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 北暦三四〇年。ノエリア王都ノエルはいつもの喧騒に包まれていた。

 石造りの道を農民、商人、職人、兵士、役人が歩き回っている。その中に混じって、一人の傭兵も歩いていた。

 ヘズン・アーガス、今年で二一歳になる。ノエリア一の弓引きとして彼の名は知られていて、国王から重宝されていた。この国王と言うのは今年で七二歳でいつ死ぬか分からないとも言われるルイン三世のことである。彼亡き後、王位を継ぐのはエンドラ家令嬢レイ・エンドラと決まっていた。

 その国王に呼ばれてこの日、ヘズンは王宮へと向かっている。

 「あ、ヘズンさん!」

 彼の名を読んだ声に、ヘズンは思わず立ち止まった。

 「お久しぶりです!」

 ルビーのように赤い後ろで纏めた髪が視界に写る。

 シーナ・アイリア、十九歳。学校での後輩だった。今は医学を学んでいる。ヘズンのそう多くはない知古の一人だった。

 「久しぶりだね」ヘズンは穏やかだが、暖かみには欠ける声で応じた。

 別にシーナを嫌っているわけではない。嫌っていればそもそも応答もしなかっただろう。

 シーナはこのヘズンの態度には慣れていた。急変した最初の頃は戸惑ったが、今は気にしていない。

 傭兵と医学生、職業も年齢も違う二人の出会いは六年前にまで遡る。

 学校の帰り、ヘズンは二人の男女を見かけた。

 「平民のくせに生意気だな!出せと言ったら出すんだよ!」

 「やめて!それはママの片身なんです!」

 一人はヘズンと同い年の貴族の息子、もう一人はそれより年下の少女だった。少女が首にかけていた金剛石のペンダントを貴族の少年が乱暴に掴んでいる。

 「うるせえ!お前のママなんか知らねえよ!下等身分が逆らうんじゃねえ!」少年はペンダントを掴んだまま少女を突き飛ばした。その弾みに紐が切れ、ペンダントが少年に奪われる。

 「最初から素直に渡しておけば痛い目見ずに済んだのにな」せせら笑って踵を返し、帰り出す少年。真上に放り投げたペンダントをキャッチし損ね、無様に地面に落とした。それを横から伸びた手がそっと掴む。

 金髪の少年が手に取ったペンダントの汚れを落としてポケットにしまった。それを見た貴族の息子は食用カエルのように膨らんだ頬を紅くした。

 「アーガスだな!それは僕のものだ!」

 ヘズンは形のよい眉を微かに歪めただけだった。「君の?あの子のものだろう」

 赤毛の少女は救世主の到来のように感じただろう。

 「お前も貴族の僕に逆らうか、アーガス!」貴族の少年は緩慢な動作でパンチを繰り出した。ヘズンは上半身を反らしただけで一撃をかわすと、次の一瞬で素早く足払いを食らわせた。

 「ぐへ!」貴族の少年が無様に転倒する。

 彼に嘲笑を投げかけておいてヘズンは赤毛の少女の方に歩き出した。

 しかし自尊心だけは人一倍ある貴族である。立ち上がってヘズンの後ろから襲いかかった。

 「危ない!」少女が声を上げる。

 だがヘズンは顔色一つ使えずに振り向くと突き出された腕を掴み、その勢いで背負い投げた。受け身も取れず貴族の少年が石造りの道に叩きつけられる。

 「二回目も負けたな。もう一回痛い目見るか?」

 貴族の少年は半べそかいて逃げていった。足払いして背負い投げしたくらいなのでケガはさせていない。

 「あの……ありがとうございます」赤毛の少女が立ち上がって言った。

 ヘズンはポケットからペンダントを取り出した。幸いにも傷一つついていない。しかし紐は切れてしまっている。

 「麻の紐じゃすぐ切れちゃうな」

 「また作り直さないと……」

 ヘズンは鞄を空けると小さなポーチを取り出した。

 「何をするんですか?」

 答えずヘズンはポーチから革紐と小さなナイフを出し、ペンダントに紐を通すと適当な長さで切り、両端を本結びして首にかけられるようにした。

 「そこまでしてもらって良いんですか?」

 「うん、また朝だとすぐ切れるし、革の方が耐久性があるからね」ヘズンは優しく微笑んでペンダントを少女の首にかけてやった。

 「ありがとうございます!」少女はぱっと笑顔を見せた。「私、シーナ・アイリアって言います!もしどこかで会う機会があれば覚えといてください!必ずお礼をしますから!」

 それ以後シーナとヘズンの交友関係は続き、ヘズンが傭兵になってからも文通を続けていた。今直接顔を合わせるのは半年ぶりである。

 「今は戻ってきてるんですね」

 ヘズンは頷いた。「また国王に呼ばれたけどね」

 「そしたら今から王宮に?」

 「あぁ」

 シーナは手のひらひらと振った。「じゃあ戻ってきたらまた会いましょうね!」

 小さく手を振り返し、ヘズンは再び歩き出した。

 

