第73話 旅の行先

「私の究極のスレンダーボディで男が釣れたのです」

軽トラに駆け寄り、父親に話し掛けるちっこいタマちゃんは、愛らしい子供そのものだ。

「悩殺と書いてイチコロと読みます」

……セリフは全然子供らしくねぇけど。

そういった冗談を聞き慣れているのか、父親は微笑みながら頷き、俺に目を向けた。

いぶかしげな顔をしたのは、俺が涙ぐんでいるからなのか、それとも……。

そもそも数回、顔を合わせただけの関係だ。

歳も取ったし、もうしわだらけのジジイになっちまった。

憶えていなかったとしても仕方がない。

「きっとお腹が痛いのです。この都会人風情に我が家のハイテクトイレを──痛っ!」

あ、微笑んで聞くだけじゃなくて、ちゃんと叩くんだ。

「もしかして、ラーメン屋の……親父さん?」

「っ!!」

そうだ、と言おうとしたのに声が出ない。

ただ何度も頷いて、情けなく顔を歪ませてしまう。

軽トラから降りてきた、かつて青年だった男性。

日焼けして引き締まった身体、大地の匂いが染み込んでいるような働く男の手。

逞しく、精悍せいかんになった。

けれど人の良さそうな、柔らかい雰囲気はそのままで、優しげな目尻の小皺を濡らしてくれた。

「お父さんも、お腹痛いの?」

ちっこいタマちゃんが、俺と父親の顔を見比べる。

ただ懐かしいだけで涙が出るものだろうか。

お互い歳を取ったし、得たものもあれば失ったものもあるだろう。

それでも必死に積み上げ、築いてきたものがあるからこそ、込み上げるものがあるのではないか。

「兄ちゃん、頑張ったな」

やっと声が出た。

最初に口をいて出た言葉がそれだった。

まだ話もしていないし、久し振りだとか、元気かだとか、何か他に言うことがありそうなもんだが、言ってから、その言葉がいちばん相応しいように思えた。

兄ちゃんが笑う。

もう兄ちゃんって歳でもないか。

けれど、沢山のものを背負ってきた逞しさとは裏腹に、返ってきたのは青年のような爽やかな笑顔だった。


俺はジジイだけど都会育ちだ。

田舎とは縁が無かったし、農村にある古い民家なんて入ったことも無かったが、招かれた家はどこか懐かしい匂いがした。

子供達が駆け回り、その中心に、みゃーちゃんに似た貫禄のある女性がいた。

「こら、アンタ達、静かにしなさい!」

その一言で、子供達は走るのを止め、その女性の周りに座る。

なるほど、みゃーちゃんの母親は、三人にとっていちばん身近な理解者であったのだろう。

凄い人だ。

もし俺に娘がいたとして、二人の女性を嫁にしようなどと考える男性が現れたら、それを受け入れることが出来るだろうか。

温厚なカミさんだって、きっと俺と同じだろう。

俺は思わず居ずまいを正し、その女性に頭を下げた。

「通りすがりのジジイでございます」

「これはご丁寧に。居座っているババアでございます」

いや、ニッコニコで華やかなあなたがババアなら、うちのカミさんは太ったミイラ……。

「真矢ちゃんはババアじゃないよ」

いちばんちっこい女の子が言う。

「真矢ちゃんは真矢ちゃんなのです」

ちっこいタマちゃんが言う。

そうか、これが「家」なのだと思う。

一家の大黒柱としての兄ちゃんとは別に、最年長者としてうやまわれる存在がいる。

それは子供達にとって、どれだけの安心と知恵を与えてくれることか。

「親父さん、もし今夜、泊まるところが決まってないなら、ぜひ泊まっていってください。アイツらも喜ぶので」

凄いのは、この兄ちゃんもだ。

もし俺が二人の女性を愛してしまったとして、二人ともを幸せにしようと考えるだろうか。

いや、それを言えば、みゃーちゃんもタマちゃんも凄い。

三人で愛を育むことなど、普通なら考えもせずに否定する。

