第72話 邂逅

「老後は、こんな田舎で暮らすのも良かったかも知れねーなぁ」

のんびり車を走らせながら呟くと、カミさんは俺の腹を見て苦笑する。

都会のマンション暮らし、運動と言えばせいぜい近所の散歩くらい。

そんなだらけ切った生活と、今さら決別できるわけでもあるまいと思っているのだろう。

悠々自適、と言えば聞こえはいいが、暇を持て余した老人ってとこだよなぁ。

カミさんなんてウエストが一番太いし、若いねーちゃんとは真逆の体型してるわけで、人間の肉体ってのは不思議なもんだ。

でもまあ、それを「ふくよか」って言ってしまえば、何となく幸せっぽいよねぇ。

「今夜の宿泊場所、見付かったか?」

ぎこちない手つきでスマホを操作するカミさんを、横目でうかがいながら尋ねる。

ひざの上には、カミさんと同じくふくよかな猫。

まあコイツも連れてきたから、宿泊先は早めに探しておかなきゃならんのだが。

免許返納を見据えての、人生最後の長距離ドライブ。

計画は一切ナシの日本一周は、これまでのところは上手くいっていた。

スマホってのは便利なもんで、行き当たりばったりでも検索して電話して、どうにかこうにか宿泊場所は見つけてきたし、名所や見所もすぐに調べられる。

「この近くに棚田があるようですよ」

宿泊場所じゃなく、見所を検索してたみたいだ。

「棚田もいいが、このままだと初の車中泊になっちまうぞ」

最近は、ペット同伴可能な宿泊施設も増えたが、それでも早めに見つけておかないと安心できない。

この歳で車中泊はちょっとツライしなぁ。

まあそれも、無計画な旅行の楽しみと言えるのかも知れんが。

「ああ、あそこを歩いている子供に訊いてみましょう」

ランドセルを背負った二人の小学生。

兄と妹かな?

俺はその二人の近くに車を停めた。

「ちょっと聞きたいんだけど、この近くに民宿か旅館はあるかな?」

窓から顔を出してカミさんが尋ねる。

実際のところ、答は期待してないだろう。

子宝に恵まれなかったからか、カミさんは子供を見ると話しかけたくなるのだ。

「たぶん無いと思います」

兄らしき子がニッコニコで答えた。

どこか懐かしさを感じさせる、そんな笑顔だ。

妹の方は胡散臭うさんくさげにこちらを見て──え?

気付けば俺は、車から降りていた。

「タマちゃん?」

もう随分と前に、たった数回ほどしか呼んだことのない名前がすっと口から出てきたことに驚く。

もちろん、タマちゃんじゃないことは判っている。

昔、見た頃よりも幼くなってることなんてある筈が無い。

けれど、その女の子はタマちゃんにうり二つだった。

それに、兄の方は……。

「みゃーちゃん?」

あの二人の、子供?

いや、違う。

あの三人の、子供だ。

「たぶん、僕のお母さん達のことだと思います」

男の子はニコニコしながら、礼儀正しく答えた。

お母さん達……確かにそう言った。

ああ、ああ──

ラーメン屋の湯気がまぶたに浮かぶ。

狭い路地と、そこにつどう猫達。

いつしかそこに、ニッコニコの女子高生を見るようになった。

やがて、気の弱そうなサラリーマンが顔を出すようになり、更に不器用そうで綺麗な女の子が加わった。

サラリーマンと二人の女子高生。

普通なら、どこか淫靡いんびなものや汚れたものを感じさせる筈なのに、三人は、どこか初々しく、どこか爽やかだった。

薄暗い路地裏にほのかな光が差し込むように、猫達とたわむれる姿は柔らかな優しさに満ちていた。

「お父さんと、お母さん達は元気かい?」

俺の声は震えていた。

さして深い関りがあったわけでもない。

ただ、微笑ましいなぁと、ラーメン屋の二階の窓から何度か見て、そして二人の女の子が何度かラーメンを食べに来てくれた、それだけの繋がりだ。

「お兄ちゃん、こやつめは変態ロリコンじじいに違いないのです」

ええっ!?

