クローン居住区
本木蝙蝠
第1話 A
A
「昨夜、クローン居住区から一体の人クローンが脱走しました。実験管理者の指揮の下、捜索が続けられています」
ニュース番組の無機質な声を聞きながら、私は朝食を取っていた。テレビ画面の左上には六時五分と表示されている。
「あらぁ、大変」
テーブルの向かいで私と同じ朝食――チョコレートを塗った食パンとコーヒー――を取るおばあちゃんが何の気なしに呟く。おばあちゃんはどんなニュースを見てもたいてい「あらぁ、大変」と言うらしい。
「脱走って、できるものなの?」
「……さあねぇ」
会話の弾まない朝。それもそうだ。私はこの家に来てからまだ数か月しか経っていない。お母さんが死んで、おばあちゃんに引き取ってもらったばかりなのだ。
しかし今日はもう少しだけ、会話が続いた。
「あの時は、ずいぶん大変だったわねぇ」
おばあちゃんがコーヒーカップをテーブルに置く。
「……あの時?」
「クローン居住区計画が発表された時だよ。全人類をクローン化するとか、世界を複製するとか、記憶を埋め込むとか、とにかく大騒ぎで。そもそも人クローンも認められていなかった時代だしねぇ」
「そうなの?」
「授業で習わなかったかい?」
そう言われ、視線を逸らす。もしかしたら倫理的な問題云々と先生が言っていたかもしれない。正直、クローン居住区実験についてはたいして興味がなかった。クローンたちが一年前の私たちと同じ生活をしている、みたいなことしか知らない。
「あー、そうだった、かも」
「ふふ。翔子ちゃんはお勉強よりも、ソフトボールの方が」
「ソフトは――」
いつの間にか私は立ち上がっていた。「しまった」とすぐに後悔するけれど、もう遅い。
「ソフトはもう、しないの」
「……そうかい」
ああ、せっかくいつもより会話が続いたのに。
気まずくなって、私は残りのコーヒーを一気に飲み干した。
「ごちそうさま」
食器をキッチンの流しに持って行く。ぽつ、ぽつ、と妙な音が聞こえると思えば、蛇口から水滴が垂れていた。小気味いい音を奏でながら、同じような形をした水滴がいくつも流しに打ち付けられている。
それに気づいて蛇口を固くしめておいた。
「おばあちゃん、蛇口。少しあいてたよ」
「え? ああ、ごめんね。ありがとう」
「うん」
素っ気なく返事をして洗面台へ向かう。歯を磨いて、顔を洗い、髪を整えて、制服に着替え、荷物をまとめる。この朝の流れは引っ越しても変わることはない。
「行ってきます」
一応リビングにいるおばあちゃんに声をかけてからドアノブを握る。するとおばあちゃんはドタバタとこちらへ駆けてきた。
「いってらっしゃい」
振り返ると、おばあちゃんは笑顔を作っていた。そこまでしなくても良いのに。
「……うん。行ってきます」
そう言えば、今までこんな風に見送られることはなかった。お母さんはずっと病気がちで、たいてい入院していたから。
……ああ、どうして思い出してしまうんだろう。思い出したくなんてないのに。できれば忘れてしまいたいのに。
陰る表情を隠すように背を向けて扉を開ける。
「あ!」
その呼び止めるような声に、身体が反応する。
「……何?」
「良かったら、あの子の――お母さんのネックレスを」
「いらない。校則、厳しいから」
嘘だ。私はただ思い出したくないだけだ。
おばあちゃんの顔を見たくなくて、声を聞きたくなくて、私は急いで家を出た。扉の閉まる音も聞こえなかった。
「やっほ! 翔子ちゃん!」
生暖かい風が吹く中、中学校への道のりを歩いていると後ろから肩を叩かれる。うんざりする気持ちを抑えながら振り返るとソフトボール部の部長、陣内先輩がニコニコしながら私を見つめていた。
「……おはようございます。先輩」
「あれ? テンション低くない? 大丈夫?」
「先輩が勧誘をやめてくれれば、少しは元気になれると思いますよ」
「それは無理なお願いだなぁ」
正直いい加減にしてほしい。私がここに越してきてから、陣内先輩は毎朝しつこいアプローチを続けているのだ。つまり「ソフトボール部に入らないか」という勧誘である。
「そろそろ諦めてくれませんか?」
