5 「ただいま」

 ふわり、足が何かの地面の上に着く。

 足元には雲のような大地、頭上にはどこまでも澄み渡った青空。

 天界だ。セインリエスは帰ってきた。

 ティアが、子供みたいに目をきらきらさせていた。

「わぁ、ここが天界なのですかー? とっても素敵なところですねー! セインさん、こんなところに住んでいたのですね!」

 ああ、とセインリエスは頷く。

「地上界とは全然違うだろう? ここが神々の楽園だ」

「……まさかこんな場所に、行けるなんて」

 ティアは感動に目を潤ませていた。

 と。

 不意に感じた殺気。セインリエスの背に悪寒が走る。

 はっと気付き、彼は白のマントでティアを覆い、彼女に被さるようにした。その全身に感じた凄まじい衝撃と激痛。セインリエスの視界が赤く染まる。マントに庇ったティアが悲鳴を上げた。それでも、避けることなく、かわすことなく攻撃を受け、そして腕の中の愛する人を守る。今の彼ならば避けることくらい簡単だけれど、これは避けてはならない攻撃だから。――受けることは贖罪だから。

 明滅する視界。痛みに目に映る全てが赤く染まる。その中で、耳は何度も聞いた声をとらえる。

 絶対零度の声が、頭上から響き渡る。

「……愚弟。何故、戻ってきたんだ」

 緑の髪に青い瞳。全身に風を纏わせたその神は――風の神、ガンダリーゼ。

 彼は不思議そうに首をかしげる。

「そして。何故身を守らず全て受けたんだい? そこの人間の娘を守ろうとしたのだろうけど、今お前が天界にいるということは力が戻ったということのはず。それだけの力があるのだから、自分も娘もどちらも守ることなど余裕だろうに」

 不可解だ、と風神は言う。

 謝りたかったんだ、とセインリエスは答えた。

「地上に落とされて、彼女に救われて……私は、否、僕は変わった。僕は気づいたんだ、あの日、自分がどれほど愚かだったのか。だから……それだけで許されるわけがないけれど、謝罪がしたくて。そして罰として与えられた攻撃を避けたら、『僕』はまた『私』になってしまうような気がして」

 その白の瞳の奥。かつてあった氷の傲慢さは融け去り、今は優しい水が静かにたゆたっている。もう彼は傲慢さで凍り付いてはいない。

 それを読み取ったのだろう、ガンダリーゼはふむと頷いた。

 セインリエスはマントを広げ、内に庇ったティアをそっと前に押し出した。困惑した顔のティアに大丈夫だよと笑いかけ、兄に、彼女が僕を変えたんだと紹介する。先ほど負わされた傷はもう閉じていた。人間の時とは違い、神の身体は治癒が速い。

「僕は落ちて、救われて、変わった。彼女はこんな僕にも優しさをくれた、温かさをくれた。いくら僕が彼女を拒絶したって、諦めずに接してくれた。そして僕は傲慢だったこと、そして自分の愚かさに気付いたんだ」

 説明するよと彼はティアの方を向く。

「僕はかつて、傲慢だった。その傲慢さで一番上の兄さんを深く傷つけてしまった。そしてそれに怒った二番目の兄さんは、罰として僕を地上界に叩き落し、ただの人間として生きるようにした。そして君に救われたんだ」

 兄さんは何処、謝りたいんだと彼はガンダリーゼに問う。

 ガンダリーゼは難しい顔をした。もしかしてあの後何かあったのだろうかとセインリエスが不安になっていると、キィと車輪のきしむ音と共に、声がした。


「僕はここに……いる、よ?」


 よく戻って来たね、としっとりとした雨の声が笑う。

「……兄上」

 振り向けば、そこには懐かしい姿。

 けれど、何かが違う、何かがおかしい。

「兄上、足が……」

「これ? あはは……君に、やられたんだよ」

 彼は車輪の付いた椅子に座っていた。そしてその右足は、途中で切断されている。

 神だって怪我を負うことがある。神だって身体欠損はある。強い神は欠損した部分さえも圧倒的回復力で修復できるのだが、弱い神である雨のロウァルにはそれがない。欠損したらそれでおしまい、なのだ。