「ちょ、ちょっと待った! お嬢ちゃん、俺にはカミさんがいる!」

「神様は神社にいて、仏様はお寺にいると教わったのです」

「いやいやいや、カミさんってのは奥さんのことで」

「お父さんは、お母さんをカミさんなんて呼んだことはありませんが?」

うわぁ、これはまさしくタマちゃんだ。

ラーメン屋で見た、敬語で毒舌を吐くタマちゃんの口調そのまんまだ。

「家は近いのかい?」

こんな偶然、奇跡みたいなもんだ。

ぜひ、会っておきたい。

「ストーカーですか」

「いや、そうじゃなくて、ご両親に挨拶をさせてくれないかなぁ」

「判りました。よろしく伝えておきます」

「うーん、直接会って挨拶したいんだけど、まいったなぁ……」

取り付く島がない。

カミさんに視線を向けても、クスクス笑うばかりで助け船も出さない。

まあどこまで事情を察しているか判らないが。

「そうだ、猫を飼ってるだろう?」

当てずっぽうだが、あの子は猫好きだったから、きっと猫と暮らしている筈だ。

「当たり前ですが?」

そっかぁ、猫がいて当たり前かぁ。

なんか微笑ましいなぁ。

俺はカミさんの膝の上にいるトラ猫を抱きかかえて、ちっこいタマちゃんに見せた。

「うちも飼ってるんだ。ほら、コトラって名前だ」

正確には二代目トラだ。

ラーメン屋を取り壊す日、最後にあの路地を覗き込んだとき、チャトラの猫が一匹だけいた。

もうすぐここを壊すから危ないぞ、と言っても、どういうわけか逃げない。

よく見知った猫でもあったし、飼ってやれば、またみゃーちゃん達にも会わせてやれるかも知れないなどと考えた。

トラが彼女達と会うことはかなわなかったが、その子猫が今、あの子達の子供と会っている。

なんという不思議な巡り合わせだろう。

「うちの猫はコサバです」

ちっこいタマちゃんはコトラを撫でながら、初めて口許をほころばせた。

そう言えば、あの子達はサバトラ模様の猫のことをサバっちと呼んでいた。

あの猫の子か?

あの場所にいた猫達の子が、二十年近い時を経て、初めて顔を合わそうとしているのか?

もしかして、この奇跡のような出会いは、猫達が引き合わせてくれたのではないか?

──会いたい。

またあの三人に会ってみたい。

ただその姿を見るだけで、ただ挨拶を交わすだけで、それはどれだけの喜びをもたらしてくれるだろうか。

さして語るべきことなどないこの老いぼれの人生に、いったいどれほどの彩りを与えてくれるだろうか。

「どこか痛いのですか?」

小生意気だったちっこいタマちゃんが、心配げに俺の顔を覗き込んだ。

痛くなどない。

俺は笑顔の筈だ。

あの三人が結ばれて、こうやって立派に子供を育て上げていたことが、ただ嬉しくてたまらないのだ。

ただ、嬉しくて涙があふれてくるのだ。

「私の家はすぐそこです。お薬もあります」

ちっこいタマちゃんは優しかった。

毒舌だったあの子も、優しい子であったことは判っている。

「お母さん達は学校の先生なので、まだ帰ってきてないのです」

そうか……あの二人が先生に……。

「お父さんはその辺で野良仕事をやっつけてます」

そうか、あの兄ちゃんは農業を、って言い方!

「大地を耕しているのです」

いきなりカッコよくなった!

「じゃあ、お父さん達が帰ってくる頃にお邪魔するよ」

「大丈夫です。家には弟と妹と、真矢ちゃんがいるので」

そうか、他に二人も子供が。

ていうか、真矢ちゃんって誰だ?

「真矢ちゃんは乳魔王なのですが、最近、重力に対して恨みつらみを言うようになりました。歳を取るということは重力に屈するということよ、なんて言ってましたが、お爺さんもそうですか?」

何を言ってるのか全く判らねぇ……。

でも、幸せそうだってことは判る。

「あ、お父さんだ」

ニッコニコの少年の声が弾み、その視線の先には軽トラが見えた。

農道を車体を揺らしながら走る軽トラの姿は、どこか滑稽で、どこか逞しく見えた。

あの青年が農業をし、子を育て、強く生きている。

どんな顔をして迎えればいいだろう。

どんな顔をして迎えてくれるだろう。

だが運転手の顔が見えない。

俺の心も少年のように弾むのに、軽トラは白く滲んでぼやけるばかりだった。

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