「嫌だ! 私は諦めないよ! 諦めなければ、きっと上手くいくからね!」
その自信はいったいどこから来ているのだろうか。
「どうしてそこまで……」
「だって! 翔子ちゃんは去年、全国大会にまで出場したんじゃない! 一年生だったのに!」
「それも三回戦で負けました」
「いやいや! それでもロボット真田翔子の名前は私だって知ってるよ!」
ロボット……か。いつの間にか付いていたあだ名だ。正確無比のコントロールで三振の山を築くから、ロボット。でも――
「そのあだ名、やめてもらって良いですか?」
今はもう、いい意味のあだ名じゃない。言われたことしかしないから、ロボット。自分では何もしないから、ロボット。
だって仕方ないじゃない。私には何の力もなかったんだから。「翔子がソフトを頑張ってたら、私の病気もきっと良くなるわ」。お母さんはいつもそう言って、心配する私をソフトの試合に向かわせた。あの日だって、そうだ。全国大会の三回戦。私の暴投でチームが負けた日の朝、電話でいつもと同じセリフを私に言っていた。
――良くなんて、ならなかったじゃない。
全国大会の三回戦、その試合中にお母さんは息絶えた。お母さんを看取ることすら、できなかった。何が「翔子のしたいことを邪魔したくない」だ。私はソフトなんかより、お母さんの方が好きだったのに。
「おーい。本当に大丈夫?」
陣内先輩が私の顔の前で手を振っていた。少しボーっとしていたらしい。
「別に。大丈夫です」
「そ、そう? 本当に?」
……? 先輩が少しよそよそしい。
ああ、もしかしてあだ名を使わないでくれと言ったのを気にしているんだろうか? なんだ。人の事情を気にしないタイプだと思っていたから意外だ。
「あ! そうだ! 今朝のニュース見た? クローンが逃亡したってやつ!」
「え? あ、はい」
随分と唐突な話題だった。気まずくなって話題を変えようとしたんだろう。
「いやー、どうなるんだろうねぇ。もしかしたら私のクローンかもしれないんだよねぇ。もう一人の私と会えちゃうかも! ……あ、でもクローンはみんな一年前の姿だから、一年前の自分に会えちゃうかも、か」
「そんなわけないでしょ……」
「いやいや! 可能性は」
陣内先輩は、そこで言葉を切った。先輩の視線の先には一人の女の子が立っていた。
先輩は女の子の下へ駆け寄り、しゃがんで視線を合わせる。
「どうしたの?」
先輩は優しい人なんだと思う。強い人なんだと思う。自分には力があると、無邪気に信じているんだと思う。だから私は陣内先輩のことが嫌いだ。
「あそこ」
女の子が傍に立つ一本の樹木を指さした。桜の花も散りきったその枝に一匹の猫がしがみついている。きっと降りられなくなったのだろう。
「あー、あの猫。またか」
「知ってるんですか? 先輩」
「うん。家の近所にいる野良猫でさ。怖いもの知らずなんだよね」
猫のいる場所はそれなりに高く、背の高い陣内先輩でも届きそうにない。
「かわいそう」
女の子が泣きそうな目をして呟く。それを見た先輩は「よし!」と立ち上がり女の子の頭を撫でた。
「助けてあげる」
「本当に?」
女の子の顔が輝き、それを見た先輩も笑った。
その一見微笑ましい光景を横目に、私は無責任だと思った。無理だ。できるはずない。できない約束は、するべきじゃない。
「どうせ、誰か来ますよ」
そこら中にある監視カメラを指さしながらそう言った。ここ最近ずいぶんと数を増やした監視カメラ。あれだけ監視されていれば誰か救出にくるだろう。
「来ないかもしれないよ」
「来ますよ」
「だとしても、それじゃあ遅いんだよ」
ピクリと、身体が硬直する。
「なら、どうやって助けるんですか?」
知らず、語気が強くなっていた。
それを聞いた先輩は「ふっふっふ」とわざとらしい笑い声を出しながら通学用のカバンをまさぐる。
「じゃじゃーん」
先輩の手に握られていたのはボールだった。ソフト用の、何度も投げたことのあるボール。嫌な予感がする。
「まさか」
「そう! これで枝をへし折っちゃうんだよ!」
「いやいやいや」
無謀だ。何を考えているのだ、この人は。
「翔子ちゃんが投げて、落ちてきた猫は私がキャッチするよ」
しかも私が投げるの?
