前と全く同じ子だったよね?」
そうだ。顔も、背格好も全く同じ。だからこそ、先輩もトラウマが刺激されてパニックを起こしたのだろう。
「でも、そんなことって」
――昨夜、クローン居住区から一体の人クローンが脱走しました。実験管理者の指揮の下、捜索が続けられています。
「あ!」
そうか、クローン! 脱走したクローンなら説明がつく。
「どうしたの翔子ちゃん?」
「クローンですよ、クローン。三年前事件を起こした中学生のクローンが、脱走したクローンだったんですよ! ほら、朝のニュースでやってたじゃないですか!」
「な、なるほど! ……いや、待って? でもクローンは私たちの一年前の姿のはずじゃ?」
……失念していた。確かにそれだと先程事件を起こした多賀が中学生の格好をしている説明がつかない。
「でも、じゃあどうして?」
「さ、さあ」
沈黙。しかし考えても仕方ない。観念して腰を上げる。
「もう遅刻ですけど、とりあえず学校に行きましょう」
「ま、そうだね」
遅刻は確定していたので、走らずに歩いて向かった。なんか疲れてしまったし、ちょうどいい。
「うーん」
先輩がうめき声に似た音を発する。
「どうしました?」
「いや、ほら。さっきのクローン説。良い線いってると思うんだけどね」
「あー、そうですかね」
「うん。悪くないと思うんだよなぁ。……あ! クローンのクローンだった、なんてどう?」
「ははは、まさか」
……待てよ?
「先輩!」
「な、何?」
突然叫んだため先輩が狼狽していた。空咳をして落ち着きを取り戻す。
「それ、あってるかもです」
「え? クローンのクローン?」
「はい。ほら、確かクローン居住区実験って全人類が対象でしたよね?」
「う、うん。まあ登録漏れはあるだろうけど」
「だったら! クローン居住区でもクローン居住区実験が行われるんじゃないですか?」
一瞬、先輩はポカンと口を開ける。いまいち意味が分からなかったのだろうか。しかしほどなくして、その表情に驚きの色が浮かぶ。
「な、なるほど! 実験を始めた科学者も対象なら、実験が始まって一年後に、クローン居住区でも同じ実験が始まるのか!」
「そうですよ! そしてその一年後にはその居住区でも実験が始まります。またその一年後、さらに一年後と無数のクローン居住区ができあがるはずです! 実験が始まって何年でしたっけ? わからないですけど、そうやって見て行けば中学一年生の多賀がいる居住区もあるんじゃないですか?」
「て、天才だよ! 翔子ちゃん! すごい! 名探偵みたい!」
キャッキャと私たちは騒いでいた。世界の秘密を見つけたような気分だった。けれどすぐに、先輩の顔から表情が消える。
気付くとぽつりぽつりと雨が降ってきた。小雨未満の同じ形をした水滴が私の身体を濡らす。顔をあげると監視カメラが目に入る。
「でもそれだと――私たちは、どうなんだろ?」
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