10 TEAR dropped


 極北の大地プルリタニア。この広い世界で数少ない、極光の見られるところ。

 凍てついた大地をひたすら進み、やがて、霧のそりは止まった。

 ふっと見上げた頭上に――あった。極光が、オーロラが、夜空にたなびく光のカーテンが。美しく、不思議な空気を宿しながら、時に色を変えつつ不規則にたなびいて。凍てついた空気がそれをさらに美しく魅せる。

「見て……ティア」

 白い息を吐きながら、セインリエスは愛する彼女に言う。

「極光だよ……君の見たかった極光が、今、頭上に広がっているよ……」

 苦しげに目を閉じていたティアは、その言葉に薄目を開けた。よく見えるようにとセインリエスが肩車してやると、ティアはぱあっとその目を輝かせた。

「すごい、です……。これが……お話で聞いた、極光……!」

 セインリエスの上で、彼女は動きを止めてその美しい光景に見入っていた。次々と移り変わりゆくその輝き。星の空とも相まってそれは、この世のものとは思えない美しさだった。

「そうです……これが見たかったんです……。お話で聞いた時から、ずっとこれが……!」

 その青い宝石のような瞳から、涙がこぼれた。次から次へと溢れる涙は、セインリエスの肩を濡らした。セインリエスは驚いて問う。

「泣いているのか……? ティア」

「セインさん……ありがとう、ございます……」

 ひょいと肩から降ろし、その顔を眺めてみる。彼女はこの世の全てに満足したような顔をしていた。

「セインさ……これ、を……」

 彼女が何かを渡そうとした瞬間、

 死をつかさどる北極星が、かつてないほどの輝きを放った。

 背筋に悪寒を感じた。

 正面に抱いたティアの身体が急速に冷え、体温を失っていく。

 はたり、とその服の下から何かが落ちた。それは青色の模様の入った白いマフラー。彼女と出会った当時、彼女が織っていたあの布だ。彼女はそれをマフラーにして、セインリエスにプレゼントしようとしてくれたのだ。

 落ちたマフラー、失われゆく体温。彼女が一生懸命作ったそれが落ちる。それは彼女が命を落とす予兆にも見えて。

 焦った声でセインリエスは叫ぶ。

「ティア、死ぬな! 春になったら、って言っていただろう。見たいこと知りたいこと、たくさんあるんだろう!? 極光を見たって死なないって、言ったじゃないか」

 セインリエスの目から涙があふれる。


「――一緒に行きましょう、って……言ったじゃないかッ!!」


「……生きますよ? 春も夏のその先も。行きますよ? セインさんと一緒に……」

 その目に恐怖を浮かべるセインリエスに、安心させるようにティアは言った。

「でも私……もう、疲れちゃいました。ちょっとだけ……休んでも……いいです、か?」

 セインリエスは彼女をそっと横たえた。その瞳の奥に星の光と極光が映る。けれど青玉石の瞳の奥に、光はない。

 どこですか、と彼女は問い、何かを探すようにその腕をさまよわせる。

「見えない……。さっきの、極光も星の光も。セインさんのお姿も……」

 病は急速に進行し、彼女はもう目も見えなくなっているようだった。

 僕はここにいるよ、とセインリエスは彼女の手を握り締めた。しかしどうしても見えてしまう。不吉に輝く北極星が。

 セインリエスに手を握られて、ティアは嬉しそうに目を細めた。

「セインさん……そこに、いるのですねー……。私、セインさんに会えて良かっ……」

 最後の一音は、言えなかった。

 彼女の全身から、くたりと力が抜けた。冬の寒さも相まって、その体が急速に冷えていく。――ティアは、死んだ。

「……ティア」

 彼女は病魔に勝てなかったのだ。それをわかっていても、セインリエスは現実を認めたくはない。

「……眠っているんだろうティア。そうだ、疲れたんだよな。こんな身体で極北の大地までよく頑張ったよ。ああ、帰ろう我らが天界へ。そしてそこでゆっくりと休むんだ。君は眠っているだけだろう?」