 ノエリア王宮の謁見の間。ヘズンがそこに入ったときにはもう一人の若者がいた。

 後ろから見るとライトブラウンの短髪と白いマントが印象的である。そしてその姿には見覚えがあった。

 茶髪の若者の横まで歩き、膝を折る。傭兵とは言えノエリア国民であり、国王に対する忠義は義務であった。

 ノエリア王国国王ルイン三世。纏う服の華美さと当の本人の生命感の無さが見るものに奇妙な不調和感をもたらしている。

 「来たか、ヘズン・アーガス」

 しわがれた声が広い空間に吸い込まれて消えた。脂っぽい指がヘズンの隣の人物を指した。

 「その者はエル・アルトと言う。そちは知っておるか?」

 「いえ、存じ上げません」

 本当は知っているが、それは口に出さない。茶髪の青年の立場を考えれば知っていると答えるのはいささか危険なのだ。

 エル・アルト。年はヘズンと同じ二十一歳である。ノエリア王国で最も高名な剣士の一族アルト家の次男であり、彼自身の剣の腕前は並大抵のものではないと評されている。かつて十代に過ぎない彼が故アイネ・ノルンの護衛を務めていたことが、彼の実力を証明していると言えるだろう。

 彼には兄がいる。ゼイ・アルト。現在の王位継承者レイ・エンドラに仕えている。兄と弟がそれぞれ対立した貴族の令嬢に仕えていたと言うのはやや皮肉と言えなくもない。

 「その者は剣術に長けておるでな。そちはノエリア一の弓引きであろう。二人をもって反乱を鎮圧せよ」

 たったこの程度の言葉で国王は肺活量を使いきったようだった。ひどく嗄れた咳をする。その代わりのように宰相ネストル公爵が歩み出た。

 「東方、イスン県都イスン市で不逞な反徒共が町を占領している。重要な交易路の交差する都市でもあり、放置することはできん。一個大隊四百名の兵を与える。イスンを制圧し、当市の秩序を回復せよ」

 

 ヘズンとエルが揃って部屋を出ると、最初に口を開いたのはエルの方だった。

 「ヘズン・アーガス、同い年って聞いたよ。今回はよろしく」

 穏やかなその態度にはヘズンは素直な好感を抱いた。もちろん傭兵の常識として仲間だろうが信用はしないのだが、作戦遂行上の信頼には足りそうだ。

 「あぁよろしく」ヘズンは儀礼的に返した。

 エルは水色の瞳で自分より少しだけ背の低いパートナーを興味ありげに観察した。

 「四百名の兵隊を頂いたけど、僕は軍隊を率いたことがないよ。君は?」

 「俺は傭兵。指揮なんて経験とは無縁だ」

 「お互い未経験か」

 かなり人当たりが良いな、とヘズンは思う。客観的に見れば傭兵としてはヘズンの性格も柔らかい方だが、どこか冷めた印象を他人に与えるのだ。しかしエルからは強力な剣士と言う印象をまるで受けなかった。もちろん外見で内面を見る愚は犯さないが。

 「早く出発したいけど、最低限の用意は必要だろうね」

 これまでヘズンは何度も危険な任務には出てきた。自分の準備に関しては問題がない。だが一個大隊と言う兵力を率いるとなると勝手も変わってくるだろう。

 「ここまでイスンまではどのくらいだ?」エルが聞いた。

 「二日」何度か行ったことがあるから分かっている。エルは穏やかな笑顔を見せたり考え込んだりと表情豊かだが、一方のヘズンは無表情と無感動を絵に描いた応答しかしていなかった。

 「なら行き帰りと予備も含めて七日分持たせるか……」

 「何を?」

 「食料。現地調達はできないし、当局に掛け合わないとな」

 軍隊の物資は大抵現地調達が基本で、傭兵のヘズン自身軍隊の略奪の光景は何度も見ている。それを醜悪とは思いつつも止めることも無かったが、逆に現地調達の発想を最初から捨てているエルには驚いた。

 「四百人を一日二食七日間食わせるには五千六百食分必要だ」

 理屈の上では理想的な大軍隊の行動が、現実には困難な理由である。

 「兄はそう言う事務もやっていたから、補給の苦労は聞いているよ」

 王位継承者レイ・エンドラが十四歳の時から戦場に身を晒していたことを知らないヘズンではない。その彼女の補給事情を支えているのが護衛のゼイ・アルトなのだろう。ならばその弟エルも兄に倣うと言うことか。

 レイ・エンドラの名前を思い出してヘズンは愉快にはなれない。さっさと会話を終わらせて立ち去りたい気分になった。

 「補給の用意が整い次第、すぐ出発しよう」

 ヘズンは会話を締めくくり、茶髪の剣士と別れた。

 