「先輩が投げてくださいよ」
「何言ってるの! 翔子ちゃんのコントロールは折り紙付きでしょ?」
「だから! 私はもう何か月もソフトはやってないんです!」
「え? でもこの前壁当てしてなかった?」
……へ?
「何で、それを?」
「いやー、この前たまたま通りかかったときに。あれすごいよね。自分で作ったんでしょ? コントロール練習用の的」
さ、最悪だ。やっぱり、この先輩は嫌いだ。
「い、嫌です! やりません!」
「えー、そんなぁ」
陣内先輩がうなだれる。しかしそんな姿を見せられても絶対にやりたくはない。
「わかった」
「え? 本当ですか? 先輩」
良かった。案外簡単に引き下がってくれた。と、そう思うったのも束の間だった。
「じゃあ肩車であの猫を捕まえよう」
「……は?」
「肩車。翔子ちゃんが上ね」
まあ私の方がずいぶんと小柄だし肩車をするならそうなるのだろうけど。
「なんでそこまでして」
「肩車が嫌なら、ボールを投げてもらうからね」
先輩の決意は揺らぎそうになかった。是が非でも猫を助けるつもりなのだろう。
肩車か、ボールを投げるか。最悪の二択だ。中学二年生になってまで肩車なんてされたくないが、それよりもボールを投げる方が嫌だ。ミスして猫に当たるのを想像するだけで寒気がする。
「わかりました。肩車してください」
ため息を吐いて先輩の提案を渋々承諾する。ため息には抗議の意味を含ませていたが、陣内先輩は気にする素振りも見せず「よーし」と言いながらしゃがむ。
「乗って、翔子ちゃん」
「はいはい」
もうヤケだった。
言われた通り先輩に乗り、頭をつかんでバランスを取る。
「いっせーの!」
その掛け声に合わせて視線が高くなる。久しぶりの肩車のせいで上手くバランスが取れずに一瞬ふらついたが、何とか安定する。
「も、もう少し前に出てください……あ、ストップ。ちょっと右です」
ロボットでも操縦している気分だった。
怯えて身を縮めている猫は目の前。それに向かって手を伸ばす。生暖かい感触と、ずっしりとした重さが手に伝わる。
「捕まえました!」
「オッケー」
先輩はゆっくりと後退し、バランスをとりながらしゃがむ。先輩の前に飛び出す形で、ようやく肩車から解放された。
「ほら、行きなよ」
野良猫を地面に下ろす。こちらの苦労も知らずに猫は飄々と走り去った。
「ありがとう!」
女の子が満面の笑みでお礼を言う。別にこの子が助かったわけでもないのに。
「お礼は、この人に言って」
陣内先輩に視線を送る。
「何言ってるの! 翔子ちゃんのおかげだよ!」
「私だったら無視して学校に行ってます」
「そんなこと言ってぇ」
先輩のにやけ顔が異様に腹立たしい。
「早く行きますよ。遅刻しても知りませんから」
「大丈夫だよ、まだ割と時間あるし」
先輩が女の子の頭を再び撫でた。
「君、藤崎小だよね。途中まで一緒に行こっか」
「うん!」
……なんで?
先輩の考えは理解できない。普通これでさようならじゃないの? しかし疑問を先輩にぶつける間もなく、三人で歩き始めてしまった。道中、先輩が女の子に話しかける。
「猫好きなの?」
「うん。飼ってるんだよ!」
「そうなんだ。名前は?」
「猫丸!」
「か、かっこいい名前だね」
「え? かわいいでしょ?」
「……そ、そうだね。かわいいね!」
そんなやり取りをしつつ学校へ向かう。どうやら先輩は子供の相手が得意らしい。
女の子の通う小学校――藤崎小の近くまで来た時だ。私たちの横を一人の男子が通り過ぎた。背の高い男子だ。陣内先輩よりも大きい。
男子の着ている制服には見覚えがあった。彼は私と陣内先輩の通う中学校の生徒らしい。
その男子が私たちの少し先で足を止めて振り返る。すると、ただじっと私たちを見つめてきた。
……誰?
