第71話 ある店員の幸せ
ショーケースを
平日のお昼前、人通りも少なく、来店する人など滅多にいない時間帯。
ショーケースの中の輝き達が、人待ち顔で並んでいるように見えるのは職業病なのだろうか。
こんなに人と接する数が少ない接客業も他にあまり無いと思うけれど、こんなに人の幸せに触れられる職業も、そんなに無いと思う。
私は人の笑顔を見るのが好きだ。
例えばおもちゃ屋さん、あるいは車屋さん、そういったお店でも沢山の笑顔に接することは出来るだろう。
でもそれは「嬉しい」笑顔だ。
私は「幸せ」な笑顔が見たい。
私自身が幸せを与えるわけでは無いけれど、その幸せに、ほんの
「あ──」
もう五年ここで働いているけれど、お客様が来店して「あ」などと声を上げてしまったのは初めてのことだ。
しかも私より先に、そのお客様は照れ臭そうに頭を下げた。
私は自分の失態を
また幸せが増えるのだろうか、でも、あるいは……。
ここに来る以上、何らかの幸せを形にしに来た
ショーケースを覗き込む目は真剣そのものだ。
三十歳前後だと思うが、どこかあどけなくて、その取り
ちょっとした質問に答えたり、他愛もない日常会話を交わしつつ、お客様の邪魔にならないように徹する。
来店の目的はすぐに察した。
お客様が見ているのはシンプルなプラチナリング。
結婚指輪だ。
それは幸せなことに違いないが、以前、同じデザインの指輪を二つ同時に購入されたことは強く印象に残っている。
二人の女性と同時に付き合っている、と考えると、不届き者である筈だが、女性を騙しているなら同じデザインにしないだろうし、合意の上?
合意であろうと複数の女性と付き合うなんて、女性の敵だ、と思うところかも知れないけれど、何故か悪い印象は無い。
あるいは大事な妹が二人いて、なんて考えたりもしつつ、接客した感想としては、やはり愛する女性へのプレゼントという印象を受けた。
候補は二つに絞られた。
どちらも奇を
応接ブースに座ってもらい、コーヒーを出す。
テーブルの上に並べられた二つの指輪ケースから目を離さず、お客様はコーヒーに口を付けた。
味わう余裕も無いくらい真剣な表情。
でも、まるで美味しいと言うように頷くと、茶目っ気を覗かせるような目をして顔を上げた。
「こちらにします」
そして照れ笑い。
結婚指輪を買うときなんて、だいたいが幸せの真っ最中で、相手に対する愛情も最高潮のときだ。
だからみんな、いい表情をするものだ。
けれどこの人は、つい、相手の女性はどんな方なんだろう、なんて気になってしまうほど、なんの混ざりっけも無い無邪気な表情をする。
純粋に二人の女性を愛したとして、そして二人から愛されたとして、その上で一人を選んだのなら、何かしらの
二人のうちの一人が、自ら降りた、あるいはこの男性を振った可能性はある。
いや、その可能性の方が高いと言える。
いくら愛されていたとしても、いつまでも自分一人を選んでもらえないのなら未来は見出せない。
賢明な女性なら、降りるのが正しい選択だ。
この男性も残った女性も、これ幸いなどと思いはしなかっただろうが、二人になれば自ずと結婚への道が開ける。
うん、そうに違いない。
三人が二人になって、結婚という流れになって、それでこの男性はここに来たのだろう。
「これを、三つ」
「は?」
私としたことが、またしても失態。
いくら意表を突かれても、宝石店の店員が「は?」などと返すのはご
この一音に、何を言っているんだこの人は、というニュアンスが含まれてしまう。
でも前回のご来店のときも「は?」と言ったような……。
って、そんなことより実際この人なに言ってるの!?
結婚指輪じゃないとしても、指輪三つ、なんて買い物する人いないでしょ!?
取り敢えずビール三つ、とは訳が違うのよ!? まだ車三台同時購入の方が現実味あるわよね!?
でも男性は、誤魔化すような笑みでなく、あくまで照れ笑いのまま続けた。
「彫ってもらう日付は……」
時を刻む、ということは、やはり結婚指輪ですよね?
それとも何かの記念日的なものですか?
何かの記念で女性二人に指輪を?
しかもシンプルなプラチナリングを?
いやいやいや、私、この仕事を五年やってますが、そんなお客さんは見たことも無いし、同業者から聞いたこともございません。
「メッセージは、二つにはfrom Kを、一つは日付だけで」
……最初から、判っていた。
真剣なのだ。
きっとこの人は、二人の女性と結婚しようとしている。
恐らく籍は入れまい。
等分に愛し、どちらか一方だけ、という扱いを嫌う筈だ。
顧客リストから、城塚孝介という名前は判っている。
Kから、という極めて短いメッセージは、相手に対する想いだけだ。
最近は長いメッセージを依頼するお客様が多いし、短くても相手のイニシャルも入れるケースが殆ど。
でもKから、という短い刻印に込められているのは、ただ与えたくて、見返りや縛り付けることを望まない想いなのではないか。
「頑張ってください」
あれ? つい口を
私は何を言ってるんだろう。
「ありがとうございます」
男性は、照れ笑いではなく、感謝と幸せに満ちた笑顔で言った。
私の的外れかも知れない言葉に
私は、その幸せの一助となれるような、そんな笑みを返せただろうか。
あれは、何年前のことだっただろう。
「どうした?」
休日に主人とドライブをしていて、突然、車を停めてと言った私。
辺りは田園地帯で、これといって目を引くものはない。
ただ、無人販売所の前に、賑やかな集団がいた。
大人の男性が一人と、大人の女性が二人。
男の子が二人と、女の子が二人。
散歩の途中なのだろうか、笑顔が
「あれ? ご夫婦と、近所の奥さん、かな?」
その集団、いや家族に目を留めた主人は、首を傾げる。
子供達は二人ずつ、それぞれ二人の女性に似ていた。
でも、全員が、男性の特徴を受け継いでいるように見えた。
ああ──
何故か言葉が出なかった。
今まで指輪を買ったお客さんを、その後、街で見かけたことは何度かある。
幸せそうな人もいれば、つまらなそうな顔をして歩いている人もいた。
職業柄、ついその人の指を見てしまうが、指輪をしていない人もいた。
その、どんな再会より、何か込み上げてくるものがあった。
無人販売所で何か買ったらしい家族が、私達の乗った車の横を通り過ぎる。
三人の指には、見覚えのある指輪が光っていた。
「知り合いじゃないのか?」
笑顔に満ちた家族を振り返りながら、主人が尋ねる。
「もう一人……」
「ん?」
「子供が欲しいなぁ」
主人はちょっと驚いた顔をしてから、「そうだなぁ」と言って笑う。
ハンドルに手を置く主人の指にも、いつものように指輪が光っていた。
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