9 灯台の祝福
翌朝。
セインリエスは、自分の首に刃が押し当てられているのに気が付いた。思わず眉を上げて、問い掛ける。
「おや、ラヴァン。いったい何のつもりだい?」
「…………」
ラヴァンは答えない、答えようとしない。薄暗がりの中、青の瞳が迷うように揺れる。迷い、惑い、どうすればいいのかわからないというような顔で、それでもラヴァンは刃を引かない。けれどそれ以上刃が押し込められることもない。
「……魔女が」
やがてラヴァンがぽつりと呟いた。
「魔女が来たって聞いたから! 殺せって言われたんだ。警備隊なんだろう、外部からの侵入者は排除せよ、って」
魔女。ティアのいた村からの情報が、この村にも届いていたか。
心の中で舌打ちしながらも、セインリエスは鷹揚に笑う。
「ならば殺せよ、抵抗はしない。だが、ティアに手を出したら絶対に殺す」
セインリエスは、ラヴァンを迎えるように両手を広げた。しかしラヴァンは動かない、動けない。その場で刃を押し付けたまま、ただただ震えるばかりで何もできない。額から伝い落ちた汗が、周囲を濡らし染みを作る。
「こんなの間違ってる……!」
ラヴァンが呻くような叫びをあげた。
「オレはあなたたちが悪人じゃないってわかってる。でも、でも! オレは警備隊だから――ッ!」
セインリエスは見る。ラヴァンの中の迷いを惑いを。
今のラヴァンは霧に迷える船だ。暗い夜の中、導いてくれる光もなくて。どうすればいいのかわからず途方に暮れる、一隻の帆船だ。
――灯台がなくて困っているのなら、僕が導いてやればいい。
セインリエスは優しく笑う。彼は霧と灯台の神。惑わすだけでなく、導くこともできるのだから。
昨夜、ラヴァンの瞳に宿した星の光に呼び掛ける。目覚めよと、目覚めてそのまま光となれと。船を導く灯台となれと。
セインリエスは問い掛ける。霧の神ではなく、灯台の神として。
「……なぁ、ラヴァン」
優しい声音で。
「君は何がしたい?」
「オレは……」
ラヴァンの奥で戦う二つの感情をセインリエスは見る。警備隊としての使命感と、セインリエスたちを信じたい純粋な気持ち。
「オレは……」
耳を澄ませば「魔女だ」と声が。「ラヴァンが向かった」「すぐに死ぬさ」
声を聞き、セインリエスの瞳を見て。
ラヴァンは覚悟を決めたようだった。
「オレは!」
青の瞳に宿った星の光が明滅し、確かな輝きを宿す。
ラヴァンは刃を引いて窓を開けた。吹き込む冷たい風に、村の人たちの怒号が混じる。そのままセインリエスの方を向き、叫ぶ。
「ここから、逃げて下さい! オレはあなたたちを信じます。彼女は魔女じゃないしあなたは邪な神じゃない。ここはオレに任せて下さいッ!」
彼が導いた答えは、信じること。
ありがとうとセインリエスは頷いた。
「君はきっと素晴らしい大人になるよ。ああ、約束するともさ。よく僕を信じてくれたね」
ティアを抱き上げる。腕の中で目をこするティアを起こすまいと霧をかけて窓から外へ出る。身を霧で覆い隠して見えないようにし、凍霧のそりに乗り、霧の狼を呼び出して再び大地を駆けていく。時間がないのはわかっていた。だから急がなければならないのだ。
「……彼ならきっと、この先もやっていけるだろうさ」
自分を信じたラヴァンを信じ、心の中で小さく礼を言って先へ進む。
いくつもの森を越え、山を越え、谷を越え。最後には海さえ霧の狼の引くそりで渡る。霧の狼は海の上を駆けた。それなのに水飛沫は感じない。霧の狼は海から少し浮上した空を駆けていたのだ。
「狼さん……こんなこともできるのですね……!」
ティアは驚いた顔で、そりから見える景色を眺めていた。
ふふとセインリエスは微笑みを浮かべる。
「僕は最強の神の一柱だからね……。これくらい余裕なのさ」
「セインさんって、本当にすごいです!」
「君の方がすごいよ。だって……普通の人間なら、ただ倒れている人間にあんな優しさなんて示せないよ。僕はそんな君に救われたからこそ、変わることができたんだ」
海の上を渡りながら交わされた、ささやかな、しかしかけがえのない会話。
セインリエスは知っていた。この海を渡り切った先に、極北の大地プルリタニアがあると。そこにたどり着いたら極光は見られると。
彼は恐れる。極光を見たら、そのままティアが死んでしまうんじゃないかと。
だから頼んだ。
「ねぇ、ティア」
ずっと一緒にいたいから。
「この先に極光の大地があるよ。でもお願いだよティア。極光を見ても死なないで、ずっと傍にいて。僕は一人ぼっちになりたくない……」
「あなたには素敵なご兄弟がいるじゃないですか。私が死んでもあなたは一人ぼっちにはなりませんよー?」
きょとんとした目で彼女は彼を見る。
「でも……そう、私はまだ生きていたいです。極光を見ても、まだまだ見たいこと、知りたいこと、たくさんあるのです! だから――」
秋が終わり冬が終わり春になったら、と彼女は呟いた。
「一緒に行きましょうね、また、様々なところ。春も夏も秋も冬も、綺麗なものがたくさんある。私はそういったものに出会いたいんです」
春になったら、と彼女は繰り返した。
そう、秋が終わったら冷たい冬が来るけれど。冬の先には春がある、生命が萌え出ずる春が来る。そうしたら彼女の身体も回復するんじゃないかと、そうセインリエスは思った。余命など知ったことか、彼女は強いんだからもっと生きると、信じて疑わなかった。
――そうでもしないと、彼女の死への恐怖に、心が潰されそうだったから。
前向きに考えておかなければ心が死ぬのだ。
彼女の存在はいつの間にか、それほどに大きいものとなっていた。
それでも、それでも、北へ近づくにつれて彼女は確実に弱っていった。
旅を始めてから三か月。冬の最初に差し掛かり、セインリエスのそりは北の大地にその身を滑らせた。その頃にはティアはもう、自分で歩くこともできなくなっていた。
セインリエスは背負ったティアに言う。
「ティア……着いたよ。ここが極北の大地プルリタニアだ。もうすぐで極光が見られるよ」
答える声は、とても小さかったけれど。
それでもまだ、彼女は生きているから。灯台の灯は消えてはいないから。
「……行くよ。全速力!」
凍り付いた極北の大地を、霧の神のそりは進む。
◇
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