4 感情の名前は
それから、一週間。
ティアの献身的な看病のお陰で傷の癒えたセインリエスは、動き出すことを考え始めた。
ティアと過ごし、その優しさや温かさ、明るさに触れた今ならばわかる。自分がどれほど愚かだったのか。
雨の神ロウァルも風の神ガンダリーゼも、確かに自分のことを愛してくれていたのに。心無い冷たさで彼は、それらを遠ざけ傷つけた。
――謝らなければ。
許してもらえるなんて、思ってはいないけれど。謝らなければと強く思った。
そのためにはこの幸せな世界から抜け出さねばならない。そして天界に声を伝える方法を探さなければならない。やることは山積みだった。
「なぁ、ティア。今までありがとう。傷もだいぶ治ったし、僕は僕の用事を思い出したから――」
暇を告げようとした、時。
突如上がった悲鳴と怒号。
そこにいたはずのティアはいなかった。そして悲鳴はティアのものだった。
何があった、とセインリエスは玄関に向かって走っていき扉を開ける。そこには憤怒に顔をゆがませた村人たちと、恐怖に身を縮めるティアの姿があった。ティアの頬を見ると殴られた痕がある。それを見るなり、セインリエスの心に冷たい嵐が吹き荒れた。
先頭に立っていた村人が、叫んだ。
「この魔女めっ! おれのマーヤに毒を飲ませやがって!」
「違います! 私はただ、病気に苦しむマーヤさんにお薬を調合しただけでっ!」
「嘘をつけ!」
再び、拳がティアに迫る。ティアはその身を縮める。
しかし、
拳が彼女に届くことは、なかった。
「やめるんだ! ……ッ!」
格闘の技も体術も知らない。己の力を最大の武器としてきたセインリエス、そして今は力を失ったセインリエスには相手の拳の止め方もわからない。だから。
ただ愚直に、ティアと相手との間に、割って入った。
代わりに強い力で殴られた胸部。彼は痛みに身を折る。涙目で相手を睨みつけた。
相手はセインリエスを見て、馬鹿にするような顔をした。
「ほぅ、少し前から匿われている謎の青年か。その女は魔女だぞ、何故庇う?」
「……助けられた、からだ」
傲慢だった頃にはきっと、誰かを守り、庇うことなど考えもしなかっただろう。
しかし今は、違う。今はもう、かつての彼ではない。
初めて感じた優しさ温かさ。力を失い気付いた自分の愚かさ。
彼女が彼を、変えたから。
「何が起きたのかはわからない、が……。彼女を殴るなんて言語道断。僕は彼女の中にある善性を信じる」
「その女はおれの妻に、薬と偽って毒を飲ませて殺したんだぞ! そんな魔女が善人なわけあるか!」
「……違うんです!」
必死でティアが訴えかける。
「私は確かにマーヤさんにお薬を渡したけれど! マーヤさんはお薬で死んだんじゃない、病気で死んだんです! お薬さえ飲めば何でも治るなんて、そんなわけがないのですよ! 私は私にできることをしただけで……ッ!」
「嘘をつけ! マーヤは苦しんで死んだんだ! お前のせいだ!」
「……それ以上彼女を傷つけるなら」
セインリエスは怒りをその白い瞳に宿す。
「この私が相手になろう。お前のそれは思い込みだ。お前の言葉には論理性がない」
「魔女に毒されたかこの愚か者め!」
「彼女を魔女と呼ぶな!」
セインリエスは怒っていた。この地上に来てから、初めて。
その怒りは、傲慢だったあの頃とは確かに違う種類の怒り。
彼はティアが傷つけられることを許せなかった。ティアが泣きそうになっているこの現実を許せなかった。だから。
いくら力のないこの身であっても、彼女のためにこの男をぶっ飛ばすと、そう、心に誓った。
彼は拳を突き出した。戦い方も何も知らない、頼りにしていた力も失ったひょろひょろの拳。当然、避けられ、反撃の拳が腹部にめり込む。セインリエスはその痛みと苦しみにえずいたがそれでも必死で立ち上がり、庇うようにティアの前に立つ。そして再びやってきた拳を受け止めようとして失敗、大きく吹っ飛ばされて近くの木に背中を強かにぶつける。感じたことのない痛みが、物理的な痛みが彼の全身を駆け巡って脳を灼く。彼の視界が真っ赤に染まった。口に感じたのはどろりとした鉄錆の味だった。それでも彼はよろよろと立ち上がり、再びティアを守るために立つ。もうやめてとティアが叫ぶが気にしない。彼の瞳は男だけを見て、爛々と光っていた。