 振り下ろし、弾かれる。横からフェイントをかけ、攻撃を繰り出すがまた防がれる。

 「強……」

 レイ・エンドラは歯噛みした。彼女の持てる全ての技術を打ち込んでいると言うのに、相手は平然と防御していた。

 「まだまだ攻撃が弱いです、お嬢様」

 ゼイ・アルトは木刀を下ろして告げた。

 エンドラ公爵家の石造りの中庭はレイの練習場所として利用されている。彼女は幼いときから剣術を磨き続けていた。

 「国王たる者、自らも武人であれ」とは彼女が何度も繰り返していた言葉である。今の国王ルイン三世の個人としての弱々しさを比較対象としているのかもしれない。

 アルト家の長男ゼイを護衛兼剣術の教師として選び招いたのも彼女で、七年前から手解きを受けるようになっていた。

 アルト家はおよそ百年ほど前に突如現れた剣豪エルヴィン・アルトが時のノエリア国王に招聘されたことから剣士の家庭としてその名を知られるようになった。この一家には謎も多いと言われるが、ゼイがそれに関して口にすることはない。

 三十歳のゼイ・アルトの見た目は七年前からほとんど変わっていない。後ろでまとめて垂らされた黒髪、やや切れ長のグレーの瞳。弟のエルは母に似たが、兄の方は父親に似たらしい。長い黒のローブは弟の白のそれと対を成すものだった。

 「あなたを越えるのはまだまだ先みたいね」呼吸を整えながらレイは言った。

 「私も日々鍛練を重ねております。そう簡単に越えられるわけには参りません」ゼイは微笑した。

 彼にとってレイの相手など食後の運動のようなものである。レイ自身の実力は非凡なのだが、ノエリアと言わず恐らくロンディア大陸でも最強の剣士を相手にはなかなか勝てはしないだろう。

 だがそれで良いのではないかとゼイは口に出さず思っている。もしレイが越えるべき対象を見いださないままに至高の地位についた時、自分を写す鏡のような存在がいなくなってしまうのではないか。

 ゼイに一度も勝てず、それでもなお克己を続けようとする向上心はレイの美徳であり、王になってもそれを持ち続けることができる間は良き君主たりえる。だが一度完全を極める、あるいはそう思い始めた瞬間からその先の向上がなくなり、堕落が始まるだろう。

 完璧であることだけが人間の理想的な姿ではない。不完全だからこそ人には努力の余地があるのだ。

 

 イスンの街は他のノエリアの都市に共通する特徴を持っている。

 高い城壁で囲まれたそう広くもない空間の中に壁のごとく建物が建ち並んでいるのだ。通りによって整然と区分けされた一区画の中に人の通る隙間が無いほど建物が配置されているのだ。

 古来この辺りは他の民族、あるいは同じ民族同士でも争いが絶えず、都市も要塞のような壁で囲まれている。その争いの中で周辺の国家を支配して成長したのがノエリア王国であった。たった八年前にも東の隣国ダロリス王国を災害に乗じて滅ぼしている。

 イスンは西と東に一つづつ大きな門があり、上から見て正方形を成す壁の四隅に一本づつ塔が立っていた。壁の高さは大体二十メートル。人が越えられる高さではない。

 「攻めづらい場所を占領したな」

 単眼鏡で高い城壁を見て、ヘズンは舌打ちした。

 「しかも周りは草原だから隠れて接近するのも難しいしね」エルは周囲の地形を確かめている。

 話す二人の後ろには四百人の兵士が装備をつけて待機していた。だが四百人の精鋭の兵士も城壁をどうにかして越えなければ戦うことができない。

 まさかイスンを占領している反乱軍が、わざわざこちらの誘いに応じて平原に出て来てくれるはずもなく、どうにかして城壁を突破する必要があった。

 都市の周りは水堀に囲まれ、門を開けて跳ね橋を下ろさないと通ることはできない。当然今は橋は上げられている。そしてその水堀はイスンの街を南北に縦断するロエーヌ川と繋がっていた。この川は重要な水上交易ルートであり、イスンの中には小さな船着き場もある。高い壁もこの川だけは通れるように開けられていた。無論、水門で塞がれているが。

 「川から泳いで入るか」

 この時ヘズンが突拍子もないことを思い付いた。

 「水門の格子も人が通れる大きさはありそうだし、南から川の流れに沿って市内に入り、西側の門を開けて主力を突入させる。一度入ってしまえばこっちのものだ」

 城壁の上には監視があり、梯子をかけて登る作戦も現実的ではない。それだけイスンの要塞は頑強に作られているが、水門の格子の隙間だけは人が通って入ることのできる場所だろう。

 「僕と君の二人で?」エルは目を丸くした。

 「もちろん」

 「けど中には敵だって多くいるし……二人だけでできるかな?」

 ヘズンは不安を微塵も見せなかった。

 「俺と君でできなければ、他の誰にも無理だな」

 この言葉自体に傭兵の青年はそこまで深い意味を込めたわけではない。エルが兄に勝るとも劣らない剣士であることは知っていたし、自分の弓の腕にも自信はある。

 「……他に手があるわけでもないか」不安を隠すことはできなかったが、エルはヘズンに従うことにした。

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