北暦世界-金髪傭兵の物語
フェルディナント
プロローグ
「罪状、国王陛下への不敬罪!よって汝エノ・エリアを斬首に処す!」
「二人には手を出さないで!」
「黙れ!不敬の大逆人が!」
「北暦三二五年五月三日、これより、処刑を執行する!」
「子供にも見物させてやれ。自分の母が死ぬ様を」
目を開いたとき、そこに見えたのは木の天井。真っ赤な血が飛び散る景色は物心付く前のぼやけた記憶の中。けどそれは何年も過ぎた今でもずっと残り続けている。
レノ・エリアは音を立てずに起き上がった。隣でまだ寝息を立てている双子の兄。彼女にとってたった一人残った家族だった。
見下ろしたシーツが白いことに、隣に兄がいてくれることに、この小さな家の回りに物音がしないことに安心する朝を、これまで何度繰り返してきたことだろう。レノは小さなあくびを一つして静かにベッドを出た。スリッパを履いて窓に向かい、純白のカーテンを開ける。
すでに明るくなった外から、白い陽光が部屋に流れ込んできた。山の上にある家だから朝は大抵霧に包まれていて、向こうの山々も少し霞んで見える。
窓を開けると朝の涼しい澄んだ空気が入ってくる。この季節は朝のこの時間帯が一番心地よい。
ごそごそと後ろで物音がして、レノは振り向いた。
「おはよ、お兄ちゃん」
「ん、おはよ…」
兄の眠そうな声に、レノは微笑した。
リノ・エリアは一歩外に出た。照り付ける日の光は山の上と言っても暑い。
「行ってらっしゃい、お兄ちゃん」後ろから妹が呼び掛ける。
レノも成長したな、と双子なのにまるで親のように考える。四年前たった二人だけでこの遠く離れた地に逃げて来た時、レノは片時もリノの側を離れようとしなかった。離れたら、また家族を失うと思ったから。
リノはかつて牢の中で妹に誓った。レノのことは僕が絶対に守る。生きるのも死ぬのも、二人一緒だと。
その誓いを忘れたことなどただの一日もない。牢から救いだされて、あの剣士さんにここに連れてきてもらって、生きていくのに最低限困らないお金をもらってここで暮らし初めて、リノはずっと妹のそばにいて、守ってきた。
十四歳にもなって多少は成長したのだろう。今では近くで畑作業をする間くらいは少し離れても平気になった。もらったお金だって無限じゃない。山の麓の村で食べ物を買うのと自分で畑を作って育てるの、それで生きていくのに必死だった。
山の稜線を歩いて畑までは向かう。東の方には広大な海が、西の方には鬱蒼とした森が、北には山々が広がっている。南はというとこちらまで森が広がっていた。
十分くらい山を下ったところに畑がある。今じゃ畑仕事も慣れたものだ。
ここに人が来ることは無い。あの人たちは絶対に人が来ない場所としてここに逃がしてくれた。この兄妹のことを知っている人はまずいない。
だから山を上ってくる人影を見つけたとき、リノは驚愕した。この場所が他の人にバレたんじゃないかと。
近くの岩の後ろに隠れて様子をうかがう。遠目には男女二人に見えた。
逃げてレノに危険を知らせるべきだろうか?山の上の家までの道は稜線の道一本しかない。必ず見つかるだろうが、それでもなにもしないよりはマシだろう。
リノは岩陰を出て走り出した。後ろから追ってきても構うもんか。いざとなったら鍬で戦ってやる。
「リノ君!」
特段叫んだわけでも無かったが、響き渡った低い声はリノの足を止めさせた。その声は彼の記憶に残っていたからだ。
「リノ君、私だ、覚えているか?」
「剣士さん…」
かつて牢から救いだしてくれた後、ここまで連れてきてくれたのがこの長身の青年だった。黒いローブをまとってフードを被り、その素性を隠している。
その彼に伴われて歩く女性もリノより年上に見えた。身にまとった服は粗末だが、長い透き通るような銀髪に凛としたライムグリーンの瞳、立ち振舞いがどこか上品で高貴で、身なりとの不調和がはなはだしい。本来は貴族くらい高い位の人なのではないかとリノは疑った。
「四年来だね、リノ君」
剣士は無愛想と言うより無表情に見え、かつて一緒にここに来るときも声のトーンがほとんど変わらなかった。この時も表情一つ変えずに話している。
「何とかレノと今まで生きてきました」
答えながらリノは剣士が連れてきた少女を観察した。清楚と言う表現がふさわしい人で、ぼろ布のような衣服を着ているにも関わらず輝いてすら見える。