「……青年。お前はなぜそこまでして彼女を庇う?」
驚いたような、そして少しの恐怖が感じられる、声。
その声にセインリエスは堂々と答える。
今ならばもう、わかる。あの日抱いた好感情の、正体が。
自分を守り、優しさで包み込んでくれた彼女への、思いが。
初めて感じた、あの温かい感情が。
傍にいて、隣にいて、ほしいと思った。離れれば温かさが失われることを恐れた。ずっとずっと一緒にいたいと思った、その感情は。離れることを思うだけで、身の引き裂かれるような心地がするこの思いは。
「決まっているだろう……私が、僕が、彼女を、」
彼はその瞳に優しげな微笑みを浮かべ、彼女を見た。
「愛して、いるからだ」
その瞬間。
セインリエスの耳は何かが砕け散る音を聞いた。硝子の砕けたような澄んだ音。
そして感じた。自分の内に、凄まじい力が湧いてくるのを。
彼は理解した。今この瞬間、ガンダリーゼの掛けた呪いは、罰は、解かれたのだと。
傲慢だった彼に課せられた呪いを解く唯一の方法。それは――愛を、知ること。
彼の周囲で霧が湧き上がる。彼の目の奥で灯台のあかりが明滅する。再び彼と出会えた力は歓喜にその身を震わせた。その時の彼の姿はまさに神、もう弱い人間ではなくなった。
「名乗ろう! 僕は霧と灯台の神セインリエス! 霧で人を惑わし、灯台の光で迷える者を導く! そしてティアはそんな僕の恩人だ!」
驚きの顔でティアがセインリエスを見た。彼女は言った。
「すごく……綺麗、です。これがセインさんの本当のお姿……」
「あくまでも人間体の、だけれども。本当の姿はただの霧だ」
悪戯っぽく彼は笑った。
受けたダメージはそのままだけれど。慣れ親しんだこの力があれば、好きな人を守るくらいどうってことはない。
「来るなら来なよ僕の敵! 彼女は僕がこの手で守る!」
「……ふん。何かと思ったらカミサマか! そんなのに負けるか! 村人会議で、ティアは魔女と決まったのだ。魔女は火あぶりにせねば! そしてその決定に――全村人が同意した! かかれっ!」
相手の言葉と同時、手に手に武器を携えた村人たちが、セインリエスらに迫ってくる。怯えるティアに、大丈夫だよとセインリエスは声を掛ける。
「僕がいるから、最強の霧の神セインリエスがいるから。
さあ愚かな村人たちよ、僕はあなたたちを惑わそう。僕とティアの進む道を、明るい灯台の光で照らすために。灯台の灯を消そうとする奴らに制裁を!」
湧き上がった霧が村人たちを包み込む。村人たちの視界が白く染まる。戸惑い混乱する村人たち。その間を霧の刃が縦横無尽に切り裂いていく。
巻き起こる悲鳴と怒号。ティアは耳を塞ぎ眼を閉じた。けれどそれでもセインリエスにしがみつく手は離さない。彼女は力を取り戻した彼を恐れない。
行こうかティアと彼は言う。
「天界へ――僕の故郷へ。君を害する者のいない楽園へ。もうここにはいられない。だから。……ついて来て、くれるかい? 神の僕に、人ならざる僕に」
そんな狭くて息苦しい場所じゃなくて、広い世界を見せてあげるよと笑う。
ええ、と彼女が頷いた。その瞳に宿るは強い意志。
「当然です! 私は知らない世界を見てみたいし……思って、しまったのです。セインさんと一緒にいると安心できるって。そしてもっとセインさんのお役に立ってみたいって!」
「……ありがとう」
主神アンダルシャよ、と願えば。
地上界に堕ちた時に見えなくなった、神にしか見えぬ特殊な扉が空の向こうに見えた。
「つかまっていて。さぁ、君に広い空を見せてあげよう」
セインリエスはティアの手を握る。二人の身体がふわりと浮いた。そのまま高く高く上がっていき、セインリエスにしか見えない天界への扉の前へ。
ティアは初めての飛翔に歓声を上げた。
「わぁ、すごいですすごいです! セインさん、こんなこともできるのですねー!」
「そして君はもっと驚くことだろう。さぁ……ようこそ、天界へ」
セインリエスは扉に手を触れる。すると眩い光が辺りを包み込み――
◇
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