今日の出会いなどかすんでしまうくらい、この三人が出会ったことは奇跡なのだ。

そしてこの三人と知り合えたことは、俺にとって大きな喜びであるのだ。

「じっちゃん、じいじ、おじいちゃん?」

綺麗な顔をした少年が言う。

「じっちゃんとばっちゃんがいい」

いちばんちっこい女の子が言う。

カミさんが嬉しそうだ。

他人にお婆さんと呼ばれる歳になったが、親しみを込めて「ばっちゃん」などと呼ばれる日が来ようとは。

「こらこら、ばっちゃんは私でしょうが」

「真矢ちゃんでしょ?」

「真矢ちゃんは真矢ちゃんなのです」

他愛のないやり取りに耳を傾けながら、俺は縁側を見た。

いつの間にか、コトラとコサバが寄り添って眠っていた。

初めての場所なのに、安心しきって眠れる場所。

兄ちゃんは、理想の場所を築き上げたんだ。


「ただいまぁ」

玄関からの声に、子供達が駆け出す。

兄ちゃんも腰を上げて出迎えに行く。

「懐かしいお客さんだよ」

という声が聞こえ、意外なことにタマちゃんの方が子供みたいに居間に駆け込んできた。

いや、タマちゃんなんて呼ぶのは失礼か。

スーツを着こなした、立派な大人の女性がそこにいた。

「ら、ラーメン屋の……店員さん?」

「ちゃうわ!」

いかん、つい人様の家で大きな声を上げてしまった。

「あー、ミニ天津飯をサービスしてくれた人だ!」

みゃーちゃんも現れるが、二人とも俺をラーメン屋の店主と認めたくないのか!?

「私の方だけ、水に氷が入ってなかったのです」

へ?

「そんなこと言ったら、私のラーメンにメンマが入ってないことあったよ?」

いや、最後に会ったの、十数年前だよな?

まるで昨日のことのように二人は話す。

けれど悪戯っぽく笑ったみゃーちゃんが、

「おじさん、お久し振り!」

と元気に言って、いつものあの笑顔を浮かべた。

変わっても、変わらない。

「二人とも……立派な女性になって……あれ?」

「えへへー」

俺の視線に気付いたみゃーちゃんが照れ笑いを浮かべる。

「おめでた?」

全体的には昔と変わらずスレンダーなのに、お腹が少し出ていた。

「えっと……三人目かな?」

みゃーちゃんに似た子は二人いる。

やや高齢出産になるが、三人目なら問題ないだろう。

「いえ、五人目です」

だがみゃーちゃんは、ニコニコしながらキッパリと言った。

そうか、そうだよなぁ。

一つの家族なんだから、それぞれ何人目なんて数えないんだよなぁ。

この家には四人の子供がいて、今度、五人目が産まれる。

それだけのことだ。

そしてそれは、とても素敵なことだ。


その夜、有り合わせの食材で作られた晩飯は、これまで泊ったどの宿の料理よりも美味かった。

賑やかで、会話は途切れない。

過去を懐かしんで湿っぽくなるようなことはなく、楽しげに過去を語り、希望に満ちた未来に話が弾んだ。

彼らにはまだまだ未来が広がっていた。

それは眩しくさえ感じられたが、俺とカミさんが疎外感を覚えるようなことは無かった。

夜が更けていく。

虫の声が聞こえてくる布団の中で、いったい、いつ以来だろう、俺はカミさんと手を繋いだ。

共に生きてきた歳月を、手のひらは温かく伝えてきた。


彼らは「この子が産まれたら、顔を見に来てやってください」と言ってくれた。

子供達が、「じっちゃん、ばっちゃん、またね」と挨拶した。

まだ旅の途中だ。

けれど俺は、列車に乗って来る次の旅のことを考えていた。

きっとカミさんも、俺と同じなんだろう。

日本のどこに行ったとしても他には見つからない、また行きたくなる場所、また帰ってきたいと思えるような場所が出来たのだ。

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