「君たち二人が自活できているなら良かったよ。だが別にただ顔を出しに来た訳じゃない」剣士はもう一人の連れを示した。「この方を匿って差し上げてほしいんだ」
「ニノ・アーネと申します」少女は頭を下げた。優美と呼ぶに相応しい動作に、思わずリノも頭を下げる。
「ですが、僕とレノの二人で生きていくだけで精一杯です。その、ニノさんまで入れるとなると…」
剣士は肩にかけていたバッグから袋を取り出した。一歩踏み出してリノの手に置く。ずっしりとした重みに、それが金貨だとリノは悟った。
「こんなに…」
「それだけあれば困らないだろう」
リノは今一つ納得できなかった。
「剣士さん、なぜ貴方の素性を教えてくれないんですか」
フードの下には口元しか見えず、その表情から内心を察することはできない。
「言ってはならないからだ。私が君たちにしたこと、そしてこの方のことも、教えることはできない」
ニノは沈黙を保っている。
「ならどうして、僕とレノを助けたんですか」リノは重ねて聞いた。
剣士の表情も声の調子も、わずかの揺らぎもなかった。
「私は知らない。仮に知っているとしても、それを教えることはできないだろう」
「そんな言葉じゃ納得できませんよ!大人のエゴに振り回された僕たちに…」
「リノ君」悲壮なほどに美しいソプラノがリノの弾劾を制した。ニノが歩み寄って、少年の怒りと、それ以外の要素で震える手を握る。「信じてあげて。私を彼と共にここに送って来た人も、私だって大人のエゴの犠牲者だから…」
リノはニノの宝石のような瞳を見つめた。少しして、くすんだ金髪の少年はローブの剣士に向き直った。
「ニノさんはお守りします。それで良いんですね?」
剣士は頷いた。「ありがとう。君たちにしてほしいことはそれだけで十分だ」
踵を返し、山を下っていく剣士が森の木々のなかに消えるまで、リノはその背中を見つめていた。
「リノ君」ニノが再び呼び掛けた。「私もただ置いてもらえれば良いなんて思ってないから。できることはする。もし急に来て偉そうに、なんて思わせたらごめんなさい。私、もう十八なのに何もできないから…」
リノはこの少女を認める気になった。雰囲気のせいなのか立ち振舞いのせいなのか、それは彼自身にも分からなかった。
「君ってつけられるのがこそばゆいから、呼び捨てにしてください」
それを聞いて銀髪の少女は初めて笑顔を見せた。「ありがとう。私のことも、ニノって呼んでね」
リノが家に戻ったとき、レノは昼食を作ろうとしていた。
「お兄ちゃん、早かったんだね!…」
兄を迎えようと出てきたレノは、そのままそこで絶句した。兄が連れたもう一人の姿を見たからである。
「え…誰なの?」
「今あの剣士さんが来て、このお金と一緒にこの人も住ませてあげてほしいって
ニノの目には彼女を見つめるレノの、兄と同じ澄んだ真紅の瞳の中に恐怖心が躍り回っているように見えた。
「ニノ・アーネって言います。貴女のことは剣士さんから聞いているわ」
「レノ、この人は大丈夫だから…」
レノは思わず一歩退いていた。その頭の中にフラッシュバックされたのは四年前までの光景。暗いじめじめした牢獄の中で、多くの大人たちの悪意にさらされた負の記憶だった。
「私、お兄ちゃんとしか無理…」
その小声は無形の槍となってニノを貫いた。彼女の心の傷もまた、音を立てて軋む。
リノが一歩踏み出してレノの肩を掴んでいなかったら、そのままガラス玉のように二人の心は砕けていたかもしれない。
「この人だって僕たちと同じ被害者だ。レノ、お兄ちゃんを信じて」
感情が剥き出しになったレノに比べ、ニノは自分の感情を制御する術を身に付けていた。驚くべきはリノの強さだろう。十四歳の若さにして双子の妹を守ろうと、一人で全てを背負っているのだ…
夏でも山の上は夜になると冷える。夕食を終えるとニノは小さな荷物の中に入れた外套を羽織って外に出た。
その後ろ姿を見たレノは、最初は無視して皿洗いを続けていた。家の中に井戸があり、冬でも凍らないから水には困らないで済む。
少しして皿洗いが終わり、食器を拭いて戻したとき、レノは手を拭いて外に出た。
「一人で大丈夫?」後ろから兄が呼び掛ける。
「うん、大丈夫」
リノはそれ以上言わずレノを見送った。
一歩外に出ると昼の暑さが嘘のように寒々しい。それでもこの寒さに四年かけてレノは慣れきっていた。