制服の胸にはネームプレートが縫い付けられており「多賀」という苗字なのだと分かる。心当たりはない。ネームプレートには黄色の横線がひかれており、彼が一年生であることを示していた。さすがに一個下の後輩のことはわからない。
女の子も怯えている。陣内先輩は「行こ」と彼女を引っ張った。息を飲んで私もその後に続く。多賀の隣を通り過ぎる直前、背筋が凍った。
「――お前らか」
彼が、そう呟いたのだ。
それは一瞬のことだった。多賀は女の子を引っつかみ私たちから距離を取る。
「ちょっと!」
陣内先輩もそう声をあげることしかできなかった。彼は近くの壁に背を向けて泣き叫ぶ女の子の首を後ろからつかむ。彼の右手には……ナイフが握られていた。
「動くな!」
それはとても非日常的な叫びだった。ここは小学校前の大通り。通行人も多い。その通行人すべての視線が、一人の男子に注がれる。時間が止まったみたいだった。身体が硬直する。誰もが足を止めていた。
「な、何をしているんだ!」
少しの間をおいて、一人の大人が怒鳴る。彼が一歩踏み出す、その時だ。
「動くなって言ってんだろ!」
多賀の持つナイフが女の子の首に押し付けられる。一本の赤い線が肌を伝い、雫が地面に落下する。先程怒鳴った大人はそれに動揺して足を止めた。誰も動けない。女の子の泣き声だけが周囲に木霊している。
隙を見計らって携帯を取り出そうとした人もいたが、多賀に睨まれてそっとカバンに戻した。
異様だった。一人の中学生男子にこの場が支配されている。それも一年生の、去年まで小学生だった子供にだ。
「出てこい!」
多賀が叫ぶ。言葉の意味が分からない。出てこい? 何が?
「見てるんだろ!」
誰に、言っている?
多賀の視線は私たちには向いていなかった。よくわからないが、女の子を救い出すなら今しかないのではないか? ふとそんなことを考える。しかしすぐにそれを否定する私がいた。
――どうやって?
無理だ。無謀だ。野良猫を助けることとは比べ物にならない。
ああ、でも……先輩なら。そう思って視線を陣内先輩に向ける。
「な……なんで。どう……して?」
陣内先輩が――いつも自信にあふれていた先輩が、猫みたいに震えていた。優しくて、強くて、自分の力を無邪気に信じているあの先輩が。
しかし私は妙に納得していた。そうだ。あんなのは虚勢だ。自分の力では何も変わらないって知っていたのだ。先輩も、そうだったのだ。
少しだけ口元が歪んだ。それを多賀が睨んできた気がして視線を落とす。その視線の先、陣内先輩の通学用カバン。その少しだけ開いた隙間からソフトのボールが見えた。
――これを投げれば助けられるかもしれない。
一瞬でもそんなことを思った自分を笑った。まだ信じているの? 自分に力があるって? 私はお母さんを救えなかったじゃないか。無力なのよ、私は。無駄だ。何も、できやしないのだ。
何がロボット真田翔子だ。何が正確無比のコントロールだ。そんなもので何が変えられた? 結局私はソフトでだって、ミスをした。あの日、私の暴投が原因で負けた。ソフトでさえ私には力がなかった。それでどうして、今さら何かできると思えるの?
私はただ下を向いていた。嵐が過ぎ去るのを待つように、ただじっと。
そして、事態は案外早くに収束した。誰かが通報できたのか、あるいは何か聞きつけたのか。警察がやってきて多賀を取り押さえたのだ。
ああ、ほら。やっぱり、私には何もできない。
雨が降ってきた。と言っても激しくはない。ポツリ、ポツリと同じ形をした水滴が肌を刺激する。
混乱の波は徐々に引く。事情を聞き始めた警察を避けるように、私はその場から離れた。
――クローンの私なら。
あの時、ボールを投げただろうか。
学校に向かいながら私はそんな無意味なことを考えていた。
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