 なぁ、ティア。

 呼びかけるが、その身体は既に息をしていなかった。

「認めろセインリエス。彼女は死んだんだ」

 凛、とした声が凍てつく空気を割った。

 ゆらり、何もない場所から現れたのは影。それは少しずつ実体を得ていき、やがて黒髪赤眼、褐色の肌に黒い衣装を身に纏い、赤いマフラーを巻いた青年の姿になった。こんな場所にいるはずがないのに、どこかで鴉がカアと鳴いた。

「闇神……ヴァイルハイネン」

 セインリエスはティアを抱きかかえ、相手の名を呟いた。

 闇神は静かに言う。

「愛する人を失うのは辛いだろう。だが彼女の死は現実だ。触ってみろ、その身体に温度はあるか? 動きを見てみろ。彼女は今、息をしているか? そういうことだ。人間は誰ひとりとして、死から逃れることはできないんだよ」

「……嘘だ。そして! 私に何の用だ貴様ッ!」

 闇神はつとその目を細めた。

「……ようやく柔らかくなったと思ったのに、彼女を失った途端に口調も戻ってしまったか」

 溜め息をつき、彼は目的を語る。

「オレは忠告しに来た。以前言ったろう? 確実に死別があるから、人間を愛するなと。今からでも遅くはない。霧の力を自分に使い、彼女のことを一切忘れろ。全て霧の彼方に閉じ込めてしまえ」

「どうしてそんなこと……言うんだい」

 呆然と呟くセインリエスに、闇神は友達のよしみだ、と答えた。

「今ならまだ間に合う。今のうちに忘れてしまえば、あんたは心を壊さずに済……」

「――うるさいッ! 私と彼女の邪魔をするなァッ!!」

 セインリエスは叫び、一気に力を解放した。解放された力は闇神を吹き飛ばし、闇神は凍てつく大地に体をぶつけた。

「……そうか。それがあんたの答えか」

 悲しげな声が頭上から降る。

 闇神は宙に浮き、そこからセインリエスを見下ろしていた。

「ならばオレもこれ以上は関わらない。……オレだって、さ。友達を救おうとしたかったんだよ。でも彼女亡き今、オレの言葉は届かないのか……」

 じゃあな、と彼が言い、その姿は天へと吸い込まれていく。

 セインリエスは荒い息をしながら、闇神が消えたほうをずっと見ていた。

 そして彼は抱いたティアを見る。改めて理解した。彼女はもうこの世にいないこと。セインリエスを救い、愛し、温かさと優しさをくれた人。セインリエスが心に張った氷を融かしてくれた人。

 愛する彼女はもういない。あの、花が咲いたような笑顔を見せてくれることは二度とない。

 気付き、改めて理解して。

 喉の奥から出たのは慟哭だった。

「――――――ッッッ!!」

 死んだ死んだ、彼女は死んだ! 春まで生きることはできず、彼女は死んだ、死んだのだ!

「ああ……」

 セインリエスは空を仰いだ。極光はいつの間にか消え失せて、死の象徴たる北極星だけが、不吉なまでの輝きを発していた。

「あああ……」

 彼女と過ごした幸せだった日々が彼の脳内を駆け巡る。救われた日、守られた日。最後の旅の中、紅葉と戯れた無邪気な彼女、嬉しそうな彼女。その幸せな光景こそが、残酷なほどに彼の心を抉っていく。

「あああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!」

 そして彼は、壊れた。彼女を失って、壊れた。彼女と過ごした楽しい思い出は確かにあるのに、そこに彼女はいない永遠にいない。

 人間を愛した神様は、人間が死んだときその死を永遠に抱えなければならない。自殺も許されず、彼は彼女の死を抱えたまま虚ろに永遠を過ごすのだ。それを知り、その先の虚無を知り、彼は狂ったように暴れ出した。

 失うということ、大切な存在を失うということ。その重みがようやく理解できた時はすでに遅く。

 一滴のティアドロップが大地に落ちた。それはたちまち凍り付き、大地に吹く風に流された。

「ティア――ッ!」

 彼の灯台はもう、戻らない。

 迷える船を導く光は、もうこの世にはない。


  ◇

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る