歌が聞こえる。透明で、儚い、美しい声。レノも歌に自信はあるけど、聴いてるだけで泣けてきそうなこの歌声には敵わないだろう。
歌が聴きたかった訳じゃないが、レノはその声に惹かれた。邪魔したくない気持ちで静かに近寄る。
ニノは家の近くの石にちょこんと座って満点の星空向けて歌声を送り出していた。銀の髪は月光を受けてきらきらと煌めいている。草を踏む音が聞こえたのだろう、歌うのをやめて振り向いたがまた夜空に視線を戻した。
「夜空って、綺麗なのね」
歌と同じように、澄みきった声だった。
レノは何も答えず、ニノの後ろに立った。
「私のこと、怖い人って思う?」
「貴女がじゃなくて、皆が怖い。私にはお兄ちゃんしか信じられないの」
ニノは寂しそうに笑った。「そっか。でもね、例え一人でも信じられる人がいるなら幸せかもよ?」
その言葉はレノにささくれを作った。
「幸せって…!」
「私はね、そんな人は一人もいなかったから。大人の道具にされてさ。レノもそうだったんでしょ?」
「…」
暗かったから、ニノの瞳から零れ落ちた滴には気づかなかった。
「大人の勝手の負債を押し付けられるのは、いつでも子供だから…」
返す言葉がすぐには出てこず、レノは夜空を仰いだ。これでもかと言うくらい明るく星々が瞬いている。それは牢獄の中からは見上げられなかったものだった。
「…ニノさんは、どうしてここに来たの?」
ニノが立ち上がって笑って見せる。その潤んだ緑の瞳が、家の光を反射した。「今は秘密」
ノエリア王国の王都ノエル。周囲を城壁で囲まれたノエリア式とも呼ばれる建築方式で形作られた巨大な都市は大国ノエリアの文字通り中心であり、最も繁栄した都だった。周辺国家の首都に比べても繁栄していると言えるだろう。
この日雲は厚く、朝から雨粒が降り注いでいた。道行く人は多くなく、いるとしても特別の用事がある者だけであろう。
雨に打たれて黒焦げの姿を晒す一件の建物。少し前までは夜になっても灯りに包まれ、豪華絢爛の限りを尽くしていた建築は見るも無惨に焼け落ちていた。
この王国で一番の実力を持った大貴族ノルン家の巨大な邸宅が何者かによって火を放たれて全焼してからすでに半月。そこに残っているのは黒焦げの廃墟と失われた栄華の物悲しさだけである。
ノルン家の当主でノエリア王国宰相でもあったヨーレン・ノルン公爵、その妻で国王ルイン三世の皇女でもあるエリ・ノルン、皇太子のいない国王にとって第一位の王位継承者だった息女のアイネ・ノルンらノルン家一党は一人残らず業火に包まれて死亡した。
一人の青年が封鎖された家の門の前に立ちすくんでいる。
収まりの悪い金髪に群青の瞳、身長は少し低い。見る人にとっては穏やかな好青年にも写るだろう。
しかしその身を包む黒い革製の服装は紛れもなく彼が戦士であることを物語っていた。耐久性が高く、かつ動きやすいようにデザインされた機能重視の服装である。
ノエリア一の弓引きとの評判をまだこの時は持っていなかったが、その腕は認められていて十八歳の若さにして傭兵として名が売れた存在だった。ヘズン・アーガス、この日依頼を終えてノエルに戻ってきたばかりである。
「……」
唇を固く結び、ヘズンは雨に打たれたまま廃墟を眺めた。もし雨の音が無ければ歯ぎしりの音が微かに聴こえたかもしれない。
若い金髪の傭兵は踵を返した。その瞳から流れ落ちた滴は、雨粒が流し去って行く。
王国最大だった大貴族の館は、その焼け落ちたシルエットを雨の中に写し出していた。
王国最大の大貴族の没落、と言うより消滅で恩恵を得るものが当然いる。そうでなくては放火などされる筈が無いだろう。
この時最大の利益を被ったのは王国で二番目の実力を持った門閥貴族、エンドラ家であった。
「誰が屋敷を燃やしてくれたかは知らんが、もはやノルンに邪魔立てされることは無い。お前が女王として君臨することに反対する勢力はいなくなったわけだ」当主ハウフ・エンドラ公爵は満足とでも言いたげに笑って見せた。
「そうですね、お父様」
かつて王位継承者だったアイネ・ノルンの死によって次の王位継承者になったレイ・エンドラは答えた。
アイネ・ノルンと同様エンドラ家も今の国王ルイン三世の皇女を迎えている。間の息女レイ・エンドラは王の血を引き、自然王位継承権を持っているのだった。
短く切ったブラウンの髪、ヘイゼルの瞳、服装も貴族の令嬢と言うより剣士を彷彿とさせる。「国王たる者、自らも武人であれ」を旨としているだけに、剣術を学び続けているのだった。
