6 極北の地へ

 苦しげな息を吐き、彼女は倒れた。

 あんなに強かった彼女が。

 果敢にも、あの大熊からセインリエスを守った彼女が。

 凛として毅然としていて、弱さなんて見せたことのなかった彼女が。

 倒れた。

「――ティアッ!」

 叫び、顔を真っ青にしてセインリエスは彼女を抱き上げる。抱き上げた彼女は異様に軽く、その息は荒く速かった。

「診せてみて」

 厳しい顔で、ロウァルが車輪付きの椅子を懸命に動かす。その動きに気付いたガンダリーゼが椅子を押してやり、ティアの顔がよく見える位置まで導いた。

 雨の神ロウァルは身体が弱い。だからこそ、医学に興味や関心があり、知識もある。

 神々だって怪我するし死ぬし病気もする。神々は老いず力を持つというだけで、それ以外は通常の人間と基本的に変わらない。

「……ティア。君にやりたいことはあるかい?」

 そっとロウァルが問う。

 ティアは苦しげな息の中、一生懸命に言葉を紡いだ。

「見てみたい……です。いつかお話で聞いた……極北の地の、極光を。空に輝く……光のカーテン、を……」

「ならばすぐに向かわなくてはね……。もう時間がない」

「どういうことです?」

 不安を顔に滲ませセインリエスは問う。病魔だよとロウァルが答えた。

「いつからかはわからない。でも彼女の中に確実に潜んでいた病魔が牙を剥いた。この病魔は急速に罹った人間の命を奪う。保って……三か月かそこらかな。彼女はもう長くは生きられない」

 運命というのは残酷だね、とロウァルの言葉が聞こえたが、それは不明瞭なノイズのようにセインリエスの耳を雑に通っていくだけ。

 セインリエスの視界が真っ暗になる。彼の全身から霧が噴き出し彼を覆う。彼を霧の彼方へ連れ去ろうとする。絶望し、抑えられなくなった力が、最強と呼ばれた力が、混乱して訳のわからなくなった彼を守るために、彼からすべてを消そうとする、彼を破壊しようとする。

 ようやく掴んだ幸せなのに、それは今、目の前で崩れていこうとしている。

 ようやく兄と和解し愛しの彼女と両想いになり、温かで優しい恋の日々が、始まると思ったのに。

 突然の、あまりに突然の余命宣告は、セインリエスの心を折った。

 放心しながらもセインリエスは思い出す。いつか、人間好きの闇の神が言っていたこと。

『オレは人間を愛するが、特定の人間を愛しすぎることはない。神と人間、寿命が違うからどちらが先に死ぬかは明白。もしもそうなったら、遺された神は愛した人間の死を抱えながら永遠を生きることになる。それはきっと、死ぬより辛いことだから』

 その意味がわかりかけてきた。この先、いくらセインリエスが足掻こうと、ティアは確実に死ぬ。それはどうやっても抗えない運命で。人間を永遠にする方法などありはしないから。

 そしてそうなったら……灯台を失った船はどうすれば良いと言うのだろう。自殺するための岩礁も神々の掟によって撤去され、闇から光へと導くための灯台も失って。明けぬ夜の中、永遠に孤独の海をさまようことになるのか。

――そんなのは、嫌だ。

 その恐怖に、思わず震えた時。

 愛しい彼女の声が、した。

「セインさん……そちらに行っちゃ、駄目です……」

 その声にセインリエスははっとする。彼を呑み込もうと渦巻いていた霧が急速に晴れる。灯台に暗い夜の海は照らされて、進むべき道がはっきりとなる。

 ティアは、言う。

「私……見たいんです。死ぬ前に……話で聞いた極光を」

 セインさん、あなたが連れていってくれますかと彼女は問う。

 ああ、とセインリエスは頷いて、彼女の白い手を握った。

「僕が、連れていく。僕が、君に見せるよ。約束するから……生きて」

 ふるふると目蓋が動き、彼女の青玉石の目が彼を見た。ええ、と彼女は頷いた。

「生きますよ……。私、まだ見たいもの、知りたいこと……たくさん、あるんですから……」

 じゃあ、とセインリエスは頷き、彼女を背負い兄たちを見た。

「僕はこれでお暇します。でもまた必ず戻って来るから。……また会いましょう」

 挨拶をし、

 セインリエスは空中に手を伸ばす。神々の扉が目の前に現れる。それに手を触れれば、

 光。溢れて。

 天の世界が遠くなる。遥か彼方に消えていく。

 次の瞬間、肌に感じたのは地上の風。ああ、戻ってきた。

 しかし天界と地上界では時の流れが違う。ほんの少しいただけなのに、初春だった地上はすっかり秋になっていた。降り立った場所こそ同じだったが……。

 そしてこの場所に、ティアの居場所はない。魔女扱いされた彼女に帰る場所はなくなった。だから、

「北を、目指そう」

 進むしかない。

 ぽつり、セインリエスは呟いた。

 彼女は死ぬのだ、先に死ぬのだ。それならば、せめて。

 最期の願いくらいは、叶えてやりたいと思った。これまで彼女に貰った優しさや温かさ。返したいと思っていたから。

「行くよ、ティア。極北の地まではまだあるけれど、大丈夫、僕の力を使えば」

 特殊な扉を開いて一瞬で飛ぶような無粋はしない。一歩一歩自分の足で歩いて、確実にその地にたどりつく。そうして見た極光にこそ、意味があると感じるから。

 それにティアは言うのだ。

「私……他の世界も、見てみたいです……」

 彼女がそう願うのならば、その願いを叶えよう。

 セインリエスは両手を組み合わせ力を解き放つ。するとどこからか狼の鳴き声が。

 もくもくと渦巻く霧が、三頭の狼を作りだした。セインリエスは霧を凍らせて作ったそりに乗り、その腕にティアを抱きかかえ、霧の狼に先導されながらも凍りついた大地を駆ける。霧の狼はセインリエスのシンボルだ。神話の中で、彼は霧の狼の駆るそりに乗り、各地を巡っては霧で閉ざし、同時に迷える者を導くのだ。また彼は霧に包まれる帆船として描かれることもある。実体のない霧である彼を呼び表す言葉は多い。

 セインリエスの腕でティアが、「やっぱりあなたは神様なのですね……」と感動していた。霧のそりに乗ることなんて、普通の人間では絶対にあり得ない。外の世界に憧れていた彼女は、病に蝕まれ苦しそうにしながらも、それでもその瞳には純粋な好奇心を輝かせていた。

 霧の狼はおおんと吼える。見上げた夜空には北極星が瞬く。

 そして、二人の静かな旅は始まった。


  ◇

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