 変わってしまった兄を見、申し訳なさと衝撃に立ち尽くすセインリエス。そんな彼に、そっとロウァルが声を掛けた。

「大丈夫、気にしていないよ。僕は君が帰ってきてくれただけで嬉しいんだ」

「兄上……どうして……そんな僕に、そんな怪我を負わせた僕に、優しくしてくれるんですか」

「当たり前じゃないか。君がどんな神様でもね、僕は君の兄さんなんだから」

「僕は……愚かだった……」

 気付けば伝い落ちていた涙。その涙を拭おうとロウァルが手を伸ばすが、自力で歩けなくなった彼にそれはできない。ロウァルは手を伸ばし、届かないと分かると悲しそうな顔をした。

 それを見たティアが、いつも持っているハンカチでセインリエスの涙を拭う。

「良かったですね、仲直りできて! 今のセインさん、これまでで一番幸せそうですー!」

 そんな様子を見て、ガンダリーゼが溜め息をついた。

「……わかった、和解する。ああ、でも俺はセインがやったこと、許すつもりはないからね? これはこれ、あれはあれ。今のセインは柔らかくなったけれど、過去のあの傲慢さも決して忘れはしない」

 兄さんは優しすぎ、とロウァルに言えば、ロウァルはそうかなぁと困ったように笑う。

 セインリエス、ロウァル、ガンダリーゼ。かつて一度はセインリエス自身が破った絆だけれど。今、それはこうして元に戻って。否、元以上に素晴らしい関係になって。

 傲慢さで心を閉ざしていた頃には気付かなかった、気付けなかったその幸せ。それを感じ、セインリエスは震えていた。

 ロウァルの穏やかで優しい笑顔、一緒にいると安心する笑顔。あれをどうして疎ましく思ったのか。ガンダリーゼの強さに憧れた。けれど強さ以外の彼もあるのに、どうしてそれを否定しようとしたのか。

 力が強さだと純粋に思っていた。力のない存在は強くなんかないと。けれど今ならわかる。力が力のすべてではないのだと。ロウァルのあの優しさもまた、強さであるのだと。なのに、ずっとそれがわからないでいて。

 心に張った凍れる霧が、全てを遠ざけ傷つけた。

 それを融かしたのは、心優しき少女の純粋なる善意。

「ティア……」

 彼は愛する少女の名を呼ぶ。

 その名を愛おしいと思った。その姿をその声を彼女の全てを、とても大切なものだと思った。

「君は僕の灯台だよ、霧と灯台の神を導く灯り。君がいたから僕は変われた。君が助けてくれたから……」

「……私だって。セインさんに出会えて良かったです。私、知っているんですから。セインさんが本当は優しいこと。セインさん、ボロボロの身体で私を守ろうとしてくれましたよねー? 私、ちゃんと覚えているんですから!」

 セインリエスの思いは彼女に届き、彼女もまた彼に応えた。

 霧の神セインリエスは今、人生の中で一番幸せだった。

「そう言えば」

 ふっとロウァルが笑う。

「まだ自己紹介していなかったよね、ティアさん。僕はロウァル、セインの兄だよ。君がセインを変えてくれたんだね。……兄として礼を言うよ、ありがとう」

 ティアはぶんぶんと一生懸命首を振る。

「いえいえとんでもないですよー! 私はただ、倒れている人を放っておけなかっただけなのです! 神様にお礼を言われるなんて……恐れ多いです!」

「僕も神様なんだけどね、ティア」

 セインリエスが悪戯っぽく笑うと、

 ティアは素直で純粋な瞳をして、セインリエスに言った。

「……だってセインさんはロウァルさまよりも私に近い方じゃないですかー。セインさんからの『ありがとう』はロウァルさまからのとは違うのです。もっと近いから……恐れ多いっていうのじゃなくって、温かいって感じがしま――」

 言い掛けて。

 不意に、彼女は胸を押さえた。

 その顔が苦しみにゆがむ。

 純粋な輝きを宿した青い瞳が痛みに塗り潰される。その目がぎゅっと閉じられた。

「セイン、さん……」

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