彼女にも国王にならんとする意志があったのである。単に武芸のみならず政治軍事経済思想とあらゆる方面に知識を広げていた。四年前、十四歳の若さにおいて軍を率い、戦っている。
だが皮肉にも国王の座を欲していたレイではなく、本人自身は望んでいなかったとされるアイネ・ノルンに王位継承の権利は与えられた。こうなればアイネが仮に拒否しようが、ノルン家の者は無理矢理にでもアイネを王の位に着けるだろう。そうすることで家が得る権力は絶大なものである。
レイ、あるいはエンドラ公爵にとって実権を自分たちが握るにはノルン家、より正確にはアイネ・ノルンの排除が必要だった。
しかしノルン家は何者かに火を放たれ、不幸の死を遂げた。エンドラ公爵家はこの事故に狂喜し、王位継承の権力を喜んで賜ったのである。
レイが屋敷の廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「お嬢様」
「ゼイ?戻ったのね」
ゼイ・アルト。戦場にやたら出たがるレイの護衛役であり、その剣さばきたるや王国を探しても右に出る者はいないとされる。今年三一歳と主人に比べて十三歳の年長だった。
「役目を果たし、帰還致しました」
「そう…」レイは頷いた。「取り敢えず、これで万事が上手く行きそうね。ノルン家には悪いけど、私も女王になる機会を捨てることはできないから」
「しかし良かったのですか?」黒髪の剣士は聞いた。長い後ろ髪は纏めて垂らされている。
「何が?」
「ここまで情をかけてしまっても」
レイは微笑した。「あなたにそう言われるのは心外ね。人のことは言えないんじゃなくて?」
ゼイは苦笑して頭を小さく下げた。「これはお恥ずかしい。確かに私が申し上げる口ではございません」
表情を戻すと、レイはヘイゼルの瞳を忠実な護衛に向けた。
「大丈夫。これくらい手心を加えても別に構わないでしょう」
ゼイはそれ以上追及はしなかった。
王都ノエルから北東に離れた森。この森をさらに東に行けばルーフト山脈を越えてレーヌ海に出る。その先には島国アルビオン連合王国があるが、差し当たり彼の国はこの物語には関係がない。
森の中で一際高い山の上に城が建っている。規模自体はノエルのベストレア宮殿と比べて豪華と言うわけでは無かったが、見る者に威圧感を与えるには十分な偉容だった。王国の貴族の一人、ラフト侯爵家の居城ハウゼル城である。
その城壁の上に一人の少女が座っている。この城にいる者の中で彼女がラフト公爵の息女エリザであることを知らない者はいないだろう。
「それ、本当なのか?」
彼女の隣に立つ一人の青年が聞いた。
「今日王都からの連絡の中にあった。これだけの大事件なら、デマは無いでしょ」エリザはため息をついた。
「アイネ・ノルンって、お前の親友だろ」
「そんなこと言われるまでも無いわよ」エリザは同い年の騎士の方に振り向いた。「あの子も可哀想なんだから、権力闘争に巻き込まれて…」
「…誰かに暗殺されたと?」
「それ以外の何があるって言うの。どうせエンドラ家がやったことだろうけど、一番不幸なのはやっぱりアイネね」
二人の目の前には鬱蒼とした森林が広がっている。覆い繁る木々は日光をほとんど下の地面まで通さない。逆に言えばそれだけ人にとっては通りづらく、ここに城を築いた意味があると言うものだ。
「アイネアイネと、そんなことを俺にずっと話すために来たのか」赤毛の青年は目を細めた。
「馬鹿、あんた以外に誰に話せっての」
「…じゃあ勝手に話せよ」ヨゼフはため息をついた。
「こんなのだったら私が王都まで出向いて彼女を先に連れ出しとけば良かったかもね」
「それこそ無理な話だろうが」
「仮定の話よ、仮定。ヨゼフあんた、反論しかできないわけ?」
ヨゼフ・ラガー、ラウフ公爵家に仕える騎士の息子だった。戦死した父親も騎士なら息子も騎士で、元から公爵の一人娘とは仲が良かっただけにエリザの護衛のような立場にある。
「…まぁ、親友が死んだってのは辛いよな」
「アイネも可哀想だし、あの子もね…」
それ以上エリザは語らなかった。一方的に思うことをぶつけられたヨゼフは、表情の選択に困ったと言う風に見飽きた森を眺めていた。
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